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第八話 裂ける意思

 さて、あの熱狂と衝撃、そして「非道」への怒りが渦巻く広場から、配布されたビラを片手に立ち去る人影があった。


 彼は自らの家、エレリア市西部の一角にある教会の扉を閉めると、意味もなく足音を殺して階段を上り、寝室へ逃げ込むように入った。内側から錠を下ろし、ようやく寝台に腰を落とす。


 手には件の「官報」がしわくちゃに握りしめられていた。


「これは……、どういう事だ……?」


 彼の名は、コンラート・フォン・エップシュタットという。


 彼はこの教会と祭司の位を代々預かる家の当主である。

 ちなみに、エップシュタット家もまた伝統ある家系ではあるが、革命以前から裕福とは言い難かった。あくまで「貴族にしては」の話であり、食うに困る程ではなかったにせよ。


 故に彼は、今では公言こそしないものの、我こそはエルブリヒトの伝統と正義を担う王臣の一員であると誇りを持って自負していた。

 自身の息子が国王発案の王后脱出の計画を持ち帰り協力を求めた際、彼は一も二もなく賛同し、王都の近衛隊や廷臣達と、その脱出計画の調整のためにやりとりした手紙こそ不要になれば燃やしたが、王直筆に献身を労う手紙は祭壇の聖像の下に保管してあるほどである。


 その「古き良き人々」という、もはやマイノリティの一人である彼にとって、この「王命」は日々の生活に警戒を要させるものであっても、後悔や疑念を挟むものである筈がなかった。


 その紙を見るまでは。


「父上、お戻りになられましたか?」


 寝室から繋がる書庫の扉の影から身を出したのが彼の息子のヴェルナーである。

 近衛竜騎兵小隊に属する中尉であり、先週病床の父を見舞うためとして帰省している筈の男であった。


「夕刻過ぎには陛下の御一行がウェルス橋に到着なされる筈です。故に、まもなくお別れする事となるかと……」


「ヴェルナー!」


「ち、父上?」


「……あ、いや、すまん。……とりあえずこれを読んでくれ」


 そしてコンラートは握りしめた「誘拐事件」の報道を息子へと手渡した。


「で、出鱈目です!このような物!王后陛下は陛下自身のご意志でお逃げになられており、隊長はそれに同行している筈です!父上は私よりも保衛委員会をお信じになられるのですか?!」


「違う!……いや、どうなんだ……、わからない……、私にはわからない……!」


 コンラートは頭を掻きむしる。


「ヴェルナー……お前は、いや、お前を疑っているわけではないのだが、お前は本当に陛下の為の人間であるのだよな?」


「父上?!」


「違う。いや違うんだ。お前の忠義は知っている。だが、お前以外の、ここに来るまでの、そしてお前の後の人間の中に、シルクラッドの手は本当に入っていないのだな?!」


「な、何を申されるのですか!」


「ヴェルナー!私はな、国王陛下の為ならこの身を捧ぐ覚悟はある!陛下のご意志にも奉仕するつもりだ!だがな!あの僭称者の、シルクラッドの為なんぞに犬死になんてしようものなら……!」


「父上!話を聞いてください!!」


「話……、そうか話か!せめて、王都で何が起こったのか、王后陛下は自らお逃げになられる事ができたのかだけでもわかれば……!ファーレンス伯に、いや彼は居ないんだった、それでも市中会の議員に知らぬ仲ではない人間はいる!彼らならば何かが……!」


「落ち着きください!そのような事をすれば私達は破滅です!ツェルヒンの思う壺です!奴はその疑念の火で、私たちのような隠れた反体制派を炙り出そうとしているに違いありません!」


