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第7話 自由まで十歩



 三度目の鐘が鳴り終わるより早く、ロウラは走り出した。


 石廊の空気は、怒号と土埃で濁っていた。裸足が床を叩き、鎖が鳴り、ひっくり返った油皿から黒煙が立ち上る。煙を吸い込むたび、喉の奥に苦い味が残った。


「東門だ! 壁に手をついて進め!」


 ロウラが叫ぶ。


 だが、返ってくるのは泣き声ばかりだった。


「どっちだ!」


「押すな!」


「息ができない!」


 厨房、厩舎、地下牢。別々の区画から飛び出した奴隷たちが、一つの狭い通路へ殺到している。誰も全体を知らない。三度の鐘だけを信じて走ってきたのだ。


 ロウラの前で、小さな男の子が転んだ。


 後ろから来た大人の足が、その細い背中を踏みかける。


 ロウラは子供の襟をつかみ、片手で持ち上げた。


「足元見やがれ! 自由になる前に踏み殺すぞ!」


「ロ、ロウラ……」


 腕の中で、男の子がしゃくり上げた。煤で汚れた頬を涙が二本、白く洗っている。


「泣くのは外に出てからだ」


「外って、どこ?」


 答えに詰まった。


 ロウラも、ルクサリアの城壁の外を知らない。


 砂のない地面。鉄格子のない寝床。朝になっても、誰も死んでいない場所。


 そんなものが本当にあるのか、見たことはなかった。


「知らねぇ。だから見に行くんだろ」


 男の子を後ろから来た女へ渡す。


「こいつを離すな!」


 女が頷いた直後、前方で悲鳴が上がった。


 看守が三人、通路を塞いでいた。


 一人が短剣を抜き、こちらへ向ける。いつも鞭を振るう男だった。だが、その切っ先は震えている。


「牢へ戻れ! 今なら罰だけで済む!」


「嘘つけ」


「反乱奴隷は全員、磔だぞ!」


「だったら、なおさら戻れねぇな」


 ロウラは歩みを止めなかった。


 看守の一人が剣を突き出す。


 身をずらし、手首をつかむ。力を込めすぎれば骨まで砕ける。ロウラは歯を食いしばり、奪った剣を床へ投げた。


 背後から二人目の鞭が飛ぶ。


 革紐が肩へ食い込み、傷口を裂いた。焼けた鉄を当てられたような痛みが走る。


「いってぇな!」


 鞭をつかんで引く。


 看守の体が宙へ浮き、仲間二人を巻き込んで床を転がった。


 ロウラは倒れた三人を見下ろす。


 殴れば、すぐ終わる。


 それでも、拳は握らなかった。


「寝てろ。起きたら、もう鞭を振るう相手はいねぇよ」


 奴隷たちが、おそるおそる看守の横を通り抜ける。


 最初は一人。次に三人。やがて堰が切れたように、全員が走り出した。


 その流れの最後尾で、セヴァンが負傷者の担架を担いでいた。


「十九人、全員います!」


「だったら先に行け!」


「ロウラさんは?」


「あたしが後ろだ!」


「では、俺も――」


「おまえは数えろ!」


 セヴァンが口を閉じた。


「誰も置いていかねぇんだろ。だったら前で数えてろ。あたしにはできねぇ」


 一瞬、セヴァンの顔から忠犬じみた熱が消えた。


 代わりに、任された者の目になる。


「……はい。必ず全員、運びます」


「頼んだぞ」


 その言葉を口にした自分に、ロウラは少し驚いた。


 誰かに頼むくらいなら、自分でやった方が早い。ずっとそう思ってきた。


 だが今は、目の前にいる全員をロウラ一人では抱えられない。


「行くよ、ロウラ」


 リネアが黒い翼を広げ、低い天井すれすれを飛ぶ。


「分かってる!」


     *


 闘技場の東口を抜けると、昼の光が目に突き刺さった。


 眩しさに涙が滲む。


 石造りの街路には、荷車が横倒しになり、潰れた果実から甘酸っぱい汁が流れていた。馬の汗と糞、焼きたてのパン、燃え始めた木材の臭い。闘技場の外にも、こんなにたくさんの臭いがある。


