第8話 ぼくの外は、こっち
東城門から遠ざかるたび、空が狭くなった。
自由へ向かう人の流れに逆らい、ロウラは闘技場へ走る。肩がぶつかり、肘が脇腹の傷へ食い込む。焼けた木の煙で目が滲み、口に入った灰が舌へざらついた。
「馬鹿! そっちは化け物だぞ!」
「戻れ!」
誰かが叫ぶ。
「うるせぇ! 知ってる!」
ロウラは押し返すように叫んだ。
知っている。
怖くないわけではない。
あの咆哮を聞くたび、腹の奥が縮む。闘技場から流れてくる生温かい風は、腐った肉と甘い花の臭いをいっそう濃くしていた。息を吸えば、喉の裏に何かが貼りつく。
それでも足は止まらなかった。
厨房の男の子が、まだ向こうにいる。
「リネア、おまえは門へ戻れ!」
頭上を飛ぶ黒猫が、翼を強く打った。
「やだ」
「やだじゃねぇ!」
「ぼくは外を知らない」
「だから見に行けってんだよ!」
「ロウラがいるところが、ぼくの外だよ」
ロウラは思わず足を緩めた。
リネアは怯えていた。黒い翼の先が震え、いつも細い声がさらに小さくなっている。
それでも、こちらへ飛んでくる。
「……勝手にしろ」
「うん。勝手にする」
「離れんなよ」
「うん」
答えだけが、少し嬉しそうだった。
*
闘技場へ続く大通りは、さっきまでとは別の場所になっていた。
露店の天幕は破れ、色鮮やかな果物が泥と血にまみれている。香辛料の袋が踏み潰され、甘い肉桂と鼻を刺す胡椒の香りが煙に混じっていた。
逃げ遅れた観客たちが、出口を求めて押し合っている。
「奴隷を捕まえろ!」
「それどころじゃない、化け物が!」
「子供がいないの! 誰か――」
絹の服を着た女が、ロウラの腕へすがりついた。
「助けて! 息子が中に!」
ロウラはその手を振り払った。
「あたしは今、別のガキを探してんだ」
「そんな……奴隷の子なんて――」
女は最後まで言えなかった。
ロウラが振り返っただけで、青ざめて口を閉じた。
腹が煮えた。
この女も、さっきまで客席で「殺せ」と叫んでいたかもしれない。
助けるものかと思った。
そう思いたかった。
「どんな服だ」
「え?」
「あんたのガキだよ!」
「青い上着に、金の留め具を――」
「見つけても、礼なんかいらねぇ」
ロウラは再び走り出した。
自分でも、何をしているのか分からない。
奴隷一人を助ければいいはずだった。
なのに、知ってしまった。
中には、もう一人子供がいる。
知る前なら、置いていけたのか。
答えは出なかった。
ただ、知ってしまった顔は、もう見捨てられなかった。
*
闘技場の外壁には、縦に大きな亀裂が走っていた。
地面が揺れるたび、白い石片が剥がれ落ちる。入口からは砂埃と人の群れが噴き出していた。
ロウラは流れに逆らって中へ入る。
途端に、音が変わった。
外では一つだった悲鳴が、円形の壁に反響し、何十人もの声になって押し寄せてくる。咳。泣き声。石の崩れる音。そして、そのすべてを押し潰す、湿った呼吸。
ずるり。
何か重いものを引きずる音がした。
入場廊の奥に、男の子が座り込んでいた。
ロウラが抱き上げた、煤だらけの子供だ。片脚が崩れた木枠の下敷きになっている。
「おい!」
駆け寄ると、男の子は泣き腫らした目を上げた。
「ごめんなさい」
「何で謝る!」
「離すなって、言われたのに……」
「離したのは、あの女だろうが」
「ぼくが、手を離した。怖くて……」
