暁闇─Maak me wakker─5
◇(四)
私達は仲の良い一家だと、周囲の人間にはそう見られていたかもしれない。毎朝母と一緒に庭の花に水やりをして、慌ただしく出勤する父に母娘揃って手を振って。暖かな白日のもとで、私達はきっと夏の向日葵のように華やいでいた。
学校で描いた私の拙い絵を必ず額装して壁に飾る両親。食卓に並ぶ食器も小物も、私が好きな猫が描かれている。私には可愛すぎるほど可憐な服を頻繁に買ってきたり、試験後には毎回ケーキを焼いてくれたり。ずいぶんと甘やかされていた。自覚できるほどに、愛されていた。
笑い声が絶えない食卓で団欒をする。母の作るご飯は美味しかった。だけどそれを食べ進めて、皿が空いていくにつれて心音がうるさくなる。食べ終えたら、自分の部屋に行かなければならないから。
夜が怖かった。幼かった私が、学友から聞いた幽霊の話に怯え、両親の袖を摘まんでいたことがある。その日は父が一緒に寝てくれた。その日が、きっかけだ。あれから何年経っても、優しい父は決して私を一人にはしなかった。母が寝静まった頃、彼は決まって私のベッドに潜りこんだ。
ただ優しく抱きしめてくれるだけ。ただ優しく髪を梳いてくれるだけ。そんな日々は次第に変わっていった。
「愛しているよ、可愛いアニカ」
父の、心からの純粋な言葉。何度も囁かれる愛情。この人は私が可愛くて堪らないんだ。愛しくて堪らないんだ。ひとえに愛されているだけ。分かっていても、不快感が喉を締め付けていく。
布帛を暴いて冷えた表皮に熱を与える武骨な手。鳥肌が立って背筋が凍えても声を殺すことしか出来なかった。
私が拒絶したら父は悲しむ。父の行いを知ったら母が悲しむ。
日常ってケーキみたいだ。甘くて、優しくて、でも簡単に潰れる。簡単に腐っていく。スポンジの間で私は腐りきった果実。クリームを塗りたくって隠さないといけない。
父から注がれる愛情に夜明けまで耐えればいいだけ。『嫌だ、やめて』そんな刃を絶対に放ってはいけない。『私もお父さん大好き』そうやって甘い蜜だけを絞り出す。
クリームの中でぐちゃぐちゃになった果物に誰も気付かなかった。それでいいと思いながらも、私はそこから這い出てゆきたかった。
街の広場で歌い始めたのは、家を出るお金が欲しかったから。歌うのは好きだ。お腹に溜まった毒を全部吐き出してしまえる。誰にも聞かせられない心の内を、他人事みたいに曝け出せる。
学校帰りに毎日歌った。夕紅が光の幕を下ろしていた。目の前は掻き曇って他人の顔も上手く見えない。だから人目も構わず叫べた。拍手は滅多になく、小銭はごくまれにしか転がってこない。一人暮らしをする資金を稼ぐのに、いったい何年かかるのだろう。
そんなある日、歌い終えた私に通りかかった人が拍手をしてくれた。
赤い長髪が橙色の日光を受け止めて輝く。燃え尽きることのない炎の色がけざやかに揺らぐ。一見、女の人かと思った。彼の端正な顔が柔らかく綻んだ。花笑みを前にして、私は戸惑いながら何度もお辞儀をしていた。
「聴いてくれて、ありがとうございました……!」
「とても良い歌でした。不躾な質問なんですが、君はお金に困っているんですか?」
「え、っと、うん……そう、です。一人暮らし、したくて」
彼は屈んで、私と目線を合わせてくれる。白い肌は陶器みたいで、母が好きな雪花石膏を連想させた。その相貌は透き通った儚さを纏いながらも、鮮やかな翠眼は輝石みたいに色深しい。
彼はにこりと笑ったまま、首を傾けた。
「君の歳だと、雇ってくれる場所を探すのも難しいでしょう。だから良かったら、俺の店で働きませんか。俺の店では硝子製品の販売をしています。お客さんが来たら挨拶をして、お客さんが探している商品の棚に案内をしてあげて、たまにお茶を入れてあげる。それだけでいいんです。大丈夫、店の中で君を一人にすることはありません。分からないことがあればなんでも教えます。住所と月々の給料は、こちらをご確認ください」
「え、えっ⁉」
青年は懐から取り出した手帳にさらさらとペンを走らせ、千切った紙片をこちらに渡す。受け取って見れば、給料として提示された金額は今の私からしたらとても高額に見えた。食い入るように鼻先を紙に押し付けて、零の数を何度も数える。
「こんなに、お金、もらっていいんですか」