 通りの向こうに、ルクサリアの東城門が見えた。


 開いている。


「門だ!」


 誰かが叫んだ。


 城門の外には黒塗りの棺車が何台も並び、痩せた馬が落ち着きなく地面を蹴っている。先頭の御者台で、オルムが大きく腕を振った。


「走れ! 死体は待たせても、死人は待たせるな!」


「意味分かんねぇぞ、葬儀屋!」


 ロウラは叫び返した。


 オルムが笑った。


 城門まで、あと五十歩。


 奴隷たちの足が速くなる。


 そのとき、門番が異変に気づいた。


「反乱だ! 門を閉じろ!」


 城壁の上で歯車が回り始める。耳障りな金属音とともに、鉄の落とし格子が下りてきた。


「止めろ!」


 ロウラは人の波を追い越した。


 あと三十歩。


 脇腹から血が噴き、足元へ赤い点が続く。息を吸うたび胸が痛む。それでも止まれない。


 あと十五歩。


 格子の先端が、石畳へ迫る。


 あと五歩。


 ロウラは滑り込み、落ちてきた鉄格子を両手で受けた。


 衝撃が腕から背骨を突き抜ける。


「ぐっ……!」


 膝が石畳へめり込んだ。


 鉄の錆が掌を裂く。口の中に血の味が広がった。腕が震え、格子が少しずつ下がってくる。


「行け!」


 一人、また一人と、奴隷たちが格子の下をくぐる。


 子供。厨房の女。片脚の厩番。担架に載せられた二人。バルカは痛む足を引きずりながら、ロウラの前で立ち止まった。


「お前はどうする」


「後で行く!」


「本当か」


「孫に言いつけんぞ!」


 バルカは泣き笑いの顔になり、門の外へ出た。


 自由まで、あと十歩。


 たった十歩先で、棺車が待っている。


 空は広く、風は乾いていた。闘技場の中では吸ったことのない風だった。


 ロウラも、そこへ行ける。


「十九!」


 セヴァンの声がした。


 門の外で、彼は何度も人差し指を動かしている。


「十七、十八……」


 顔から血の気が引いた。


「一人足りません」


「もう一回数えろ!」


「三回数えました! 厨房の子供が一人いない!」


 腕の力が抜けかけた。


 さっき抱き上げた男の子だ。


 女へ渡した。その女は門を出ている。だが、その腕に子供はいなかった。


 背後から、地鳴りが迫ってきた。


 どくん。


 石畳が波打つ。


 街路の窓が一斉に割れ、鋭い破片が雨のように降った。闘技場の方角から、腐った肉と甘い花の臭いが押し寄せる。


 次いで、人間とも獣ともつかない咆哮が響いた。


 腹を空かせた声ではない。


 生まれたことそのものを憎んでいるような声だった。


「《成れの果て》だ!」


 門番の一人が叫んだ。


「地下の化け物が出たぞ!」


 逃げてきた市民が、奴隷たちとぶつかる。金持ちも、商人も、観客も、同じ顔で泣きながら城門へ押し寄せてきた。


 リネアがロウラの肩に降りた。黒い体が細かく震えている。


「ロウラ、外はあっちだよ」


「ああ」


「あの子は、向こうだよ」


「ああ」


 背後では悲鳴。


 目の前には、初めて触れた自由。


 鉄格子を支える腕が、もう限界だった。


「セヴァン!」


「はい!」


「代われ!」


 セヴァンは何も聞かなかった。すぐに数人を呼び、格子の下へ肩を入れさせる。


 ロウラが手を離す。


 自由まで、あと十歩だった。


 ロウラはその十歩に背を向けた。


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