Episode26:《布告》・ある少女の目線 その1
2388年6月1日(水) 11:01 A.M. 第3居住区・洛陰
「――すみません。自転車直してもらっていいですか。あと充電もさせてください。」
「ん?――ああ、構わねぇよ。上がりな。」
話は変わり、ここはイレブンスニューヨークに隣接する第3居住区・洛陰の南西にある住宅街。ちょうどそのイレブンスニューヨークとの境界近くにある一軒の自転車屋に、少しボロボロな自転車を押して一人の少女が立ち寄った。
側面に黒い丸が横一列に並ぶデザインが特徴の茶色のベレー帽を被り、その下から淡い紅色のボブヘアーを生やした少女の緑色の眼は、どこか泳いでいる感じだった。やたら周囲を気にして焦点が定まっていない。それに黒のシャツと淡い色のデニムを纏った身体がとてもぶるぶると震えていた。総じて見ると、落ち着いていない様子であるのは明らかだった。
自転車屋の店主である中年のおじさんは、干からびたような細い腕を後ろに組んで固定したまま、震える少女を店内に案内する。至るところに自転車とその部品や付属パーツが立ち並ぶ店内は、整理されてはいるが物品の多さゆえにとても窮屈である。その入口手前のフリースペースに少女が自転車を止めると、入口の半分が塞がれたような感じになり余計に窮屈さが増してしまった。
そんなことはお構いなしに、おじさんは少女の身体をするりと躱し、少女の自転車の状態を点検し始める。ものの10秒ほどで自転車の異常を確認し終えると、「少し時間かかるから、奥でゆっくりしてきな。」とおじさんが店の奥に伸びる通路を指差して言った。その通路にはおじさんの奥さんであろうエプロン姿のふくよかな中年女性が待ち構えていて、少女を手招きしていた。
おじさんに一礼をし、奥さんに導かれた少女がやってきたのは、台所であった。店の奥側は、この夫婦の住まいになっているようだ。台所は剥き出しのステンレスのシンクと、ずらりと並べられた食器や鍋、それと冷蔵庫に貼られたメモの数々が目に付き、この時代では珍しく、部屋の生活感をなくそうという思想の断片すらない光景であった。
少女は奥さんに促されて壁際にあるテーブルの端に座り、自転車の修理が終わるのを待つこととなった。序でにと少女は、その壁についているコンセントに充電器を差し込み、その端子を小さな白い板状の機械に接続する。奥さんの方は台所の戸棚から適当なお茶請けを取り出し、コンロにかけたやかんでお湯を注いだコップに紅茶のティーバッグを入れ、お盆に乗せて少女に差し出す。
「はい、どうぞ。あまり大したものじゃないけど。」
「あ、ありがとうございます。」
お茶請けはこの近所の洋菓子店が作っている、ホタテ貝のように大きく丸いマドレーヌだ。奇しくも少女の好物がマドレーヌであり、彼女は今まさに空腹状態と来ている。少女がこれに手を伸ばさない理由はなく、一口頬張ると、しっとりした甘い生地の中から、無数の小さな気泡の中に閉じ込められた、まだ飲んでもいないはずのアールグレイの芳香が口腔と鼻腔に充満する。一緒に出された紅茶はスーパーで売られている廉価品のものだが、このマドレーヌの風味を味わうのに程よく適した強さの風味を持っていた。
「――あのいいんですか?お茶とお菓子ご馳走になって……」囓ったマドレーヌを持ちながら、少女は心配そうに問いかける。奥さんは何も心配などないと言わんばかりに、大笑いしながら答える。
「いいのいいの!うち暇だからね。たまのお客さんにうんと優しくして、リピーター増やそうっていうのがうちらの経営理念なの!」
「――言っちゃうんですね、そういうの……。」訊いてもいないこの店の経営事情を聞かされ、少女はリアクションに困った顔をする。――と、何か道具を取りに戻ったのか、男性が台所に顔を出しに来た。
「おい、ウチのことあんましギャーギャー喋るんじゃあねぇ。お嬢ちゃんが困るだろうが――なぁ?」と、おじさんは少女の表情を窺う。
「い、いえ。大丈夫です。気に、しないので。」少女は首を横に振って答える。
「ふーん、そうかい。」おじさんはそのまま台所から元の作業場へと戻っていった。既に必要な工具は手に持っていたようだ。
「アンタ!早く嬢ちゃんの自転車、直してやりな!」
「わぁってる。」
奥さんの必要以上に喧しい命令に、おじさんは遠くからぶっきらぼうに返事を寄越す。その面白味のないやり取りを聞きながら紅茶を啜る少女の虚ろな表情を見て、気を悪くしたかも?――と奥さんは思い込み、話題の転換を試みた。
