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第5話 女神は笑わない



 鉄格子の向こうから、朝の光が差していた。


 剣闘士の入場口へ続く石廊には、焼けた油と古い血の臭いがこびりついている。その先では、満員の観客が足を踏み鳴らしていた。


「幸運の女神!」


「ロウラ!」


「今日も派手に壊してくれ!」


 腹の底まで震わせる歓声だった。


 普段なら、悪い気はしない。名前を呼ばれれば手を振り、野次を飛ばされればもっとひどい言葉を返す。それがロウラの試合だった。


 だが今日は、歓声の一つ一つが鎖の音に聞こえた。


「顔、怖いよ」


 足元でリネアが言った。


 黒い翼を体に沿って畳んだ黒猫は、鉄格子の隙間からロウラを見上げている。いつもなら入場口までついてくるだけで満足するのに、今日は尻尾をロウラの足首へ巻きつけて離さなかった。


「これから三人ぶっ飛ばすんだ。笑ってられっか」


「違うよ。ロウラ、試合の向こうを見てる」


「……見てねぇ」


「見てるよ。ぼくには分かる」


 鐘が三度鳴ったら東門へ。


 それまでは何も知らない顔をしろ。勝て。生き残れ。


 昨夜ディオンから言われたことが、頭の中を何度も回っていた。


「ロウラ」


「あ?」


「ちゃんと帰ってきてね」


 幼い声だった。


 ロウラはしゃがみ、リネアの額を指で小突いた。


「あたりまえだろ。あたしを誰だと思ってんだ」


「ロウラ」


「そこは女神って言えよ」


「ロウラはロウラだよ」


 鉄格子が上がり始めた。


 光と歓声が、暗い廊下へ雪崩れ込む。


 ロウラは立ち上がった。


「そういうことにしといてやる」


     *


 白い砂を敷き詰めた闘技場は、巨大なすり鉢の底に似ていた。


 幾重にも重なる観客席。その最上段には、青空を切り取るように大鐘の鐘楼が立っている。


 まだ鐘は鳴らない。


 ロウラは中央へ進み、渡された短剣と円盾を確かめた。短剣は細い。盾も妙に軽い。どうせ長くはもたない。


 向かい側の格子が開いた。


 一人目は長槍を持った痩せた男。二人目は投網と鉤付きの棍棒を構えた大男。三人目は、片刃の斧を引きずる白髪の剣闘士だった。


 三人とも、ロウラを見ていない。


 貴賓席を見上げていた。


 金の縁取りをした長衣の興行主が立ち上がり、両手を広げる。


「勇敢なる挑戦者たちよ! 《幸運の女神》を討ち取った者には、自由と銀貨百枚を与える!」


 観客が沸いた。


 三人の顔が変わった。


 槍の男は唇を噛み、大男は胸の護符を握った。白髪の男だけが、ゆっくり斧を持ち上げる。


「恨むなよ、娘」


「恨まねぇよ」


 ロウラは短剣を構えた。


「その代わり、死んでも化けて出んな。面倒くせぇから」


 開始の銅鑼が鳴った。


 最初に来たのは網だった。


 空を覆うように広がる投網を、ロウラは盾で受ける。鉛玉のついた縁が腕へ絡みついた。


 そこへ槍が走る。


 半歩ずれてかわしたつもりが、穂先は脇腹を浅く裂いた。熱い血が腰を伝う。


「いってぇな、クソが!」


 盾ごと網を引いた。


 大男の体が宙に浮き、砂へ叩きつけられる。観客が笑った。


 槍がもう一度来る。


 ロウラは短剣で穂先を払った。


 甲高い音とともに、短剣が根元から折れた。


 一瞬の静寂。


 次いで、待ち望んでいた見世物を与えられたように、歓声が爆発した。


「出たぞ!」


「女神の幸運だ!」


「次は盾だ!」


 何が幸運だ。


 ロウラは折れた短剣を見つめた。


 握れば壊れる。受ければ砕ける。それでも最後に立っているから、こいつらは笑う。


 自分が何度、武器の壊れる音に怯えたかも知らずに。


 槍の男が踏み込んだ。


 ロウラは穂先を盾で受け、脇へ流そうとした。


 力が抜けない。


 円盾に亀裂が走った。次の瞬間には、木板が真っ二つに割れていた。


