暁闇─Maak me wakker─3
(二)
しん、と掻い澄んだ店内に、物音だけがよく響く。新作のグラスで商品棚の隙間を埋めていくと、並ぶ商品たちは明かりを浴びて華やいでいた。
点々と咲く色硝子の色彩は、印象派の画家が描いた花束のようだ。赤、青、紫、色とりどりの花は硝子の中で枯れることなく咲き続ける。
品出し用のワゴンには一点だけグラスが残されていた。それは昨日リーセロットと作ったもの。取り入れたアイスクラックの罅加工によって、その煌めきは雨に濡れた窓硝子を思わせる。硝子の中で赤い花弁が舞い散る。篠突く紅雨の色差しが、光を強く浴びると夕焼けのようにも見えた。
明確な形を描かずに乗せられた色は人それぞれに異なる解釈を与える。赤から花を連想する人もいれば、炎を連想する者もいる。曖昧な輪郭から思い出の形に像が結ばれていく。雲の形に名前を付けるようなものだ。明瞭な絵画ではないからこそ、硝子に宿された色は誰かの思い出に寄り添える。
リーセロットは、このグラスを光にかざして、何を想起するのだろうか。
彼女の反応を想像したら自然と笑みがこぼれていた。ワゴンの下段から新聞紙を手に取り、彼女に渡すグラスを梱包していく。そのまま渡しても良かったが、せっかくならば包み紙を開く楽しみがあったほうがいい。
梱包を終えてワゴンをバックヤードに片付けていれば、暖簾に髪が引っかかって崩れた。乱れ髪は煩わしく、紐をほどいた時、来客を知らせる鈴が鳴った。
「っ、いらっしゃいませ」
気抜けていたため慌てて営業用の顔を貼り付けると、客の男は真っ直ぐに俺を見つめて瞠目していた。
男には見覚えがある。先日、アニカに連れられて行った『静寂の聖域』──クラップロース教団の、教祖。ローデヴェイクが、咳払いをしてから黒い外套の襟を正していた。
「驚いたよ。君は、髪を下ろしていると本当にフランカにそっくりだな」
「まさか。母に似ているのは髪だけですよ。すみません、結び直そうとしていたので、接客をするにはだらしのない姿を晒してしまいましたね。何かお探しでしょうか。食器や小物、インテリア雑貨などは揃っていますよ」
「ああ……客として来たわけじゃないんだが、何も買わないのも申し訳ないな。食器でも見て行こうか」
「食器でしたら、そちらの棚に。ですが、無理にご購入いただかなくても大丈夫です」
長い髪を後頭部まで持ち上げ、紐で括っていく。ローデヴェイクは食器の並ぶ棚の方へ歩いていった。彼は商品棚よりも背が高く、真剣な目顔で食器を吟味しているのがカウンターからでもよく見える。
髪を結び終えて彼の様子を窺っていたら、彼は一点のグラスをカウンターに持って来た。赤と橙の色硝子を混ぜた夕照のグラスだ。代金を受け取って梱包をしていく。包み紙の擦過音を遮り、彼が朗々と開口していた。
「良いグラスが沢山あったが、今のグラスがとても綺麗な色だと思ってね。懐かしい気持ちになる」
「それは良かった。お気に召していただけたのなら幸いです。──どうぞ」
「ありがとう。……それで、本題に入らせてほしいんだが。ここ数日、アニカが帰ってこないんだ。何か聞いていないかい? ここに泊まっていたりするのかな」
慮外な問いかけに、俺は息を飲んでいた。ローデヴェイクの面差しにはアニカに対する心配だけが滲んでいる。それでも糾問されている気分になって、背筋を伸ばしていた。ふ、と息を吐いてから彼の質問を脳内で反芻し、眉根を寄せた。
「いえ、何も聞いていませんし、ここにアニカを泊めたこともありません。……昨日アニカは、友人達と観劇に出かけていきましたが、その後そちらに帰っていませんか?」
「ああ。学校に連絡しても良かったんだが、過保護すぎてもアニカが嫌がるかもしれないと思ってね。それに、彼女なりに何かと戦っているのかもしれないし、暫くは様子を見ようかと思ったんだが、心配で」
「……なるほど、実家に戻っている可能性もありますよね。ですが、そうだとしたらローデヴェイクさんに相談するはず。アニカと喧嘩でも?」
「いや、なにもない。ウチではいつも通り過ごしていたよ」
アニカが実家を出たがっていた理由について、俺は詳しく知らないが、ローデヴェイクは知っているのだろう。実家、と俺が口にした時、彼は苦虫を噛んだような顔をしていた。
彼女の現住居である『静寂の聖域』に帰っていないのであれば、どこで寝泊まりしているのか、確かに心配だ。彼女の実家が彼女にとって安全な場所である保証はない。公園等で夜を越していたなら危険すぎる。
ここ数日、とローデヴェイクは言った。つまり何日も前からアニカは何らかの隠し事をしていることになる。それなのに、思い返す彼女の姿はいつだって天真爛漫で、変わったところなど思い当たらなかった。
本当に? 彼女は、空元気ではなかったか? 暗い顔を一度もしていなかったか? 彼女の目の下の隈は、いつからだ?