「ええ。大した額じゃありません。一年分の給料を渡しても、この街で一人暮らしをするには厳しいでしょう。家を買うのも借りるのも、君が思っている以上にお金がかかりますから」
大人が見ている現実と、社会を知らない子供が描く幻想は、そんなにも違うのかと唇を噛んだ。それでも、毎月確実にお金が入ってくるなら、いつかは必ず家から抜け出せる。何年も現状を耐え続けてきたのだ。あと一、二年耐えるくらい、なんてことない。
その日、私は初めて職を手にした。それでも早く家を出たくて、はした金も惜しくて、まだ歌い続けていた。
私が十五を過ぎてから、日に日に父の愛情は過激になっていった。日中は変わらず活き活きと咲く花。だけど夜に萎れる花弁を、彼は手荒にこじ開ける。暖かな光もないのに咲笑えと、彼は愛を押し付け続けた。
昔は父に抱きしめられるのが嬉しかった。今は、体も心も引き裂かれるように痛い。この痛みを喜べたなら良かった。愛に愛を返せたなら良かった。私が千切れてしまう前に──逃げたかった。
硝子工房ヴェルレーデンで働き始めてから数か月後、クラップロース教団の教祖であるローデヴェイク様に声をかけられた。毎日広場で歌い続け、小銭を求めている子供がいる、と、近隣住民が彼に相談をしたらしい。彼は今すぐにでも住まいを用意してあげられると言ってくれた。
私は両親に嘘を吐く。学校に寮が出来て、寮に入るから当分家には帰らない。寮が出来たのは本当だ。だけど入寮には莫大な金がかかる。私の今の貯金では入寮出来なかったが、両親は私の仕事事情を細部まで知り尽くしていない。
クラップロース教団に入る、と、正直に言えなかったのは父が宗教を嫌悪しているから。許してくれないのは目に見えていた。
教団に住まわせてもらってからは平和だった。夜を恐れることはなかった。ローデヴェイク様が私の痛みを何度も聞いて傷を軽くしてくれる。私を脅かすものは何もない。初めて、本当の意味で『自分の部屋』を与えられたみたいだった。
「だけど」
──私は、一人語りをそこで区切った。喉が渇いていた。黙って聞いてくれている店長の顔を、見ることが出来なかった。
臨時休業になった店内には私達しかいない。鍵を掛け、硝子製の外壁をカーテンで覆い隠し、私達はテーブルを挟んで向かい合っていた。カーテンを開けばきっと夜が降りている。少しだけ肌寒くて肩を抱いていたら、店長が温かい紅茶を淹れてくれた。
私は紅茶を一口呑み込んで、震えた唇を動かした。
「私の嘘がバレたんだ。私が、クラップロース教団にお世話になっているって話が、近所の人からお父さんに伝わって。一週間くらい前かな……学校が終わって帰ろうとしたら、校門で待っていたお父さんに、家に連れ戻された」
「……それで君は、『静寂の聖域』に何日も帰っていないんですね」
「もう、帰れないよ。お父さんが許してくれない。嘘を吐いた私に、お母さんも冷たくなって、家にいるのは苦しいけど、噓を吐いた罰なんだろうな」
学校にいる時間とこの店で働いている時間だけが救いだった。父の目色ばかり窺う日々は、息苦しかった。空気中に見えない針が無数に泳いでいるよう。呼吸をするたび喉が痛んで、涙が込み上げる。
それでも実家の中で私は笑い続けた。『もう変な宗教に騙されたりしないよ』なんて、言いたくないことまで言って両親の機嫌をとる。『静寂の聖域』の方がよほど優しかった。よっぽど自由だった。私が、私でいることを許してくれた。
飴色の水面がぼやける。視界は湯気で白んでいた。私は紅茶を見つめたまま、芳香に浸っていた。この香りが好きだ。実家の紅茶とも、『静寂の聖域』で出される紅茶とも違う茶葉。これを嗅ぐと安心する。私が、優しい場所にいることを実感できる。
その甘さをもう一度、口に含んだ。
「悪夢は、家に連れ戻される前から見てる。今月に入ってから『静寂の聖域』でもお父さんの夢を見ていたんだ。毎日、お父さんに抱かれる夜を、夢に見てた。だから眠れなかった。正夢にならないことを祈って、そんな祈りは届かなくて……実家に戻ってから、私はまた、元通りなんだ」
渇きが収まらなくなっていく。紅茶を一気に飲み干してしまえば、虚しさが込み上げる。空っぽだった。私の内側にある器も、きっとそうだ。
気休めを注いでも注いでも啜られていく。誰かからもらった優しさや嬉しさが、父に捨てられていく。すぐに空っぽになってしまう。剥き出しの底を抉られて、これが愛なんだと囁かれる。