「ところでお嬢ちゃん、アンタいくつだい?」
「えっと――14です。」
「へぇ、若いねぇ。ここに住んでるのかい?」
「いえ、ニューアシヤから来ました。」
「あら、ずいぶん遠いところじゃない!――まさかそこから自転車で?」
「ええ、まぁ……。」
第13居住区・ニューアシヤとこの第3居住区・洛陰の間には3つの居住区が挟まっており、最短ルートでも車で2時間はかかる距離である。しかもこの自転車屋がある付近は、ニューアシヤとは逆方向の第1居住区・イレブンスニューヨークに近いので、自転車で来るには無茶のある距離である。無論、少女の見た目や彼女の自転車のタイプからして、ロードバイクを趣味や部活としているのではないことは明白である。だが少女が背負っていた鞄の大きさは、明らかに何日分かの旅の支度が入っているかのようにパンパンに膨れていた。奥さんは、少女の身の上がいよいよ気掛かりでならなかった。
「お嬢ちゃん、なんか訳ありみたいだね。おばさんで良かったら相談に乗るよ?」
「いいえ、大丈夫――です。言ってもわかんないと思うので。」
少女は俯いたまま、それ以上何も語ろうとはしない。その沈んだ表情から察するに、かなり重い背景を背負っているのだろうと奥さんは思い、やはりそれ以上踏み込むことはしなかった。
「――まぁ、複雑な事情があるんだろうね。無理に話さなくていいよ。ところでその充電してる機械は何だい?」
奥さんは新たな話題のタネを、壁のコンセントに刺さっている白い機械に見出した。板状の素材が4つ折りに折り畳まれたような外見をしており、大きさは手のひらとほぼ同じくらいである。上面には手が入りそうな大きさのバンドがつけられており、手に持って使うことはなんとなく判るとしても、奥さんはこれをどうやって使用するのかてんで見当もつかないでいた。
「あ、これ、液タブです。」少女はその機械をそう呼んだ。
「えきたぶ?」おばさんは産まれて初めてその語を聞いたような顔をする。現に「えきたぶ」と口にした時のイントネーションが、「耳たぶ」というのと同じになっている。
「はい。イラスト制作専用のタブレット端末です。これ開くと真っ直ぐになって、この画面の上にスタイラスを滑らすと絵が描けるんです――こんな風に。」
少女は機械の上面のバンドに左手を通すと、そのまま手首を返し、親指で側面の電源ボタンを長押しする。すると機械の隙間が大きく開き、紙のように折り畳まれた機械のボディを一枚の板に展開し、その表面の極薄型ガラス製のディスプレイを表に見せる。そして手首とは逆側の側面から出てきた細く短い一本のスタイラスペンを、少女は右手で掴んで引っこ抜く。
真っ白なディスプレイに少女がスタイラスペンの先端を付けると、黒い点がディスプレイ上に現れる。そのまま少女がペンを滑らすと、点はその軌跡を辿る曲線に変化する。その曲線をいくつか繋ぎ合わせながら、少女は手際の良い筆さばきで簡単な落書きを完成させていく。
わずか30秒程で出来上がったのは、少しデフォルメされた可愛らしいヤドカリのイラストである。触角の本数や歩脚の関節の数などは実際のヤドカリと同じでありつつも、甲殻類特有の硬く刺々しい印象が出ないような柔らかい線で描かれている。また眼も大胆にアニメチックな大きいものに描いており、このままどこかの企業のマスコットに採用されてもおかしくないクオリティであった。
「わぁ上手ねぇ!かわいいヤドカリさんだねぇ!!」奥さんは液タブを両手で大事そうに持って、まるで孫の描いた似顔絵を見るような優しい目つきで少女とヤドカリを交互に眺めた。
「あ、ありがとうございます――。」
奥さんからの絶賛を受け取って、少女の顔が思わず綻ぶ。少女はこの一瞬だけ、自分の背景を忘れることができたような気がした。
「とすると、お嬢ちゃんは絵描きさんかい?」
「え……えぇ、まぁ。一応プロ、目指してたんですけど――。」
「そうかい、絵描きさんの卵かい。いいねぇ。」
微妙なニュアンスを奥さんは掬い上げることはできなかったみたいだが、少女は逆にそこを突っ込まれなくてホッとしたような顔である。
すると、またおじさんが台所に顔を出しに来た。
「さっきから何を駄弁っとるんだ、お前は。」少々無愛想ながら会話に参入するおじさん。