傍にいたのに気にかけてやれなかった己が不甲斐ない。考え込むように机上を睨めつけていたら、キャンディ包みの菓子が二つ、転がり込んだ。
顔を上げるとローデヴェイクが柔和に微笑んでいた。
「アニカが君の前でもいつも通りだったなら、きっと大丈夫だ。それはアニカが来たらあげてくれ。チョコレートは彼女の好物だからね。ちなみに一つは君の分だ。ウチで作っている特別なチョコレートだから、貴重だぞ」
包み紙をそっと持ち上げる。チョコレートなど、もう何年も口にしていない。あまり食べたことがないかもしれない。
思い出したのは薄汚れた路地裏。何か、嫌な事があって家を飛び出した日だ。通りかかった大人がチョコレートをくれた。過去の俺がキャンディ包みの捻りをほどいて、丸いチョコレートを口に放り込んで。
頭が痛んだ。意識は現前に引き戻され、俺はローデヴェイクから受け取ったチョコレートを眺めていた。
包みを剥がして口に含む。中には苺ソースが入っており、甘すぎず、確かに美味しかった。苺の他に違う果実も混ぜているのか、残る風味は変わった味がした。
「君の口にも合ったかな?」
「……ええ、美味しいですね。こっちはアニカに渡しておきます。ありがとうございます。……もう少しで彼女も出勤する時間ですが、店内で待ちますか? 向こうにソファとテーブルがあるので、お茶でも入れますよ」
「そうだな……なら頂こう。飲み終わるまで話し相手になってくれるかな?」
「構いませんよ。閑古鳥が鳴いていますしね」
彼を壁際のテーブル席へ案内し、俺は角に備えられているキッチンへ。茶葉を用意して湯を沸かし始める。ポットもカップも耐熱ガラスを使った手製のものだ。注いだ時の水色をあざあざと楽しめる。
ローデヴェイクの正面にソーサーとカップを置き、淹れたばかりの紅茶を注ぐと、芳しい茶葉と柑橘の香りが広がった。彼は「ありがとう」と片笑んで紅茶を一口すすっていた。
彼の正面に腰を下ろして、話題を探すように視線を彷徨わせる。アニカについて、教団について、彼の日常について、質問の手札はいくらだってある。だが、先に札を出したのは彼だった。
「君は、お母さんが亡くなった時のことは覚えているのか?」
まるでジョーカーを出された気分だ。けれど彼から見た俺との関係性を考えたら、話題が母のことになっても仕方がない。彼にとって俺の母は、親しい友だったのだろうから。
紅茶の湯気で白む視界に目を細め、手持無沙汰な五指を絡めた。
「曖昧に、ですね。あまり思い出さないようにしています。過ぎたことなので」
「大人だな。抱え込んで辛くなっていなければいいんだが。辛い過去は誰かに話して楽になることもあるから……話したくなったら、いつでも話しておくれ」
優しい口吻に、肩の力が抜けていく。先日、リーセロットに招かれて生家を訪れた時、母と最期に過ごした日常を清に追想していた。ずっと思い出さないように蓋をしていたものだ。こじ開けられた蓋は壊れたようで、上手く嵌まらなくなってしまっていて、腐った中身から目を逸らすことしか出来ずにいた。
吐き出せば、腐敗した澱を洗い流せるのだろうか。
血の海の温度を、肌がまだ覚えている。「あの日」と、口から零していた。生温い血液の錯覚から逃れるように、己の腕に爪を突き立てていた。
「あの日、パンケーキを、作っていたんです。台所で、母と一緒に。俺が裏返したパンケーキが綺麗に焼けていて、母が褒めてくれて。……嬉しかったのを、覚えています」
「……そうか」
「何枚も焼いているうちに、玄関から音がして。母は、やっと帰ってきたね、って笑ってて。母は誰かを待っていたんでしょう。だからパンケーキを、その人の分まで焼いていた。だけど家に入ってきたのは、母が待っていた人じゃなかったんです。銃声が響きました」
筒音が耳底から蘇ってくるようだった。銃声に鼓膜を焼かれて、幼い俺はボウルを取り落としていた。金属音は悲鳴と発砲音に紛れていった。母が、俺の名を呼んだのをハッキリと覚えている。
「一発目は外れて。母はその間に俺を抱き込んだ。銃声は止みませんでした。母が俺を抱きしめたまま倒れ込んで、俺は必死に母にしがみついていました。動けなかった。もうやめてほしくて、相手を見上げたら、その人影は誰かに撃ち抜かれて崩れ落ちていました。その誰かがきっと、母が帰りを待っていた人です」
ローデヴェイクのカップがソーサーに置かれて、硝子の音が響いた。幻聴が静まっていく。紅茶の香気が、この場にありもしない腥臭を掻きのけてくれていた。
彼はティーポットを持ち上げ、空になったカップに紅茶を注ぎ直す。それをソーサーごと俺に差し出す彼。気遣いに「ありがとうございます」と返して、茶器を受け取った。