木枠を持ち上げる。下から引き抜いた脚は腫れていたが、骨は折れていない。
ロウラは男の子を抱き上げた。
「名前は」
「……ノア」
「よし、ノア。しがみつけ」
「どこへ行くの?」
「外だ」
「外って、どこ?」
さっきと同じ問いだった。
今度は迷わなかった。
「誰もおまえを踏まねぇ場所だ」
ノアの細い腕が、ロウラの首へ回る。
「青い服の子を見なかった?」
「柱のところ。泣いてた」
ロウラは舌打ちした。
やはり、知るものではない。
競技場へ出る直前の柱の陰に、青い上着の少年がうずくまっていた。ノアと同じくらいの年頃だった。
「立てるか」
「お、おまえ、奴隷だろ」
「置いてくぞ」
少年は慌てて立った。
その直後、壁の向こうから轟音が響いた。
石壁が内側へ膨らみ、砕ける。
「伏せろ!」
ロウラは二人の子供へ覆いかぶさった。
石片が背中を打つ。耳の奥で高い音が鳴り、しばらく何も聞こえなくなった。
顔を上げる。
崩れた壁の向こうに、闘技場の白い砂が見えた。
もう白くはなかった。
地面から、巨大な肉の塊が生えている。
人の腕に似た脚が何本も砂を掻き、膨れた胴には赤い筋が脈打っていた。頭らしいものはない。ただ、裂け目のような口が体中に開き、吸い込むたびに甘く腐った息を吐いている。
《成れの果て》。
それが動くたび、砂の中から千切れた鎖が引きずり出された。
逃げ遅れた男が転ぶ。
肉の腕が持ち上がった。
「やめろ!」
ロウラはノアを降ろし、走った。
腕が男へ振り下ろされる寸前、その下へ飛び込む。両手で受け止めた瞬間、熱く湿った皮膚が掌に貼りついた。
重い。
落とし格子より、ずっと。
「ぐ……うぅっ!」
膝が砂へ沈む。
背中の傷が開き、温かい血が腰へ流れた。怪物の体中の口から、赤子の泣き声にも似た音が漏れる。
怖い。
腕が潰れる。背骨が折れる。
それでも、下には人がいる。
「逃げろ!」
男は這うように離れた。
ロウラは怪物の腕を押し返し、拳を振りかぶった。
殺さないように。
そんな考えを、初めて捨てた。
「ぶっ壊れろ!」
拳を叩き込む。
肉が裂け、黒い液体が噴き上がった。腐臭が鼻を焼き、飛沫が口へ入る。鉄錆と泥を混ぜたような味に吐き気がこみ上げた。
怪物の巨体が傾く。
効いた。
そう思った次の瞬間、裂けた肉が蠢いた。
傷口から細い腕が何本も伸び、ロウラの拳へ絡みつく。
「なっ――」
腕を引いても抜けない。
怪物の裂け目が一斉に開いた。
笑っている。
そう見えた。
「ロウラ!」
リネアが怪物の胴の上部へ飛びかかる。黒い爪で赤い筋を引き裂くと、怪物が初めて身をよじった。
拘束が緩む。
ロウラは腕を引き抜き、二人の子供を抱えて転がった。
怪物の腕が、さっきまでいた場所を叩き潰す。
「リネア、無茶すんな!」
「ロウラに言われたくない!」
黒猫がよろめきながら肩へ着地した。
怪物の傷は、もう塞がり始めている。
「殴っても駄目かよ……」
「違う」
リネアが怪物を見つめた。
胸元の黒い毛の奥で、淡い光が点滅している。
「こいつ、ここに心臓がない」
「じゃあ、どこだ」
どくん。
足元から鼓動が響く。
怪物ではない。
もっと深い場所。闘技場の地下からだ。
リネアの黒い翼が、その方向を示すように広がった。
「下だよ」
砂の中央に、新しい亀裂が走った。
赤い光が、地の底からロウラを照らした。
「あれを止めないと、こいつは何度でも起きる」