「聞いたかい?この子、絵描きさんになるんだって!見てこのヤドカリ!お嬢ちゃんの作品だよ!かわいいと思わないかい?」
そう言って奥さんは液タブをおじさんに手渡す。おじさんは液タブの画面をぎろっとした目玉で睨みつけ、ヤドカリの絵のある箇所をじーっと凝視する。時折おじさんの山羊の角のような形の眉毛が上下に動いたり、瞳の黒いところが小刻みに揺れ動いたりしていた。そして暫く見たおじさんは、このような感想を述べる。
「――うん。よく動いちょる。」
「え――?」
不評ではないのは明らか。だがその感想は確かに、少女の表情を凍らせた。
「いま、何て――?」
「画面ん中でヤドカリがヒョコヒョコ動いちょるんだよ、ホレ!」
と、おじさんはタブレットの画面を2人に向ける。
「――!!」
少女は見た。
画面の中のヤドカリが、器用に歩脚を動かしながらその場を旋回する光景を。
それはひと昔前に存在した、パーツ毎に描いたイラストを組み合わせてアニメーションを作る「Live2D」の技術とは異なる様相を呈している。彼女が描いたヤドカリは、正面左前方からの視点のみで、パーツに分けて描くなどという手間は施していない。にも関わらず、旋回するヤドカリの後方部は彼女の知らぬところでしっかりと描かれている。背中の貝の渦巻きの線も、不自然のない繋ぎ方がされてある。
「まぁ凄い!この機械、アニメーションも作れるのねぇ!?いやぁ凄いねぇ、最近の技術は!」
「えぇ……まぁ……。」
この老夫婦は何も知らない。ゆえに少女のテクニックと機械の性能を褒め称えることしかできない。
そして少女は知っている。この液タブに、静止画のパーツを動かしてアニメーションに変えるアプリなどインストールされていないということを。ましてやそんな性能を持ったアプリケーションは存在しないということも。
ゆえに彼女は、速やかにこの店を立ち去ることを決意する。
「――すみませんそろそろ、わたし行かないと。」おじさんから液タブを強引に取り上げパタパタと畳んでズボンのポケットに入れる。
「おや、もう行くのかい?もっとゆっくりしてお行きよ。」
「いえ。これ以上長居するのは迷惑でしょうから。おいくらですか?」充電器を引っこ抜き鞄の適当なポケットにぎゅうっと押し込む。
「いや、お代はいらねぇ。うちは部品交換しねぇ修理ならカネは取らねぇの。ホレ、自転車。外れたチェーンとワイヤー直しといた。ついでに前後のタイヤも空気入れといたぞ。」
「あ、ありがとうございます……。」少女は2、3度頭を素早く下げ左手をハンドルにかける。
「ただ、チェーンカバーのへこみは交換なしじゃどうにもできねぇ。すまねぇがここは――」
「いえ大丈夫です!走れたら、それで――あっ!」
そこで少女は、遠慮を示そうと右の手の平をおじさんに向けて振ってしまった。おじさんがそれに驚いているような顔をしていると、少女は間髪入れずにスタンドを上げ、両手でハンドルを握って自転車に跨った。
「――自転車と充電ありがとうございました!あ、あとお菓子も!」
「元気でね。」
奥さんの挨拶に耳を貸す間もなく少女は、一刻も早くここから去らねばと思い、ペダルを思いっ切り――
「嬢ちゃん。」
「はい?」
ペダルを踏む足が、地面を蹴ろうとする足が、その声で固まる。
おじさんのその一言が、少女の鼓動を速くする。
少女の心臓は今にも潰れそうだった。
おじさんの次の一言、または次の行動次第では、少女は何をしでかすか自分でも分からないほどになっていた――
ゆっくり振り向き、少女はおじさんの口元を注目する――
「自慢じゃあねぇが、ウチの整備は完璧だ。ウチの宣伝のためにも、頑張って逃げな。」
「――――はい!」
少女はペダルを強く踏み出して真っ直ぐ自転車を漕ぐことに決めた。そしてさよならをちゃんと言わない内に、少女は回転数を上げて自転車屋からかなり遠いところまであっと言う間に駆け抜けていく。
住宅街は都合の良いことに殆ど出歩いている人間がいない。少女は必死で自転車を漕いだ急性的な疲労を回復するため、イレブンスニューヨークに連絡する鉄道の高架下で立ち止まる。心臓は尚も激しく脈打ち、眼は動揺し、素早く酸素を取り入れようと呼吸は速く浅いままである。それは単に、激しい運動をしたからというだけではない。
(――やっぱり!やっぱり!わたしの能力、強くなってるんだ!!あんなシンプルな《絵》でも動くなんて――!!やっぱりわたしは――わたしの右手は――!!)