口付けた紅茶が食道を温める。己の喉が乾ききっていたことを思い知る味わいだった。
「……語ってから気付きましたが、ローデヴェイクさんは元警察官でしたよね。なら、母の事件については、俺よりも詳しいんじゃないですか?」
「そうだな。……君は、父親のことを覚えていないのか? フランカが撃たれた後、犯人を射殺したのは君の父親、レイナウトだ。犯人はレイナウトが過去に捕まえた犯罪者だった。自分を逮捕したレイナウトに対する復讐で、フランカは殺されたんだ」
レイナウト、と、唇の裏で呟いた。父の名を口にしたところで、どの記憶とも結びつかなかった。リーセロットの養父であり、俺が夢魔を狩った男性。その姿と、その名前とを繋げてみても、彼の存在は俺の中に残っていなかった。
瞑目した母の腕の中で、犯人を殺した男を俺は見上げたはずだ。けれどその姿形は逆光で黒く塗りつぶされていて、レイナウトという男と重ならなかった。
紅茶を一口飲み下し、静かに頷きを返す。
「そう、でしたか」
「ああ。フランカは本当に残念だったが、君だけでも生き残ってよかった。それに、君が独り立ちしてレイナウトの元を離れられたのも、良かったことだと私は思うよ」
穏やかな声遣いで紡がれた台詞に、俺は軽く目を伏せていた。親の元を離れられてよかった、なんて第三者に言われるのは、家庭環境に問題がある可能性が高い。そもそも、過去の俺自身が意を決して父の記憶を砕いたのだ。だから思い出す必要がないのは分かっている。
それなのに今更、砕片を掻き集めてどうにか形にしようとしていた。原型を留めぬ破片が脳髄を抉っても、痛みの先にある思い出を望んでいた。
忘れた方がいい記憶なんてない──リーセロットはそう言った。父親のことを思い出せと、彼女は透き通った眼で真っ向から俺を突き刺した。そうして貫かれた心臓の熱が、ずっと、燻っている。
「あの」
真っ直ぐにローデヴェイクを見つめた。過去を思い宥らんでいた彼が、こちらの視線に気付くと真摯に対向してくれる。潤したばかりの唇が乾いていく。規則的な脈を忘れた形無しの息差しが、ひどく震えた。
「父についてはなにも覚えていないんです。貴方は、俺と父がどんな関係だったか知っているんですよね。仲が、悪かったんでしょうか。俺は父に……嫌われていましたか」
息が。
息が、足りなかった。吐き出した側から肺が締め付けられて窒息していく。紅茶を飲んで落ち着こうと思ったが、今は何も口にしたくなかった。呑み込めずに戻してしまいそうだったから。
ローデヴェイクは瞼を持ち上げていた。スフィアカットのアクアマリンが、俺の影を映し込んでいた。天色の虹彩の中で形影は揺れる。耐え切れずに目を逸らした俺は、きっと彼の蒼穹で暗雲となっただろう。
「すみません。やっぱり、なんでもないです。忘れてください」
「……君は愛されていたよ。君が、その愛に押し潰されてしまいそうなほど」
深憂に満ちた音吐だった。まどろみの中で聴くような、幼子を寝かしつけるような、優しくて静かな声だった。
彼を窺い見ると、彼は困ったように笑っていた。俺はどんな顔をしているのだろう。喉の奥に、苦みが残っていた。酸味とも似ていた。それが血の後味だと気付いて、唇を噛んだ。真新しい血が染み出すことはなく、噛み切った箇所も分からなかった。
彼の影が机上を絵取る。彼は俺の座右からティーカップを持ち上げると、それを一気に飲み干してしまう。グラスの底を俺に見せながら彼は朗笑した。
「飲み終わってしまったな。私はこれで失礼するよ。アニカによろしく」
「……ええ。少しだけ、話を聞いてくれてありがとうございます」
「何かあったら、いつでも『静寂の聖域』にきてくれ。雑談でも相談でも、なんでも聞くからね」
彼は深紫のジャケットを整え、黒い外套を翻して、緩慢な足付きで退店していく。戸を潜った彼に会釈をしてから、俺は茶器を片付け始めた。
流し台の蛇口をひねって手を濡らす。食器を洗おうとしただけだったが、その冷たさに浸っていたくなった。血脈が熱くて堪らなかった。
冷静になった頭で、耳朶に刻まれたローデヴェイクの言葉をなぞる。見えない筆致の一字一句を、確かめるように。
「……愛に、押し潰され……」
それはどこかで聞いたフレーズだった。記憶を遡って、遡って。ようやく想到したのは激情を叫ぶ歌声。
俺が初めて聴いた、アニカの歌だ。懐かしさに口端が緩んだ。彼女の、彼女らしい歌声を、聴きたい気分になっていた。
壁掛け時計の秒針が乾いた響きで寂静を打つ。アニカの就業時間には、まだ早かった。