「ならばどうせよと!」


 その時、激昂する父親を抑えたのは、息子ではなく扉向こうからの呼びかけであった。


 こん、こん。と、控えめなノックが二度、扉を叩いたのである。


「……っ!な、なんだっ!!」


 咄嗟に飛び出そうになった悲鳴を何とか飲み込み、応答すれば侍祭のロビンの声であった。


 既に居るはずのない息子の声を聞かれたかと一瞬蒼白になるも、そもそもそれを警戒し、教会内の人間を方々へ出していたことを、彼は思い出した。


 尤も、この教会の建物もそろそろ補修の寄付を募らねばならぬ状態ではあるので、無目的で無意味に散らばらせているわけでもない。

 今残っているのは選りすぐりの、信用できる人間だ。


 その筈であった。


「表に、お客さまがお見えになっています」


「……今は体調が悪い!お引き取り願え!」


「ですが……その」


「なんだ!」


「警保局の方、でして……」


 扉向こうから聞こえる緊張を含む声に、今度は父子の両方が言葉を失う番であった。


 息子を書庫の奥に隠れさせ、気付け用の酒を煽り、震える脚を何とかなだめたコンラートはゆっくりと階段を降りて玄関へとたどり着いた。


 玄関には薄褐色の制服に円筒形の制帽を被った若い巡査が一人待っていた。


「エップシュタットさん自らご対応いただきありがとうございます。自分はエレリア市警備保安局地域課のモーラスと申します」


 彼はあくまでも礼儀正しくコンラートに挨拶した。


「突然の訪問申し訳ございません。公民保衛協約委員会の決定により、市街地警戒体制の強化が敷かれる事となりました為、当市西地区におけるご協力を願いたく思い、伺った次第です」


「あ、ああ。もしかして王后陛下の事件の件なんだろうか」


「おや、ご存じでしたか」


「さ、先ほど広場でな。広報官から聞いた」


 何をどう話せば失言にはならないかを常に警戒するコンラートの内心をよそに、モーラス巡査はむしろ手間が省けてよかったと顔を緩めて、以下の「決定事項」を伝えたのであった。


「そうであればお話が早い。以前より市門の通行に制限はあったと思うのですが、本日正午より1週間、誘拐犯の捜索を目的とする国民衛兵隊の検問の強化が実施されます」


「この為、市門の通行処理における問題から、運送事業者の市内への入場を優先し、市民の皆様のエレリア市外への出立は原則としてお断りさせて頂く事となります」


「鉄道にご乗車の場合は旅券と身分証の提示を、そして旅程の事前提出をお願いします」


「また、大変申し訳ございませんが、しばらくの間、郵便の内容は委員会の担当官が確認する事となります」


「開封後は我々で再封印を行い、私信内容の秘匿については細心の注意を払い、適正に処置されますので、ご了承頂ければ幸いです」


「以上についてはあくまで非常時における時限措置です。来週中には解除されると思われますし、無論、王后陛下のご安全が確保されましたらば直ちに解除される筈ですので、申し訳ございませんがご容赦ください」


「もし、何かしら危急の用がありましたらば当局までご連絡ください」


「それでは、失礼いたしました」


 そして「通達」を終えたモーラス巡査は帰って行った。


 やはり礼儀正しく、コンラートに対する敬礼まで添えて。


 逮捕、暴行、尋問。


 コンラートが覚悟していた試練は一切始まる事がなく、一切の苦難も発生しなかった。


 しかし、それは革命政権に対する彼の忠誠や演技力の勝利を意味するものではない。


 ただ、その必要もなかっただけの事である。


 イシドール・ツェルヒンは、コンラートという王室信望者という点を見つけ出し、これを除去するのではなく、エレリアという空間に蓋をする事でいとも容易く彼を無力化したのであった。


 彼の息子、ヴェルナーは街を出ることができなくなった。


 いや、身一つであればいくらでもやりようはあるだろうが、交換用の馬、それも二頭を伴っての隠密行動は流石に困難を極めよう。


 しかし、一旦市内から離れ、近隣の村で調達するとしても走って向かうには流石に遠く、汽車を使うわけにもいかなかった。


 そして、その事を移動中の王后陛下はもはや言うまでもなく、王都に伝える事すらできやしないのである。


 コンラートは、広場からの帰宅時から着用したままであった外套のポケットに手を入れた。

 指先は小さい金属に触れた。


 それは書庫の鍵であった。


「……国王、陛下。そして、王后陛下……」


 コンラートは、自身に残された選択肢が、もはや一つしかないように思えた。


 彼はまたも階段を上り、自室へと入る。


「この不忠者に、ご慈悲を。この裏切り者に、お許しを……」


 彼の眼前には書庫の扉がある。


 彼はその鍵穴に、鍵を差し込み、回した。


 カタンと小さい音がする。


 彼は施錠したのだ。その扉を。


 愛する息子を守る為だけに。


「申し訳、申し訳ございません……」


 木を叩く糾弾の音が彼の耳に届いていた。


 しかし、彼の心には、もはや恐怖すら残されていなかったのである。

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