少女は自分の右の手の平を開くと、それをまじまじと震える瞳で見つめる。
黒く、丸い、幾何学模様の《痣》の存在を――。
少女の名前は、手塚絵画楽。「かいがら」という自身の名前をもじったHNを用い、SNSで自作イラストを投稿していた"元"・人気絵師だ。
音声合成ソフトのMusicaroidや人気同人ゲーム『北方計画』などをテーマとした繊細かつ幻想的で美麗なイラストで人気を集め、フォロワー数:約1億7000万、総いいね!数:約2兆300億を誇った、イラスト界隈で知らぬ者はいないというほどの注目の絵師《《だった》》。
そんな彼女は今、SNSのアカウントと全ての投稿作品を削除して、自転車による放浪――いや、"逃亡"生活を送っている。理由は言うまでもなく、彼女の右の手の平にある幾何学模様の《痣》である。
彼女の右手に宿った能力は、"描いた《絵画》に魂を宿す"能力。――彼女の手によって描かれた《絵画》は、まるで魂が宿ったかのように自力で動き、喋り出す。それだけではなく、時折《絵画》の中の存在が現実世界に介入して、様々な怪異現象を引き起こすこともあった。絵の中にあるはずの物が現実世界に現れたり、逆に現実世界のものが彼女の《絵画》の中に混じり込んだり――そういったことがここ数ヶ月の間で頻発し、彼女はいよいよ自身の能力を恐れるようになり、SNSから身を引いたのである。
そして逃亡生活をする最大のきっかけとなったのは、一昨日のUGE軍によるある発表であった。
2388年5月30日。UGE軍は、予てより話題になっていた『空飛ぶ少女の動画』について初めて言及し、動画内に写る飛行する少女はレリギオスであると正式に認める見解を発表した。また当該動画の閲覧および本発表によりレリギオスの事実を認知した者に対する制裁処置は、今後行わないとの方針を示した。
一方で軍は、レリギオスおよび反政府思想を持つ人物・組織に対する取締体制を一層強める方針も示し、『AXel部隊およびMPO部隊の戦力拡充』・『ICBによる監視体制の強化』などの対策5項目を発表した。その内のひとつ、『取締対象の拡大』という項目が、少女の逃亡の理由となっている。つまり――
『①:レリギオスなどの《エデン》に原生する危険生物
②:①に対する保護・支援を行う人物および組織
に加え、
③:レリギオスと地球人類の遺伝子情報を併せ持つ、キメラ生命体
を新たにAXelによる処罰の対象とする。』
手塚絵画楽の右の手の平にある《痣》は、彼女が③に示すキメラ生命体であることを示す証。彼女は全宇宙の人気者から一転、政府に追われるお尋ね者となったのである。
無論、そのまま素直に捕まって殺されることなど、彼女が望む訳がなかった。一つの生命として、死から逃れたいという願望が、彼女の足を前へと突き動かした。自転車のチェーンカバーのへこみは、今朝方追ってきていたUGE軍の放った銃弾の跡。彼女自身の能力でどうにか撒いた後、自転車が壊れたためにあの自転車屋に転がり込んだのである。
「あの自転車屋さん、大丈夫かな……。今頃UGEの追手が嗅ぎ付けてるかもしれない……。」
絵画楽は自転車屋の状況を気にしつつ、再びペダルを踏む足に力を入れる。
沿線を暫く走っていると、目の前にはイレブンスニューヨークに繋がる連絡トンネルが見えてくる。
が、彼女はここを通らない。トンネルでは現在、MPOによる検問の真っ最中だからだ。何の考えなしにここを通れば、彼女は速攻捕まってしまうこと間違いない。
「せっかく自転車直してもらったんだ。こんなすぐに捕まる訳には、いかない!」
そこで彼女は200m離れた場所の壁で再度自転車を止め、充電させてもらった液タブを取り出す。そしていくつかあるギャラリーの《絵》の中から、何の変哲もないトンネルを描いた作品を表示させる。白い壁にポッカリと空いた、人一人分くらいの小さなトンネルの《絵》である。
「――行けっ!!」
絵画楽は右手をその《絵》の上に乗っけると、壁に向かってそれをスライドさせる。瞬間、微かに右手の《痣》が淡紅色の輝きを放つ。
《絵》は壁の方へ飛んでいくと、そのまま壁に貼り付いたようにホログラム表示される――かと思いきや、なんとそこに実在していなかったはずのトンネルが、壁と《絵》が接触した瞬間、忽ち現れ出たのである!
