第6話 勝つ必要はない
ディオンの剣に刻まれた傷は、遠目にも黒い線となって見えた。
折るための傷だ。
ロウラは入場口の鉄格子に指をかけた。焼けた砂の熱が廊下まで流れ込み、傷口に染みた汗が脇腹を刺す。
「ロウラさん、治療室へ」
セヴァンが血のついた布を手に言った。
「まだだ」
「ですが――」
「この試合が終わるまで動くな」
自分で口にしてから、ロウラは唇を噛んだ。
試合が終われば、すべてが始まる。
百人以上の奴隷が走る。武器庫が開く。看守たちが剣を抜く。誰かは転び、誰かは捕まり、誰かは死ぬかもしれない。
昨夜までは、鐘が鳴れば何とかなると思っていた。
今は違う。
逃がしたい顔が増えすぎた。
隣では、白髪の剣闘士が壁にもたれて荒い息をしている。ロウラが倒した三人のうち、歩けるのは彼だけだった。額に巻いた布から、赤い血が滲んでいる。
「さっさと治療室へ行け、じいさん」
「自由と銀貨百枚を逃した男に、ずいぶん優しいな」
「孫に会うんだろ」
男は目を伏せた。
「最後に見たのは、あの子が三つの頃だ。顔も覚えちゃいないだろう」
「だったら、覚えさせりゃいい」
「二十年も前の話だぞ」
「名前は」
「さっき言ったろ。ティアだ」
「そっちじゃねぇ。あんたの名前だよ」
男は驚いた顔をした。
闘技場では《老いぼれ》か《斧持ち》としか呼ばれていないのだろう。やがて、確かめるように自分の胸へ手を置いた。
「……バルカだ」
「忘れんな。孫に呼ばせろ」
バルカの唇が震えた。
「セヴァン。こいつも東門へ連れてけ」
「承知しました」
「俺は足手まといになる」
ロウラは鉄格子から目を離さなかった。
「数から抜けんな。ぶっ飛ばすぞ」
バルカが何かを答える前に、闘技場の銅鑼が鳴った。
*
ディオンの相手は、全身を青銅の鎧で覆った大男だった。
兜から覗く目は小さく、手にはディオンの胴ほどもある長方形の盾と、湾曲した剣。歩くたびに鎧が擦れ、鉄を噛むような音が砂の上を這った。
「東方属州の死刑囚! 六人の兵を殺した《城門砕き》ボルガ!」
呼び声とともに、大男が盾を打ち鳴らした。
ディオンは赤い外套を脱ぎ、砂へ落とした。
鍛え上げられた体には、数えきれない傷が走っている。古いものは白く盛り上がり、新しいものは赤黒い。百回の勝利を祝う飾りなど、どこにもなかった。
銅鑼が鳴る。
ボルガが突っ込んだ。
盾がディオンの胸へ激突する。鈍い音がして、巨体が宙を舞った。
ロウラの指が格子へ食い込む。
「ディオン!」
観客は歓声を上げた。人が壊れる音を、楽器か何かだと思っている。
ディオンは砂をつかんで起き上がった。口から血を吐き、笑う。
「どうした! 城門は俺より軽いのか!」
観客が沸いた。
あれが不倒のディオンだ。
骨が軋んでも、血の味が口に広がっても、観客が望む言葉を吐く。自分の痛みまで見世物に変え、大勢の目を自分だけへ引きつける。
ボルガの剣が振り下ろされる。
ディオンは盾で受けた。木と鉄が砕け、破片が頬を裂く。続く横薙ぎを剣で逸らし、鎧の隙間へ切っ先を滑らせた。
脇腹。膝裏。手首。
どれも浅い。
相手を殺すためではなく、動きを奪うための傷だった。
ボルガが怒号を上げ、盾を振り回す。ディオンは避けず、肩で受けた。骨の鳴る音が、歓声の隙間から聞こえた。
「何で避けねぇんだよ……」
ロウラには分かった。
避ければ、試合が長引く。
時間をかければ、興行主が異変に気づくかもしれない。ディオンは自分の体を削って、計画の時刻へ試合を合わせている。
ボルガが三度目の突進に入った。
ディオンは正面から走った。
激突する寸前、身を沈める。長方形の盾の下へ肩を入れ、相手の勢いを受けたまま、腰をひねった。
青銅の巨体が反転する。
砂が爆ぜた。
ボルガは仰向けに倒れた。起き上がろうとしたが、傷ついた膝が動かない。
ディオンの剣先が、その喉へ向けられる。
闘技場を揺らす声が一つになった。
「殺せ!」
「殺せ!」
「殺せ!」
貴賓席の興行主が立ち上がり、親指を下へ向けた。
ボルガは兜の奥で目を閉じた。
ディオンは剣を振り上げた。
ロウラは息を止める。
剣が振り下ろされた。
刃はボルガではなく、ディオン自身の膝を打った。
刀身に刻まれていた傷から、剣が折れる。
甲高い音がした。
何千人もの声が、一瞬で消えた。
「殺さねぇのかよ」
ロウラの口元が、勝手に上がった。
「真似すんな、馬鹿」
ディオンは折れた剣を砂へ投げた。
そして観客席ではなく、奴隷用の通路へ顔を向けた。
鐘楼で、男が大槌を持ち上げる。
一度目の鐘が鳴った。
ゴォン――。
巨大な音が空気を押し潰し、ロウラの腹の底まで突き抜けた。天井の砂がぱらぱらと落ちる。
厨房の奥で、皿の割れる音がした。
看守が振り返る。
「何だ、今のは」
二度目の鐘。
ゴォン――。
武器庫の方角で、錠前の砕ける音が響いた。
「走れ!」
誰かが叫んだ。
裸足が石床を蹴る。鉄の器が転がる。女の悲鳴、子どもの泣き声、男たちの怒号が、狭い通路で一つに混じった。
セヴァンがバルカの腕を肩に回し、残る二人を担架へ載せる。
「ロウラさん、十九人です!」
「何が!」
「ここから東門へ運ぶ人数です。歩ける者が十一、負傷者が五、子どもが三!」
「んなもん数えてる暇があったら走れ!」
「数えなければ、置いていったことにも気づけません!」
ロウラは言い返せなかった。
セヴァンの目には、もう怯えた新人の色がない。
「……一人でも減ったら承知しねぇぞ」
「はい!」
三度目の鐘が鳴った。
ゴォン――。
音が街へ広がっていく。
ディオンは血まみれの拳を天へ突き上げた。
「勝つ必要はない!」
誰も動けなかった闘技場で、その声だけが響いた。
「城門の外まで、生きて走れ!」
奴隷たちが走り出す。
ロウラも東門へ向かおうとした。
その足元で、石床が大きく跳ねた。
鐘の余韻ではない。
地下深くから、もう一つの音が返ってきた。
どくん。
リネアの黒い翼が、恐怖でいっぱいに広がった。
「ロウラ。下にいる」
「何が」
石の隙間から、生温かい風が吹き上がる。
腐った肉と、甘い花を混ぜたような臭いがした。
「分からない。でも――」
四度目の鼓動が、闘技場全体を揺らした。
「起きたよ」