 また歓声が上がる。


「壊せ!」


「全部壊せ!」


 ロウラの奥歯が鳴った。


「あたしは、壊したくて壊してんじゃねぇ!」


 叫びは歓声に呑まれた。


 斧が横薙ぎに迫る。


 ロウラは割れた盾を捨て、身を沈めた。刃が髪を数本さらう。そのまま白髪の男の懐へ入り、拳を握る。


 本気で殴れば死ぬ。


 分かっている。だから怖い。


 ロウラは拳を開き、掌で男の胸を押した。


 それでも男は数歩吹き飛び、砂の上を転がった。


 殺していない。


 胸が上下しているのを確かめている間に、槍の柄が背中を打った。息が詰まり、膝が砂につく。


「立て!」


 観客が叫ぶ。


「幸運の女神!」


「立って、ロウラ!」


 リネアの声が、入場口から聞こえた。


 同じ「立て」なのに、まるで違った。


 観客が見たいのは、血まみれになっても動く商品だ。


 リネアが待っているのは、自分だ。


 ロウラは折れた短剣を捨てた。


「女神、女神って、うるせぇんだよ」


 槍の男が突進してくる。


 今度は避けなかった。


 両手で槍の柄をつかむ。力を込めれば、これも折れる。それではまた同じだ。


 ロウラは引いた。


 相手の力を、そのまま受け取るように。


 槍の男が前のめりになったところで足を払う。男は砂へ倒れ、槍だけがロウラの手に残った。


 折れていない。


 小さなことだった。


 それでも胸の奥に、火が灯った。


 背後から網の大男が迫る。ロウラは槍を横に寝かせ、棍棒を受け止めた。柄が軋む。折れる前に手を離し、相手の腕を取って投げる。


 大男の体が、起き上がりかけた槍の男へ重なった。


 最後に白髪の男が、斧を振り上げて走ってきた。


 額から血を流しながら、笑っていた。


「俺には、孫がいる」


「そうかよ」


「自由になって、会いに行く」


「ああ」


 ロウラは動けなかった。


 男が勝てば、自由になれるかもしれない。


 自分が勝てば、この男は――。


「避けろ、ロウラ!」


 リネアが叫んだ。


 斧が振り下ろされる。


 ロウラは横へ飛び、砂を転がった。刃が肩をかすめる。男が斧を引き抜くより早く、その手首をつかんだ。


「孫の名前は」


「……ティアだ」


「じゃあ生きて、自分で呼べ」


 手首をひねり、斧を落とす。


 ロウラは男の顎を、指先が触れるほどの拳で打った。


 白髪の男は膝をつき、砂へ倒れた。


 三人とも生きている。


 ロウラは肩で息をしながら、貴賓席を睨んだ。


「勝者、《幸運の女神》ロウラ!」


 判定を告げる声に、観客が総立ちになる。


 ロウラは笑わなかった。


「女神じゃねぇ」


 誰にも届かない声で呟く。


「あたしは、ロウラだ」


     *


 退場口へ戻ると、セヴァンが駆け寄ってきた。


「ロウラさん! 傷を――」


「あとだ。それより、あの三人を探せ」


「何をするんです」


「東門へ連れてく」


 セヴァンは一度だけ目を見開き、すぐに頷いた。


「分かりました。担架と水、それから動ける奴を集めます」


 もう走り出している。


 言われたことの先を考える。意外に使えるかもしれない。


 リネアがロウラの肩へ飛び乗った。黒い翼を震わせ、頬に鼻先を押しつける。


「帰ってきた」


「言ったろ」


「うん」


 その向こうで、次の鉄格子が上がる。


 赤い外套をまとったディオンが、光の中へ歩き出した。


 すれ違いざま、彼は足を止めなかった。


「鐘を聞け」


「あんたも戻ってこい」


 返事はない。


 観客席から、それまでとは比べものにならない歓声が降ってきた。


「不倒のディオン!」


「百一勝目だ!」


 ロウラは振り返った。


 ディオンが掲げた剣。その刀身の中央には、昨夜までなかった深い傷が刻まれていた。


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