「よし――!」
トンネルの出現と同時に絵画楽は自転車を勢いよく漕いでその中を素早く通り抜ける。トンネルの向こうへ出ると、彼女は直ぐにトンネルに向けて右手を翳し握り締める。するとトンネルは再びホログラム表示に戻りそのまま消滅。元ののっぺりとした硬い壁が、トンネルのあった痕跡すら残さず再度そこに現れたのである。
「おじさん。わたし、頑張って逃げるよ!」
2388年6月1日(水) 11:54 A.M. 第1居住区・イレブンスニューヨーク
「――ふう。ここまで来れば大丈夫、かな?」
たくさんの人混みと人混みと人混みを抜けて、絵画楽がやってきたのはイレブンスニューヨークのダウンタウン。その路地裏を通り抜けた先にある、くねくねと曲がり下りる汚れたスロープのある空間。周りの圧迫感のある壁はこの近辺に住むアーティストたちによるグラフィティアートで埋め尽くされ、足元には空き缶やゴミ袋が散乱しやや鼻につく腐敗臭を周囲に漏らしている。それでいて暗く、少々じめじめとしている。
だが、その天井は雲一つない爽やかな青空に大きく穿たれ、中央には太陽を真っ直ぐに突き刺さんと伸びるEBB本部タワーが聳え立つ。よって、足元には影と醜と束縛が、頭上には光と美と自由が溢れるコントラストの強い光景が、少女の眼前に展開される。
自転車を全力疾走させた上に慣れない人混みを泳いでいった疲労は
「――いいね、この景色。すごくいい。まるで今のわたしみたい。」
そう口にすると、絵画楽は足元に転がる空き缶がまるで自分のように感じられて、何とも言えない愛着が湧き上がる。かつてキンキンのコーラをその身に蓄えていたであろうこの空き缶――今はかろうじて缶の形を保っているが、いつか業者に発見されてゴミとして処分されれば、スクラップされて別のアルミ製品に形を変えられ、元の缶ではなくなってしまうだろう。そして自分も、軍の人間に見つかれば――
「――そうだ。描こう。」
その一瞬、刹那の美しさを残すのに、この時代の99.5%の人は自らのWatchでカメラのシャッターを切り、他人と同じ一瞬を共有する。だが残りの0.5%の人は、あえてそんな便利な手段に寄らず、自らの言葉や筆で、誰にも共有され得ない自分だけの風景として記録する。手塚絵画楽は、その0.5%の人種であった。
彼女は徐ろに液タブの電源を入れスタイラスを持つと、サッサッと直線を何本か引いて引いて引きまくる。まずは地平線と消失点。そこから中心にEBB本部タワーのパースを置き、左右に路地裏の建物を奥から順に描いていく。一番手前の建物のパースを描いたところで、次は窓やタワーの鉄骨、配管などの細かい部分を画面拡大しながら描いていく。その後は壁のグラフィティや地面の汚れを――。
冷静に考えれば、こんなことをしている場合ではない。今にもUGE軍の追手が背後から迫ってきているかもしれない。それでも彼女がスタイラスを動かすのを止めないのは、表現者ゆえの性なのかもしれない。彼女が感じた色彩・明暗・空気の濃淡、そして全体的な雰囲気などは、彼女の手でしか生み出し得ない。それを半永続的に形あるものとして保存するため、彼女はスタイラスを動かし続けるのである。
「――できた。」
ものの5分程で、彼女は眼の前の光景を、そのまま線画に起こしてしまった。細微に至る繊細な筆使いは下描きのレベルを超え、このままでも充分作品として通用するレベルにまで仕上がっていた。
「うん。上出来。次は色塗っていこうか。」
と、彼女がカラーパレットのアイコンをタッチしようとした時である。
〔……ザザッ……ザザザッ……〕
「??――何!?」
画面右上の時刻が〔0:00〕になった時だった。
突然液タブの画面がノイズで埋め尽くされる。
彼女のあまりに見事な下描きは、あまりに理不尽にもノイズで表示を掻き消されてしまった。
「まさか故障!?そんな――」
これまで見たことのない現象の発現に、絵画楽は機械の故障と思い愕然と天を仰ぐ。
だが彼女の失望は、後に杞憂に終わることが図らずも保証されている。
何故なら、これは故障ではないからだ。
〔ザザザザ……――――地上にお住まいの皆様、はじめまして。〕
「!?」
液タブのスクリーンからノイズが消える。だが同時に表示されたものは、先程の街の下描きではない。
銀髪の、耳の長い少女がこちらを向いて語りかける、動画である。
〔私はフェルタ・エオルシア・フルトニオス。ご覧頂いている通りの、"レリギオス"です。〕




