↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/61

第8話 ぼくの外は、こっち

 東城門から遠ざかるたび、空が狭くなった。


 自由へ向かう人の流れに逆らい、ロウラは闘技場へ走る。肩がぶつかり、肘が脇腹の傷へ食い込む。焼けた木の煙で目が滲み、口に入った灰が舌へざらついた。


「馬鹿! そっちは化け物だぞ!」


「戻れ!」


 誰かが叫ぶ。


「うるせぇ! 知ってる!」


 ロウラは押し返すように叫んだ。


 知っている。


 怖くないわけではない。


 あの咆哮を聞くたび、腹の奥が縮む。闘技場から流れてくる生温かい風は、腐った肉と甘い花の臭いをいっそう濃くしていた。息を吸えば、喉の裏に何かが貼りつく。


 それでも足は止まらなかった。


 厨房の男の子が、まだ向こうにいる。


「リネア、おまえは門へ戻れ!」


 頭上を飛ぶ黒猫が、翼を強く打った。


「やだ」


「やだじゃねぇ!」


「ぼくは外を知らない」


「だから見に行けってんだよ!」


「ロウラがいるところが、ぼくの外だよ」


 ロウラは思わず足を緩めた。


 リネアは怯えていた。黒い翼の先が震え、いつも細い声がさらに小さくなっている。


 それでも、こちらへ飛んでくる。


「……勝手にしろ」


「うん。勝手にする」


「離れんなよ」


「うん」


 答えだけが、少し嬉しそうだった。


     *


 闘技場へ続く大通りは、さっきまでとは別の場所になっていた。


 露店の天幕は破れ、色鮮やかな果物が泥と血にまみれている。香辛料の袋が踏み潰され、甘い肉桂と鼻を刺す胡椒の香りが煙に混じっていた。


 逃げ遅れた観客たちが、出口を求めて押し合っている。


「奴隷を捕まえろ!」


「それどころじゃない、化け物が!」


「子供がいないの! 誰か――」


 絹の服を着た女が、ロウラの腕へすがりついた。


「助けて! 息子が中に!」


 ロウラはその手を振り払った。


「あたしは今、別のガキを探してんだ」


「そんな……奴隷の子なんて――」


 女は最後まで言えなかった。


 ロウラが振り返っただけで、青ざめて口を閉じた。


 腹が煮えた。


 この女も、さっきまで客席で「殺せ」と叫んでいたかもしれない。


 助けるものかと思った。


 そう思いたかった。


「どんな服だ」


「え?」


「あんたのガキだよ!」


「青い上着に、金の留め具を――」


「見つけても、礼なんかいらねぇ」


 ロウラは再び走り出した。


 自分でも、何をしているのか分からない。


 奴隷一人を助ければいいはずだった。


 なのに、知ってしまった。


 中には、もう一人子供がいる。


 知る前なら、置いていけたのか。


 答えは出なかった。


 ただ、知ってしまった顔は、もう見捨てられなかった。


     *


 闘技場の外壁には、縦に大きな亀裂が走っていた。


 地面が揺れるたび、白い石片が剥がれ落ちる。入口からは砂埃と人の群れが噴き出していた。


 ロウラは流れに逆らって中へ入る。


 途端に、音が変わった。


 外では一つだった悲鳴が、円形の壁に反響し、何十人もの声になって押し寄せてくる。咳。泣き声。石の崩れる音。そして、そのすべてを押し潰す、湿った呼吸。


 ずるり。


 何か重いものを引きずる音がした。


 入場廊の奥に、男の子が座り込んでいた。


 ロウラが抱き上げた、煤だらけの子供だ。片脚が崩れた木枠の下敷きになっている。


「おい!」


 駆け寄ると、男の子は泣き腫らした目を上げた。


「ごめんなさい」


「何で謝る!」


「離すなって、言われたのに……」


「離したのは、あの女だろうが」


「ぼくが、手を離した。怖くて……」


