第六十一話 崩れゆく音
第六十一話 崩れゆく音
「純くん、心配しないで」 撫子は純の膝をポンと叩く。 純は無言のまま頷くだけだった。
「河合さ~ん」 看護師から呼ばれる声がすると、二人はスクッと立ち上がる。
「失礼します……」 撫子が声を掛け入出すると
「おや、久坂さん。 おひさしぶりです」 八田は笑顔で出迎えてきた。
「純くん、こちらが八田先生。 私の先生よ」 撫子が紹介すると、純の身がすくんでしまう。 緊張しているようだ。
「河合くん、まず話してごらん。 自分が病気だと思ってしまうことを聞かせてくれるかな……」
八田は笑顔を見せ、純の気分を穏やかにさせようとすると
「すみません…… 僕が病気になって学校にも行けなくなってしまって……」
純は、学校に行けなくなった。 これはイジメなどではなく、自分が塞ぎがちになった時に『お前、うつ病なんじゃないか?』と言われたのが最初だったという。
例えば、「顔色が悪いね……」 などと会社で言われたりすると、化粧室に行って鏡を見て確かめてしまうことがあるだろう。
そんな日は、一日中『そんな顔色が悪いのかな…… 早く寝よう』などと考えてしまうこともある。 これは暗示のひとつであり、催眠などにかかった状態と思っていいだろう。
実際に顔色が良くなくても、そこまででもないのに『今日は貧血だ……』『風邪気味かな……』 などと理由を付けてしまうことがある。
これを合理化といい、都合良く理由をつけて早く休むようにと自身を守る効果もあるが
(これは違う…… 純くんのは合理化ではなく「拗らせ」だ……)
撫子は真剣な眼差しを純に向ける。
拗らせとは、思い込みが激しく自身を向かわせていくものである。
これにより周りの人たちが疲れて疲弊していくことがあるが、純も不登校となり親を心配させてしまっている。
「そうだね…… 河合くんは病気になっているかもしれないね……」
八田は少し微笑むように言う。
「ちょっと先生……」 撫子が慌てたように声をあげる。 それは病気と告げてしまえば純の思い込みが加速してしまうと思ったからだ。
ただ、撫子は八田を信頼しているので話しが大きくなることはないのだが……
「久坂さんは知らないのかい? これは立派な病気なんだよ」
八田が撫子を見ると、「……」 撫子はポカンとする。
「河合くん…… 自分が病気だと塞ぎこんで久坂さんを求めたんだろ? これは早い対策として正解だ。 ただ、自分で動かなかったのがマズイんだわ……」
八田が話しだすと、純の姿勢が正されていく。
実際、うつ病や統合失調症になってしまうと身体が重く姿勢も円背気味になってしまう。 気力で姿勢を正すことが難しいからだ。 特に薬を服用していれば、緊張をほぐす薬が入っていることが多いので力が入らないのも当然である。
しかし、純の姿勢は良かった。
(純くん…… うつ病とは違ったのか……) 撫子は気づいてしまった。
「河合くんは、これを病気としても出来るのだが……」
「はい。 お願いします……」 純は病気として扱われたかったようだ。
「わかった。 じゃ、言うね。 これは心気症と言うんだ……」
八田が説明をすると、
「心気症……ですか」
「そう。 今風に言えば「拗らせ病」かな」 八田が微笑む。
心気症とは、「自分は重い病気だ」などと思ってしまうものである。
心気症の人は、ごく小さな異変を見逃さない。
熱が出ればネットなどで発熱を検索し、それの悪い部分を切り取っては『これは、この病気に違いない』 咳が出れば『結核かもしれない』 胃が痛ければ『胃ガンかもしれない』などと大袈裟に反応してしまうものである。
従来の心気症であれば、『なんとなく調子が悪い』『何かの重い病気なのでは?』程度であったが、インターネットなどで簡単に検索が出来てしまう為に『病気特定』をしてしまう人が増えてきている。
そして病院へ行き、検査を繰り返してしまうのだ。 中には「異常なし」の言葉を信じられずに「検査とドクターショッピング」を繰り返してしまうようになる。
これは「病気を重く受け止めてくれる医師」「検査をしてくれる医師」を探してしまうことである。
(普通、ただの風邪って言われればホッとするんだけどな……)
撫子が思っていても、心気症の人には通用しないものである。
これは「見つかっていないだけで、重い病気がある」という思いからストレスを感じ、実際に身体に影響を及ぼす者もいるくらいである。
これは仮病や詐病とは少し異なるものであるのだ。
その後、撫子は純を家に送っていく。
「純くん…… まず、気にしすぎないことね」 撫子が声を掛けるが、純は下を向いたままである。
そして、母親に診断を話すと
「まったく仮病を使って、人騒がせな子ね」 と、言ってしまった。
(いかん……)
撫子が思った瞬間、純は家を出ていってしまった。
撫子が母親に内容を詳しく説明すると
「心気症……ですか?」 母親はポカンとする。
「心気症は本当に病気なのです。 これは病気が怖くなる病気なのです……」
母親が、さらに難しい顔になっていくと
(私、説明が下手なのかしら……) 撫子は困ってしまう。
しばらく話をしていると、母親が「なんとなく分かりました……」と言ってきたが
(これを分かりやすく説明できる人、来てください……)
撫子は困った表情になってしまう。
当然のことだが、初めて知ったことで理解できる人は少ないだろう……
そして、撫子は純を探しに行く。 説明に一生懸命になってしまい、純が走って行った方向も見ていなかった撫子は強い後悔をしていた。
(どこにいるのよ……?)
