(4)
濡れた金色の髪を後ろに撫で付け、素肌に伝う水は手で払い飛ばした。
夏の日差しは高く、このままでもすぐに乾くだろうと、ヴィルヨは桟橋にまるめて置いてあった服に袖を通した。
脱いだブーツの隣には白樺のカップと、自分のものより少し大きな短刀が置かれている。
ニューリが湖で落としたという短刀を探しにきた……というのは建前で、彼に頼るカティヤを見ていたくなかったというのが本音だ。
「とにかく、見つかってよかった」
ヴィルヨは裸足の足を下ろして桟橋に座ると、短刀を手に取った。
目の前に広がる緑に囲まれた湖は美しく、平和そのものだ。足の下で僅かに波立つ水は浅く透明で、水底の石や藻がはっきりと見える。
ついさっき、カティヤが命を落としかけたとは到底思えない光景だが、水中で見つけ出した手の中の短刀が、あれが夢ではなかったことを証明している。
「くそ……っ!」
この短刀の持ち主がいなければ、カティヤは溺れて息絶えていたか、無理やり水の精霊の花嫁にされて、手の届かないところに行ってしまっていただろう。
自分では視ることも触れることもできない敵に立ち向かえるのは、あの少年だけ。だから、この短刀はカティヤのために必要だ。
「俺じゃ、カティヤを守れねぇのかよ。どれだけ力があっても、どんな武器を持っていても無理なのか……」
無力感に奥歯を強く噛み、短刀の柄を強く握りしめて、ふと気付く。
トナカイの角で作られたどっしりとした短刀の柄は、大柄な自分の掌にすら余る太さだった。先に向かって緩やかに反った刃は、一般的なものより長く鋭い、日常用というよりも武器としての側面が強い造りになっている。
とても、小柄な少年が持ち歩くような代物ではなかった。
「かなり物騒な短刀だな。もとは、あいつの親父さんのものだったのだろうか?」
トナカイの角の柄は黒光りし、硬い素材だというのに握った指の形に微妙な凹凸がついている。ここまで使い込むには、数十年はかかるはずだ。父親から譲り受けたのなら、身体の大きさに不釣り合いな短刀を持っていても、納得はいく。
しかしニューリは、これを自在に使いこなしていた。
盗賊団の首領を捕らえた動きは、ヴィルヨの目から見ても見事だった。自分の目では視えない相手との、水中での戦いもそうだった。
あの少年は、人間からも精霊からも、カティヤを守ることができるのだ。
「結局、カティヤは俺のものになならねぇのかよ!」
彼女の身の安全をいちばんに考えるのなら、自分ではなくニューリがそばにいた方がいい。そう思っても、愛する女を他の男に任せなければならない無念が、身体の中で出口を求めて暴れ回る。
小さな手が、初めて自分の指をぎゅっと握ったあの日から、あの手は自分だけのものだと思っていたのに。
少女に成長したあの手は、別の男の手を頼っている。今、この瞬間にも。
「くそっ!」
ヴィルヨはニューリの短刀を振り上げると、力任せに桟橋に突き立てた。
鋭い刃はたいした抵抗も感じさせず、あっさりと橋板を突き抜けた。
そんな、短刀の性能の高さにすら、嫉妬を覚えて仕方なかった。
湖でたっぷり時間をつぶし、髪も服も完全に乾いてから、二人の待つ草地に戻ることにした。
歩いて行くと、草の中に、片手で抱えた膝に顔を伏せた少年の姿だけが見えた。
カティヤはおそらく、横になって眠っているのだろう。
「まさか、あいつまで眠ってるんじゃねぇだろうな?」
カティヤを見守っているはずの少年の無防備な様子に、怒りが込み上げてきた。
しかし、もう一歩踏み出すと、まだかなり距離があるというのに、少年はゆっくりと顔を上げてこちらを見た。
眠ってなどいなかった。
いや、本当は眠っていたのかもしれないが、こちらに鋭い警戒の視線を向けた彼には、全く隙がなかった。もしも今、背後から何者かが襲ってきたとしても、彼は即座に動けるはずだ。
相手が、人間であっても。精霊であっても。
「こいつ……っ!」
年少者らしからぬ高い能力を、またしても見せつけられた気がして、頭にかっと血が上がる。思わず手にしていた短刀を、彼に向かって投げつけた。
空を切る刃は、少しの理性の働きで、僅かに彼の頭上に外れるはずだった。
しかしニューリは前を向いたまま平然と右手を上げ、短刀の柄をつかみ取る。そして、使い慣れた自分の短刀が手の中にあるのを見て、驚いたように目を見開いた。
ニューリに対する渦巻く思いは、驚嘆にかき消された。
「すげぇな……。お前」
「ヴィルヨ。僕の短刀を、探してきてくれたのか」
彼にとっては、投げつけられた短刀など脅威でも何でもないのだろう。ヴィルヨの悪意は確かに感じ取っていたはずなのに、林檎でも手渡されたかのように笑顔を見せている。
こいつには、敵わない。
そう思うと、ヴィルヨは脱力してその場に座り込んでしまった。
「良かった。こいつがないと、カティヤを守れないと思っていたんだ。ありがとう」
ニューリは満足そうに短刀の刃を太陽の光にかざしてみてから、ベルトから下げた皮のシースに納めた。
「お前、いつまで俺たちについてくるつもりなんだ?」
自分からカティヤを奪いかねないこの少年とは、一緒に旅をしたくなかった。しかし、彼がいなければカティヤを守れない。そんなジレンマの中訊ねると、彼はすぐ隣に丸くなって、安らかな寝息を立てている少女に、ちらりと視線を落とした。
彼女は両手でしっかりと、ニューリの左手を握りしめている。
「決めていない。だけど、僕がいないと困るだろう?」
「それはそうだが、カティヤが精霊の花嫁である以上、今回のようなことは、この先ずっと続くんだろう? いつまでもお前に頼りたくはねぇよ。くそ……っ。何かいい方法はねぇのかよ」
「だったら、カティヤが善良な精霊と婚姻関係を結べばいい。そうすれば、他の精霊に狙われることはなくなる。彼女の身の安全を優先するのなら、それがいちばん良い方法だ」
「んなこと、できるわけねぇだろう!」
ニューリの淡々とした声に思わず怒鳴り声をあげてしまい、慌てて口をつぐんだ。
カティヤを起こしてしまったかと思わず顔を覗き込んだが、どれほど深く眠っているのか、身動き一つしなかった。
ヴィルヨはふうと息をつくと、声を潜めた。
「こいつだって、あれほど嫌がっているんだ」
「それは僕も……よく分かってる」
「精霊なんかに、あんな化け物なんかに、かわいいカティヤを渡してたまるかよ。そうだろ?」
「ああ…………そうだな」
急に歯切れの悪くなったニューリは、もう一度カティヤの寝顔に視線を向けた。
「こんなこと、お前に頼みたくはねぇが、頼む。精霊の花嫁にならなくてもすむ方法が見つかるまで、カティヤを守ってやってくれ。今はお前しか、そいつを守れない。だから……頼む」
得体の知れない精霊にカティヤを渡すくらいなら、まだ、目の前の人間の少年に頼る方がましだ。
ヴィルヨは渦巻く嫉妬とプライドを無理矢理押さえつけ、頭を下げた。
血を吐くような気分だった。
「僕は僕の意思でここにいる。君に頼まれなくても、カティヤを守る」
ゆっくりと顔を上げると、妙に大人っぽい少年の顔があった。




