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第4話 鐘は3度鳴る

 ルクサリア闘技場の地下には、陽が差さない。


 昼と夜を分けるのは、頭上から響く歓声と、食事を載せた木桶が運ばれてくる回数だけだ。


 その晩、ロウラは石壁に背を預け、固い黒パンを奥歯で噛み砕いていた。向かいではセヴァンが、同じパンを両手で持ったまま、食べることも忘れて彼女を見つめている。


「……食わねぇのか」


「食います」


「じゃあ食え」


「はい」


 答えだけは勇ましい。だが、また見ている。


 先日の試合でロウラに命を拾われてから、ずっとこの調子だった。忠犬というものをロウラは見たことがないが、たぶんこういう目をするのだろう。


「ついてくんなって言ったよな」


「三回ほど」


「数えてんじゃねぇよ」


 ロウラの膝で丸くなっていた黒猫が、片目だけを開けた。


「ぼくは、悪くないと思うよ」


「おまえまで何だよ、リネア」


「ロウラには、見ている人が必要だからさ」


「見張りなら足りてるっての」


 通路の向こうを、鞭を腰に下げた看守が二人、灯火を揺らして通り過ぎた。ロウラは声を落とす。セヴァンもようやくパンへかじりついた。


 そのとき、牢格子の前に大きな影が止まった。


「ロウラ。水場の詰まりを直せ」


 不倒のディオンだった。


 明日の大興行で百一勝目に挑む男は、奴隷には似合わない赤い外套を肩に掛けていた。日に焼けた顔には、観客に向ける豪快な笑みがある。


 だが目だけが笑っていない。


「今から?」


「今しかない」


 それだけで、ロウラにも分かった。


 何かが始まる。


     *


 使われなくなった排水槽は、剣闘士宿舎のさらに下にあった。


 天井は低く、湿った石の臭いが鼻につく。壁際の水路には黒い水が細く流れ、その向こうで鼠が鳴いていた。


 集まっていたのは七人。剣闘士だけではない。厨房の女、武器庫の老人、片脚を引きずる厩番。どれも顔は知っているが、名前までは知らない者たちだった。


 ディオンは床へ粗末な見取り図を広げた。


「明日の大興行で、俺が百一勝目を挙げる」


「ずいぶん自信満々だな」


「勝てなければ、すべて終わる。だから勝つ」


 さらりと言う。その声には、長年闘技場の頂点に立ち続けた男の重みがあった。


 ディオンの指が見取り図の中央から東へ滑る。


「試合のあと、大鐘が三度鳴る。一度目で作業を止めろ。二度目で武器庫が開く。三度目で全員、東門へ走れ。城外ではオルムの荷車が待っている」


 ロウラは眉を寄せた。


「全員って、誰だ」


「聞いた者すべてだ」


「地下牢の連中は」


「鍵を奪う」


「厨房のガキどもは」


「連れていく」


「歩けねぇ奴は」


「荷車へ乗せる」


 答えはすぐに返ってきた。何度も同じ問いを、自分自身へ浴びせてきたのだろう。


「何人だよ」


「分からん」


「分からねぇのに逃がすのか」


「数えてからでは、間に合わない」


 ディオンの言葉に、片脚の厩番が俯いた。


 その横顔を見た瞬間、ロウラの胸がちくりと痛んだ。見知らぬ誰かではない。厩番はいつも、余った人参の端をリネアにくれる男だった。厨房の女は、ロウラが罰で食事を抜かれた夜、焦げた豆を布に包んで格子の隙間から押し込んでくれた。