しばらく探した後、撫子が『てのひら』に戻ってくると
「いた……」
純は『てのひら』の前で立っていたのだ。
「純くん……」 撫子が声を掛けると
「―ッ!」 純の肩がすくむ。
「ここに来ていたんだね…… 良かったら入ってみない?」
「でも……」 純が遠慮していると
「大丈夫よ。 社会科見学をしましょう」
撫子は微笑み、純の腕を掴んで中に案内する。
“スーッ……”
撫子がドアを開けると、純が息を飲む。 そして、『シーッ』 人差し指を縦にして黙るように指示をすると純は静かに頷いた。
これは他のクライアントがカウンセリングをしている場合があるからだ。
中を見ると、クライアントは居なかった。
(良かった……)
そして二人は中に入る。 純は憧れの『てのひら』に入れて感激したようだ。
静かな室内。 そして壁紙の空と木々、どれもが純の心を満たしていくものだった。
「あら、撫子……」 小坂が気づくと
「由奈、お疲れ~ こちら、河合 純くん。 さっき大学病院で検査してきたのよ」 撫子が説明すると
「また休みなのに働いたの?」 小坂は撫子を睨む。
「これは報酬ないから仕事じゃありません~」
軽く話した後、「純くん、こちらにどうぞ……」 小坂が自身のブースへ招き入れる。 純は黙って頷いた。
(ふふふ…… 緊張しているな) 撫子が微笑む。
「じゃ、今回カウンセリングの担当をさせて頂く 小坂です」
小坂が頭を下げ、資格者証を見せる。
純は、緊張したように頭を下げた。
「病院に行ったということですが、どのような診断だったのでしょうか……」
小坂が訊くと
「あの……」 純が困った表情を見せる。
すると撫子が 「すみません、ウチの子が…… 病院では心気症と言われまして……」
このように母親になった芝居をして和ませている。
「そうなのですね…… 純くんは、どの診断だったら納得できるかしら?」
小坂が核心に迫ると
「あの…… 二人に会えて嬉しいです。 病気になれば会えると思って……」
純が目を輝かせている。
(この思いを抱いていたから心気症に……)
小坂は疑いの目を持っていく。
しばらく純と話して撫子は純を自宅まで送っていく。
そして戻ってくると、
「おかえり……」 小坂は心理学の本を読んでいた。
「何しているの?」 撫子がキョトンとすると、
「さっきの…… 純君なのだけど、もしかしてコレ……?」
小坂が本を見せると、撫子が驚く……
心気症は病気を心配するあまり、気を病ましてしまう病気である。
それを気づかずに通院などを続けてしまう病気なのだが、純は違った。
純の場合は憧れからカウンセリングに来たいと思い、本などで病気を知るうちに心が憑依してしまったのだ。
現代でいう『中二病』と言われるものになる。
これは年数が経てば落ち着くものだが、病気が絡んでくると心配になってくる。
小坂は、心気症という厄介な事が絡んでくることに心配になったようだ。
「撫子…… 処方箋もらった?」 小坂が訊くと
「ううん…… 八田先生は何も……」
心気症の薬というものはない。
抗不安剤が処方されるくらいである。
小坂がパソコンを打ち始めると
「できた! 撫子、純君のお母さんに渡して……」
小坂は母親に手紙を書いていた。 これは症状と注意事項をまとめたものである。
そこには
・一緒になって不安がらない。 ・面倒だと思って突き放さない。 ・通院に同行して処方箋をもらう。 ・身体的に不調が見られた時は、すぐ病院に……などが書かれている。
撫子は純の家に向かっていった。
心気症…… これは思い込みから始まるものであるが、なかなか払拭できるものではない。
静かに心が崩れていくサインであることを、多くの者は知らないままだ。