父の囁きに洗脳されていればよかった。もっとちゃんと、『私』を壊してくれればよかった。
沈黙は薄い布のようで、破いていくと高く掠れた音が鳴る。震えた息で何度もしゃくりあげていた。何を言えばいいのか分からなかった。目に見えない布地を裂いて、千切って、ようやく声が出せる。喉が、痛い。
「ふとした時に、全部、忘れてしまいたくなる。お父さんにされたことも、お父さんのことも、全部忘れて、私の好きに生きていきたい。でもそれって親不孝者なのかな。こんなにも愛してもらってるのに、こんなにも沢山与えてもらってるのに、お父さんのことを気持ち悪いって思ってしまう私は、悪い子なのかな」
「……アニカ」
「お父さんにもお母さんにも笑っていて欲しいよ。二人のこと、大好きなままでいたいよ。大好きだった。お父さんとお母さんが愛してくれた私のままでいたい。良い子でいたい。嫌だとか我儘言わないで、嫌なことでも喜んで、私だけが全部我慢していれば全部守れるんだ。私が良い子でいればよかったんだ。私が、私が良い子じゃないと、全部壊れちゃうんだ……! なのにもう、もうやだ……もう耐えられないよ……!」
硝子が砕ける音が高く響いていた。滲んだ視界で手元を見下ろすと、力任せに置かれたティーカップがバラバラに崩れていた。店長に謝らなきゃ。謝らないといけないのに、嗚咽ばかりが前に出て言葉は殺されていく。
出来損ないのごめんなさいを必死に紡ごうとしたら、両手を包み込まれていた。彼は険しい表情で私の手を見つめていた。「怪我は無さそうですね」と彼が呟く。ネオングリーンの瞳が今度は真っ直ぐに私を射抜いた。
優しい色だった。日向で揺蕩う、枯れ落ちない若葉の色。だけど、彼の息吹はかすかに枯れていた。
「アニカ。君は、良い子だ。沢山我慢して、親心を守ってきて。もう、我慢しなくていいんです。君はもう独り立ちしていい。ずっと耐え続けたら君が壊れてしまう」
「でも、私が、私の気持ちを優先したら、お父さんとお母さんが……」
「子供の足枷になる親なんていなくていい」
掠れた低声は刃毀れしたナイフみたいだった。私の手を握りしめながら、彼は何もない場所を睨めつけていた。見慣れた恩顔が、今は見慣れない冷眼を前髪の影に潜めている。
彼の長い睫毛が静かに下る。私が呼吸を整えている間、彼は静黙していた。
砕けた硝子達が均衡を失い、机上に崩れる。涼やかな音が鳴り満ちて、彼は睫毛をほどいていた。先程よりも温和な目がそこにあった。
「子供が巣立っていく姿を喜べず、その足を掴んで縛り付ける親なんて、切り捨てていいんです。歪んだ執着は愛ではない。俺は、そう思います」
「店、長……」
「……でも君は優しいから、捨てられないのも分かっています。なら、完全に捨てなくてもいいんですよ。忘れたい時に忘れて、思い出したい時に思い出して、会いたい時に会えばいい。身勝手な愛を、愛だと受け止めなくていい。君の父親がしてきたことは、愛を騙った暴力だ。ただの、暴力なんです。君を騙す言葉に耳を貸さないで下さい。君は君の心を信じて下さい。君が内側で『逃げたい』と叫ぶのなら、今は逃げるべきなんです」
「っ、ぅ……」
宥めた涙がもういちど溢れ出す。彼の手がそっと離れた。ハンカチを差し出され、私は布地で両目を押さえて俯いた。全身の震えが止まらない。堪え続けた本心が溢れ出し、目の奥を焼いていた。
幼い子供みたいに声を上げて泣きじゃくる。彼は何も言わず、私が泣き止むまで見守ってくれていた。
啜り泣きが響くようになった頃、店長が思い出したように離席していた。
「……そうだ、ローデヴェイクさんから、チョコレートを預かっていました。辛い過去を語った後のご褒美なんですよね。ほら、食べて元気を出してください」
「ん……」
机上に転がったキャンディ包みのチョコレート。それは確かに、ローデヴェイク様がいつもくれるものだ。甘くて、果実のソースが入っていて、美味しいご褒美。私は濡れた唇にチョコレートを押し付けた。涙のせいでほんの少し塩気が混じる。それでも食べ慣れた風味を頬張って、口角が緩んだ。
私を気にかけてくれる人達がいる。それを実感して、呼吸がもつれた。