 名前を知らなくても、いなくなれば分かる。


 この地下では、朝になるたび誰かが消える。皆、気づかないふりをしてきただけだ。


「で、あたしは何をすりゃいい」


「鐘が鳴ったら東門へ行け。逃げる奴らを守れ」


「分かった」


「……もう少し聞かないのか?」


「東門だろ?」


 暗がりで誰かが吹き出した。ディオンは額を押さえた。


「お前を作戦会議に呼ばないでよかったよ」


「呼んでんじゃねぇか」


「今のは作戦会議ではない。お前にも分かるよう、説明してやっただけだ」


「ぶっ飛ばすぞ」


 小さな笑いが排水槽に広がり、すぐ消えた。


 笑える者ばかりではなかった。武器庫の老人は震える手を握り合わせ、厨房の女は唇を噛んでいる。


 失敗すれば、ここにいる全員が磔になる。


 成功しても、明日の夜に誰が隣にいるかは分からない。


 ロウラは初めて、この場所を牢獄ではなく、帰ってこられなくなる場所として見た。


「ディオン」


「何だ」


「あんたは、どこから逃げる」


 一瞬だけ、誰も息をしなかった。


 ディオンは見取り図から目を上げない。


「俺は闘技場に残る。追手を引きつける者が要る」


「それは逃げるって言わねぇ」


「俺の顔は知れ渡っている。百人を逃がすなら、一番目立つ一人が残るのが安い」


 安い。


 人の命を、まるで市場の秤に載せるように言った。


 ロウラは立ち上がり、ディオンの胸倉をつかんだ。赤い外套の下で、鎖が鳴る。


「勝手に値段つけてんじゃねぇよ」


「放せ」


「全員逃げるんだろうが。自分だけ数から抜くな」


 ディオンは怒らなかった。哀れむようにも笑わなかった。


 ただ、疲れた目でロウラを見た。


「百勝すれば自由だと約束された」


 低い声だった。


「百勝目の日、興行主は言った。“百勝したのは不倒のディオンだ。奴隷のディオンではない”とな。観客が愛しているのは俺じゃない。明日、あいつらの英雄を殺してやる。それが俺にできる最後の仕事だ」


 胸倉をつかむロウラの指から、力が抜けた。


 自分も《幸運の女神》と呼ばれている。


 剣を折っても、血を流しても、笑って立てば観客は喜ぶ。ロウラという名など、歓声に呑まれて聞こえなくなる。


 同じだ。


 そう思った途端、腹の底が冷えた。


「……気に食わねぇ」


「ああ」


「あんたも、あいつらも。全部だ」


「ああ」


「だから迎えに戻る」


 ディオンの目が、わずかに揺れた。


「東門を守れと言った」


「守る。全員ぶち込んだら戻る」


「命令違反だ」


「今さらだろ」


 今度こそ、ディオンは笑った。


 観客へ見せる英雄の笑顔ではなかった。困り果てた、ただの男の顔だった。


「その顔で黙っていられると思った俺が馬鹿だった」


「やっと気づいたか」


「だが、戻るな。これは命令だ」


「聞こえねぇ」


 ロウラは耳をふさぐ真似をした。


 肩のリネアが、首筋へ額を押しつけてくる。


「ロウラ」


「何だよ」


「ぼくも、一緒に戻るよ」


 細い声は震えていた。それでも、言い直さなかった。


 ロウラは猫の背を一度だけ撫でた。


「あたりまえだ」


 そのとき、頭上で鉄扉が開く音がした。


「ディオン! ロウラ! どこにいる!」


 看守の怒声が排水路へ反響する。


 七人が凍りついた。


 ディオンは見取り図を掴み、灯火へ押しつけた。乾いた羊皮紙に火が走る。逃げ場のない地下に、革の焼ける臭いが満ちた。


 足音が近づいてくる。


「明日の組み合わせが変わった!」


 看守は、嬉しそうに叫んだ。


「第一試合は《幸運の女神》ロウラ! 特別試合、一対三だ!」


 ロウラは燃え落ちる見取り図を見つめた。


 ディオンの百一勝目が始まる前に、自分が死ねば――東門を守る者はいない。


 その足元で、石床が脈打った。


 どくん。


 まるで闘技場のさらに下で、巨大な心臓が目を覚ましたように。


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