第9話 おまえも数に入れろ
《成れの果て》の腕が、砂を抉った。
轟音とともに、石粒がロウラの背中を打つ。
「走れ!」
ロウラはノアを右腕に、青い上着の少年を左腕に抱え、退場口へ駆け込んだ。
背後から、ずるり、ずるりと湿った音が追ってくる。怪物の無数の口が息を吐くたび、腐肉の臭いが濃くなった。
「おろせ!」
青い上着の少年が腕の中で暴れた。
「自分で走れる!」
「震えが止まってから言え!」
「僕は奴隷じゃない!」
ロウラの足が止まりかけた。
ノアの細い指が、服をつかむ。傷ついた脚をかばうように、小さな体を丸めていた。
「そうかよ」
ロウラは少年を抱え直した。
「じゃあ黙って、奴隷に助けられてろ」
少年が息を呑む。
怪物の腕が廊の入口へ叩き込まれた。石壁が割れ、熱い風と黒い液が飛び散る。
リネアが黒い翼を広げ、ロウラの頭上を飛んだ。
「右! そっち、まだ崩れてない!」
「分かった!」
二人の子供の重さが、傷ついた肩へ食い込む。
重い。
だが、ここにいる。
腕の中にいる限り、置いていかずに済む。
*
外へ出ると、絹の服の女が駆け寄ってきた。
「ルキウス!」
青い上着の少年が身をよじる。ロウラが地面へ下ろすと、母親は泥に膝をつき、息子を抱き締めた。
「よかった……よかった……!」
女の頬を涙が流れる。
ロウラはノアも差し出した。
「こいつも連れてけ」
伸びかけた女の腕が止まった。
ノアの粗末な服と、首にはめられた細い鉄輪を見ている。
「でも、その子は……」
「二人とも、あんたの腕に入るだろ」
女は動かない。
背後で《成れの果て》が吠えた。
ノアがロウラの胸へしがみつく。
「ロウラと行く」
「駄目だ」
「やだ!」
「あたしは、あれをぶっ飛ばしに行く。おまえがいたら邪魔だ」
言葉にした瞬間、胸の奥が痛んだ。
ノアの顔が歪む。
それでも、ここで優しい言葉を探している暇はない。
ロウラは女を睨んだ。
「受け取れ」
女は唇を震わせ、両腕を伸ばした。
ノアが嫌がる。すると、ルキウスが母親の腕から片手を差し出した。
「一緒に行こう」
「……奴隷じゃないって言った」
「うん。僕は違う」
ルキウスは目を伏せた。
「でも、怖いのは同じだから」
ノアの手が、ためらいながら重なる。
女は二人をまとめて抱き寄せた。
「必ず、門の外へ連れていきます」
「ああ。頼んだ」
背を向けたロウラへ、ノアが叫ぶ。
「ロウラも来る?」
答えが遅れた。
「後で行く」
それが嘘にならないようにと、初めて思った。
*
競技場へ戻ると、《成れの果て》は客席へ這い上がろうとしていた。
石段には、逃げ遅れた観客たちが折り重なっている。
さっきまで「殺せ」と叫んでいた者たちだ。
今は同じ口で、助けてくれと泣いている。
「こっちだ、化け物!」
ロウラは砂を蹴り、怪物の前へ飛び出した。
足元に落ちていた槍を拾い、赤く脈打つ筋へ突き刺す。
肉を貫く嫌な感触が柄を伝った。黒い液が噴き、手の皮膚がひりつく。
怪物が振り返った。
何本もの腕が、ロウラへ伸びる。
「そうだ。あたしを見てろ」
「ロウラ!」
リネアが叫ぶ。
「おまえは心臓を探せ!」
「もう分かってる! 下だよ!」
「だったら行け!」
「一人じゃ行けない!」
「何とかしろ!」
「やだよ!」
リネアの声が震えた。
「ロウラを置いていくくらいなら、分からないままでいい!」
怪物の腕を槍で受ける。
柄がへし折れた。
衝撃でロウラの体が宙を舞い、砂へ叩きつけられる。肺から息が漏れた。耳の奥で鼓動が鳴る。
立て。
ここで自分が囮になれば、皆は逃げられる。