店長はキッチンからグラスを持ってきた。一杯分の水が、色硝子で薄紫に染まっている。そのグラスは彼が私のために作ってくれたものだ。働き始めたばかりの頃、彼の作品作りに興味があってねだった。『私のことを考えてグラスを作って欲しい』なんて無茶な要望に、彼が選んだ菫色。
顔を上げたら、私達の目路は一糸で繋がった。彼はいつだって私の目を見て話してくれる。
「アニカ、君の悪夢を、俺が狩ります。そうすると君の記憶から、恐らく父親に関する情報が全て切り離されます。ただ、完全に忘れるわけではありません。硝子の形になって残ります」
「店長が、お客さんに説明してるの、何回も聞いたことある。思い出したい時はその硝子に触れて眠ればいい。完全に忘れてしまいたいなら、硝子を砕けばいい……」
「そうですね。……取り除いても、構いませんか。君の痛みを」
言いながら彼はひどく傷付いたような顔をする。まるで私の表情を鏡に映しているみたい。私と同じ傷を、その身に刻もうとしてくれているみたい。
注がれる憂いを受け止めて、私は苦笑した。
「今こんなにも忘れたいのに、忘れたら、虚しいのかな。悲しいのかな。愛なんて要らないのに、忘れたら欲しくなっちゃうのかな」
「……君は、本当の愛を知るべきです。友情でもいい。君を好いてくれている人達と、君らしく過ごせばいいんです」
「そっか……じゃあ、店長に教えてもらえばいいな」
濡れそぼった頬は動かしにくかった。けれども彼を見上げたら自然と笑顔が生まれていく。『笑わなきゃ』と思わなくても笑えることに、心から安堵していた。いつも通りの嬉笑を顔いっぱいに広げてみせる。
「だって、私は優秀な従業員だろう? だからこれからも、もっともっと褒めて」
「……そうですね」
彼の掌が、私に影を落とす。撫でて良いのか、と問いかけるような沈静を察して、私は大きく頷いた。暖かな手が弱い力で頭を撫でてくれる。壊れ物を触る手つきに、私はこっそり笑っていた。彼はきっと、硝子製品にもこうやって触れているんだろう。
紙の擦れる音に黒目を持ち上げる。私の傍にはグラスと、紙袋が置かれていた。薬局の名前と百合の刻印に見覚えがある。ファビアン先生がくれた薬も、確か同じ薬局のものだった。
「アニカ、これはミハエル先輩が俺にくれた睡眠薬ですが、俺は要らないので君に飲んでもらいたいんですけど、いいですか? 君が眠りについたら、俺は君の悪夢に入ります」
「うん、わかった」
紙袋を広げて見ると、三角形に折りたたまれた紙がいくつも入っている。そのうち一つを摘まみ上げ、私は包装されている粉薬を口に含んだ。苦味に眉を顰めてグラスを煽る。数回喉を鳴らしてグラスを置けば、店長がもう一度頭を撫でてくれた。
革張りの肘掛けに凭れかかる。まだしばらく眠れそうになかった。試しに瞼を下ろしてみて、不安になる。真っ暗だ。瞼の裏には誰もいない。だけど暗室の人影を彷彿とさせ、鳥肌が立つ。
「……眠ったら、また、お父さんのことを夢に見るのかな。……怖いな」
「大丈夫です。俺が傍にいます。可能な限り早く、君を起こしますから」
店長が手を握ってくれた。自分の手が痙攣していたことに、握られてから気が付く。彼の体温が染み込んで、心拍が落ち着き始めていた。彼の腕の中で眠りたくなる。そんな強欲は、呑み込んだ。抱きしめて、と言いかけて。私は小さな溜息を吐いていた。
「おやすみ、店長」
「おやすみなさい、アニカ」
彼が髪を梳いてくれた感覚は幻想みたいに淡い。眠れない子供が盗み見するように彼を一瞥した。彼はすぐに気付いて相好を崩す。初めて会った時と、同じ顔ばせ。どうしてか泣きたくなった。息が苦しい。
目を閉じて歌を口ずさむ。彼が好きだと言ってくれた歌。私の痛みを、全部吐き出した歌。
抱擁は優しいもの、というのは幼子の幻想だった。自分が子供でも、相手が大人ならばそこに汚い欲が付き纏う。私にとって異性との抱擁は、この先ずっと、汚れていて不快なもの。そう思っていた。
だけど彼との抱擁はそうではなかった。校庭で抱きついてしまった時、思い知った。彼はただ静かに私を受け止めてくれた。清らかで、温かかった。
この人は父とは違う。それを確かめたくて、実感したくて、それに浸っていたくて、どのくらいの間彼を抱きしめてしまっただろう。今思い返すと恥ずかしくなる。
大丈夫、と彼が繰り返した。彼の言葉はいつも私を励ましてくれる。だから心音は落ち着いていた。
まどろみが、心地よかった。




