第十話 綻び
北部エルブリヒト第一の都市は、当然リューテトゥルムである。
では第二の都市は何処かと問えば、多くの者はエレリアの名を挙げるであろう。
故に、かつての王政期において、エルブリヒトで初めて開発された鉄道はこの二市を結ぶものであったのは自然な帰結である。
そして当然、それ以前においても二市を繋ぐ街道は国家の大動脈であった。
アンゲルフェルスは、その街道沿いにある町である。
リューテトゥルムを州都とするインゼルガウ・エルブライヒス地圏と、エレリア市を州都とするミッテル・ロイタール地圏。
その境目に位置する、古くから中継地として知られた町であった。
だが、鉄道の開通により、二市の移動にかかる時間はおよそ四分の一となった。
結果、宿場町としてのアンゲルフェルスの価値は大きく損なわれたのである。
なにせ、昼前にでも駅に飛び込めば、日のある内にすら列車はエレリアに到着するのだから。
人々は馬車ではなく客車に揺られ、荷は街道ではなく鉄路を通るようになった。
その為に街道沿いの馬屋や酒場、車輪職人や鞍職人の多くは板戸を下ろし、残る僅かがかつての賑わいを懐かしむ商売へと追いやられていた。
しかし、鉄道の存在はこの街を完全に歴史の中に埋没させた訳では無い。
後にアンゲルフェルスは、国際港デ・ハルヴから始まりカルヌートやエシュタン、ライムス、ブルクセルを結ぶ「首都外郭横断線」と、既にあるエレリアまでを結ぶ「南西幹線」との交差駅となり、往時の繁栄は鳴りを潜めどもその名前は確かに語り継がれている。
無論、そこに至るまでにあった苦難の時は決して無視すべきではないが、今はそれを語る時ではなかろう。
ともあれ、当時この町は、古い街道の上で朽ちかけながらも、新しい鉄道の陽炎を待つ場所だったのである。
王后一行のアルバニー馬車がこの町にたどり着いたのは、午後一時過ぎのことであった。
「陛下、見えました。聖エウトロピウス教会の鐘楼です」
御者席に座るステファン・マイエンバーグ少尉の声が、後部の小窓越しに車内へ届いた。
ルクレツィアは返答の代わりに小さく頷いた。
声を出せば、その声ごと胃の腑が喉へせり上がりそうであったのである。
自然と物理法則の暴威に文字通り揺られ続けた彼女の顔の血の気は引き、朱の唇は乾き、一方で額には脂汗が浮かんでいた。
黒髪も馬車の揺れで少し乱れ、幾筋かは冷や汗で頬に張りついている。
「教会向こうの宿駅に、コーゼルの名前で馬の手配をしてあります。馬の取り替えの間、車外に出て少しでもお休みくだ……」
「いや待て、少尉」
「御者」がこの場の予定と同僚の名を口にしたとき、御者席の足元にある、車内へ通じる小窓の辺りを、ゴンと拳で軽く叩く音がした。
それは、ルクレツィアの隣に座り、先ほどまで睡眠を行なっていたはずの「従者」の声であった。
「入る前に軽く様子を見てくる。馬車を林道に退避させ、今の馬のままであっても直ぐに出せるよう待機しておいてくれ」
「……隊長。何か、気になる事でも?」
上官のその申し出に、近衛隊員の声が少し強張る。
「いや、特に確証がある訳では無い。だが、夜が明けてから初めての街だ。念には念を入れておきたい」
「了解しました」
「万が一の場合は私を待たずに出せ。判断は任せる」
「その場合、隊長は?」
「行程は先に聞いている。追いつくよう努力はするが、陛下の安全と、その計画の遂行を第一に行い、そうするよう後続に伝えろ」
「……了解しました」
そして「従者」は傍らの「主人筋」に語りかけた。
「陛下。お聞きになっていたとは思いますが、暫し席を外させて頂きます」
ルクレツィアは小さく笑う事で送り出そうとしたが、やはりうまくいかなかった。
唇の端が動いただけである。
「直ぐに戻ります。野外で申し訳ございませんが、外に降りれば多少なりともご気分が変わるやもしれません。それでは」
そうとだけ告げて、女大佐は自身の剣と短筒を従者としての衣装の内に隠して早々に立ち去った。
「陛下、水を」
その後、ステファン少尉は小窓を開け、そこから車内に小さな水筒を差し入れた。
ルクレツィアはそれを受け取り、カップに注いで口をつけた。
しかし、飲めたのはほんの一口だけだった。
喉に清涼感はあるのだが、その先にある臓腑が増えた内容物をそのままに押し戻そうとするのである。
王后は水筒を胸元に抱えたまま、しばらく動けなかった。
それでも、僅かながら水の効果はあったようで、王后は目を閉じ、ゆっくりと息を吐き出した。
「お休みになられますか?」
「…………大丈夫?」
「私が警戒を行います。何かあればすぐにお伝えしますので、少しでも安定した所でお休みになるべきかと」
「…………ふふ。どうやらよっぽど酷い見た目なのね。私」
「……いえ、そのような訳では」
「…………ごめんなさい。嫌味な言い方だったわ。…………お願いしても?」
「かしこまりました」
そしてステファン少尉は御者席から降り、その下に格納してある乗降台を取り出し、設置した。
そしてルクレツィアの脚部分を覆う泥除けの観音扉を開き、その御身を介添えし、地面へと降り立たせた。
ルクレツィアは半日ぶりに大地を踏み締めた。
言うまでもなく大地が鳴動している筈はなかったが、未だ彼女の体は振動を感じていた。
そして王后としての体面には相応しくないのだとしても、彼女は乗降台に腰を下ろし、深く息を吸い、ゆっくり、ゆっくりと吐いた。
この不快の責任はルクレツィア自身にある事を彼女は承知していた。
馬車を選んだのは彼女である。
速度を優先したのも彼女である。
休むなと命じたのも彼女である。
ならば、この吐き気も、頭痛も、脂汗も、自分の計画に含まれるべき費用であろう。
だが、その理屈を飲み込める事と、胃の内容物を飲み込む事は別の問題である。
先のケイロン村での杞憂といい、このような現実と計画の差異の事を「机上の空論」と呼ぶのだろうかと彼女は考えていた。
だがそれでも、その論を組み立てた計算に齟齬はない以上、解は正しい筈なのである。
そう、言い聞かせていた。
「陛下」
その内省を中断させたのはステファン少尉の声である。
「……何か?」
「何か近づく者があるようです。申し訳ございませんが、席にお戻りを」
「……わかった。応対はお願い」
「かしこまっております」
王后はノロノロと這い上がるように車内に戻り、そして座席に沈み込んだ。
暫くすれば彼女の耳にもその音は聞こえ始めていた。
ザカザカと砂利を踏む複数の足音と蹄の音である。
一致しているとまではいかずとも、それなりには整えられた足音である。
おそらく自分たちのような「旅行者」や、一般の住民とは違う「何者か」のものであると思われた。