「リネア……行け」
「行かない!」
「言うこと聞けよ!」
「ロウラが聞いてよ!」
リネアが泣きそうな声で叫んだ。
「ぼくは、ロウラがいない外なんかいらない!」
怪物の腕が持ち上がる。
ロウラは立てなかった。
影が頭上を覆う。
その瞬間、巨大な青銅の盾が横から飛び込み、怪物の腕を弾いた。
《城門砕き》ボルガだった。
傷ついた脚を引きずり、兜の下で歯を食いしばっている。
「死刑囚を置いて逃げるとは、薄情な奴らだ」
「何で戻ってきやがった!」
「牢へ戻るより、こっちの方がましだ」
反対側から、折れた剣が怪物の腕へ突き刺さる。
ディオンが立っていた。
片肩は不自然に下がり、口元は血で黒く濡れている。それでも、観客へ向けていたものとは違う笑みを浮かべていた。
「よう、ロウラ。ずいぶん楽しそうだな」
「どこがだ!」
「一人で全部抱えて、満足そうな顔をしている」
ロウラは言葉を失った。
「こいつはあたしが止める。あんたらは逃げろ」
「それは逃げろとは言わん」
ディオンの目から、笑みが消えた。
「全員を逃がすんだろうが。自分だけ数から抜くな」
自分がディオンへ浴びせた言葉だった。
胸の奥を、素手でつかまれたように痛んだ。
「あたしが行ったら、誰がこいつを止める」
「俺とこいつだ」
ディオンがボルガを顎で示す。
「勝手に俺を数えるな」
「嫌なら逃げろ」
「逃げろと言われると残りたくなる」
ボルガは盾を構えた。
二人とも傷だらけだった。
任せれば、死ぬかもしれない。
だから、自分が残るべきだ。
いつもなら迷わなかった。
「ロウラ」
リネアが肩へ降りた。
「信じるの、怖い?」
「……うるせぇ」
「ぼくもこわいよ」
小さな体が、首筋へ寄り添う。
「でも、一緒に行こう」
怪物が咆哮を上げる。
ディオンとボルガが、同時に前へ出た。
「行け!」とディオンが叫ぶ。
「すぐ戻る!」
「戻ってくることを、予定に入れておけ!」
ロウラは奥歯を噛み、背を向けた。
二人を置いていくしかなかった。
すぐ戻る。
それまで、勝手に死ぬな。
ロウラはそう言い聞かせ、振り返らずに走った。
*
競技場の端で、死体置き場の鉄扉が開いた。
痩せた青年が、血まみれの奴隷を肩に担いで出てくる。
煤色の髪。日に当たっていない青白い顔。黒い革の前掛けには、乾いた血が幾重にも染みついていた。
「おい!」
ロウラが呼ぶと、青年は足を止めた。
「心臓が地下にある! 道を知ってるか!」
「知っている」
「案内しろ」
レトは、ロウラの血まみれの姿を上から下まで見た。
「その顔では案内できない」
「どんな顔だよ」
「死ぬつもりの顔だ」
「死なねぇよ」
「死ぬ奴は、いつもそう言う」
ロウラは背後を振り返った。
ディオンの盾が砕ける音がした。
「時間がねぇ!」
「なら約束しろ」
「何を!」
「自分を捨てないと」
レトの声は静かだった。
その静けさが、怒鳴り声より深く刺さる。
「……分かったよ」
「聞こえない」
「自分を捨てねぇ! これでいいか!」
「覚えておく」
レトは死体置き場の奥へ戻り、床の鉄環を引いた。
石蓋が軋みながら開く。
地下へ続く狭い階段から、冷たい風が吹き上がった。血と黴、古い骨の臭いが混じっている。
階段の壁には、無数の文字らしき傷が刻まれていた。
爪で。石片で。折れた刃で。
どれも、忘れられることを拒むように深く刻まれている。
最下段で、赤い光が明滅した。
どくん。
壁の名前の影が、一斉に揺れる。
レトは暗闇を見下ろした。
「ここから先は、闘技場が捨ててきたものの墓場だ」