 木枠を持ち上げる。下から引き抜いた脚は腫れていたが、骨は折れていない。


 ロウラは男の子を抱き上げた。


「名前は」


「……ノア」


「よし、ノア。しがみつけ」


「どこへ行くの?」


「外だ」


「外って、どこ?」


 さっきと同じ問いだった。


 今度は迷わなかった。


「誰もおまえを踏まねぇ場所だ」


 ノアの細い腕が、ロウラの首へ回る。


「青い服の子を見なかった?」


「柱のところ。泣いてた」


 ロウラは舌打ちした。


 やはり、知るものではない。


 競技場へ出る直前の柱の陰に、青い上着の少年がうずくまっていた。ノアと同じくらいの年頃だった。


「立てるか」


「お、おまえ、奴隷だろ」


「置いてくぞ」


 少年は慌てて立った。


 その直後、壁の向こうから轟音が響いた。


 石壁が内側へ膨らみ、砕ける。


「伏せろ!」


 ロウラは二人の子供へ覆いかぶさった。


 石片が背中を打つ。耳の奥で高い音が鳴り、しばらく何も聞こえなくなった。


 顔を上げる。


 崩れた壁の向こうに、闘技場の白い砂が見えた。


 もう白くはなかった。


 地面から、巨大な肉の塊が生えている。


 人の腕に似た脚が何本も砂を掻き、膨れた胴には赤い筋が脈打っていた。頭らしいものはない。ただ、裂け目のような口が体中に開き、吸い込むたびに甘く腐った息を吐いている。


 《成れの果て》。


 それが動くたび、砂の中から千切れた鎖が引きずり出された。


 逃げ遅れた男が転ぶ。


 肉の腕が持ち上がった。


「やめろ!」


 ロウラはノアを降ろし、走った。


 腕が男へ振り下ろされる寸前、その下へ飛び込む。両手で受け止めた瞬間、熱く湿った皮膚が掌に貼りついた。


 重い。


 落とし格子より、ずっと。


「ぐ……うぅっ!」


 膝が砂へ沈む。


 背中の傷が開き、温かい血が腰へ流れた。怪物の体中の口から、赤子の泣き声にも似た音が漏れる。


 怖い。


 腕が潰れる。背骨が折れる。


 それでも、下には人がいる。


「逃げろ!」


 男は這うように離れた。


 ロウラは怪物の腕を押し返し、拳を振りかぶった。


 殺さないように。


 そんな考えを、初めて捨てた。


「ぶっ壊れろ!」


 拳を叩き込む。


 肉が裂け、黒い液体が噴き上がった。腐臭が鼻を焼き、飛沫が口へ入る。鉄錆と泥を混ぜたような味に吐き気がこみ上げた。


 怪物の巨体が傾く。


 効いた。


 そう思った次の瞬間、裂けた肉が蠢いた。


 傷口から細い腕が何本も伸び、ロウラの拳へ絡みつく。


「なっ――」


 腕を引いても抜けない。


 怪物の裂け目が一斉に開いた。


 笑っている。


 そう見えた。


「ロウラ!」


 リネアが怪物の胴の上部へ飛びかかる。黒い爪で赤い筋を引き裂くと、怪物が初めて身をよじった。


 拘束が緩む。


 ロウラは腕を引き抜き、二人の子供を抱えて転がった。


 怪物の腕が、さっきまでいた場所を叩き潰す。


「リネア、無茶すんな!」


「ロウラに言われたくない!」


 黒猫がよろめきながら肩へ着地した。


 怪物の傷は、もう塞がり始めている。


「殴っても駄目かよ……」


「違う」


 リネアが怪物を見つめた。


 胸元の黒い毛の奥で、淡い光が点滅している。


「こいつ、ここに心臓がない」


「じゃあ、どこだ」


 どくん。


 足元から鼓動が響く。


 怪物ではない。


 もっと深い場所。闘技場の地下からだ。


 リネアの黒い翼が、その方向を示すように広がった。


「下だよ」


 砂の中央に、新しい亀裂が走った。


 赤い光が、地の底からロウラを照らした。


「あれを止めないと、こいつは何度でも起きる」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。