第3話 葬儀屋は生者を運ぶ
三千年前、ルクサリア大闘技場の裏手にある遺体処置室。最初の死体は、死んでから三度、指を動かした。
レトは数えていたわけではない。二十代前半に見える細身の青年で、少し乱れた焦げ茶の髪と、眠たげに細い濃灰色の目をしている。簡素な黒衣のせいもあり、生者らしい気配がひどく薄い。
死者の動きには、生者の身じろぎとは違う間がある。忘れたころに一度。もう終わったと思わせて、また一度。
闘技場裏の処置室には、酢と血と香草の匂いがこもっていた。石台の上で、男の胸は大きく裂けている。心臓が動いていないことは、確かめるまでもなかった。
それでも指が曲がり、喉の奥から細い息のような音が漏れた。
オルムが死亡札と男の顔を見比べる。五十代後半の痩せた男で、短い白髪と整えた顎鬚を持つ。染みのついた前掛けの下では背を少し丸めているが、落ちくぼんだ濃茶の目と大きな手は、細かな変化を見逃さない。
「今ので死んだのか」
「元から死んでた」
「では、今のは何だ」
「片づけた」
「お前は何でも片づけで済ませるな」
レトは古い革鞘からナイフを抜いた。
黒い刃は、貧しい葬儀屋の道具には不釣り合いなほど美しい。灯火を映さず、周囲の明かりだけを薄く奪っている。
刃を男の胸にある古傷へ当てた。
指の震えが止まる。喉の音も消えた。
静かになった部屋で、レトは男の目を閉じた。
「よく戦った」
死者に言葉をかけるときだけ、レトは冗談を言わない。
オルムも黙って頭を下げた。それから名簿を開き、葬儀費用の欄へ印をつける。費用が本当に墓へ使われることは少ない。一般の奴隷剣闘士なら、書類の上で葬られ、実際には古い地下縦坑へ投げ込まれる。
死体が消えれば、金も消える。
長いあいだ、誰も数えなかった。
オルムだけが、死亡者の名と墓の数と支払われた金を数えた。
最初は計算違いだと思ったらしい。
死亡者名簿には三十人。墓地の埋葬記録には二十七人。葬儀費用は三十人分。翌月は四十二人、三十五人、四十二人分。その次も、その次も、数字は合わなかった。
帳簿をさかのぼるほど、墓へ入れなかった死者が増えた。
「役人へ言えばよかっただろ」
以前そう言ったとき、オルムは三冊の帳簿をレトの前へ積んだ。
「この印を見ろ。費用を承認した役人、埋葬を確認した役人、支払いを受けた埋葬係。全員、違う名前に見えるか」
「字が汚い」
「同じ印章だ」
「最初からそう言え」
不正を訴える相手が、不正をしている本人だった。
オルムは告発をやめた。代わりに、消される名前を自分で拾い始めた。
正しいことをするには、正しい窓口へ行けばよい。そう信じられるほど、二人とも若くはなかった。
「次だ」
扉の外から、二人目の剣闘士が運び込まれた。
若い男だった。頭から血を流し、目を閉じている。役人は石台へ置くと、鼻を布で覆った。
「試合中に死亡。埋葬はまとめて明朝だ」
「傷を確認する」
オルムが言うと、役人は面倒そうに肩をすくめて出ていった。
足音が遠ざかる。
レトは死体の鼻先へ手をかざした。
「オルム。こいつ、生きてる」
「名簿では死んでいる」
「息は名簿を読まない」
「だから面倒なんだ」
オルムは扉に閂をかけた。男の耳元で呼びかけ、瞼を持ち上げる。反応は鈍いが、命は残っていた。
男の目がわずかに開いた。
「動くな」
オルムが囁く。
「お前は死んだ。少なくとも、あいつらの前ではな」
男は声を出そうとしたが、血の泡が唇へ浮いただけだった。恐怖で身体がこわばり、石台の縁をつかむ。
「安心しろ。ここには葬儀屋しかいない」
レトが言うと、男の目がさらに見開かれた。
「安心させる言葉を選べ」
「死んだことにされるより、死ぬ方がいいのか」
「お前は黙って傷を見ろ」
「死者を生き返らせるのは、葬儀屋の仕事か」
「死者は生き返らない。これは役人が間違えただけだ」
「最近、その間違いが多いな」
「こちらで訂正しているからな」
オルムは死亡札を灯火へかざした。薄板が焦げ、男を死者にした文字が炎の中で丸まっていく。
代わりに、衣の内側から小さな帳面を出した。
表紙は汗と油で黒ずみ、角が擦り切れている。オルムはそこへ男の本当の名を書いた。
「燃やしたのに、また書くのか」
「役人の名簿から消す。俺の帳面には残す」
「面倒なことをする」
「お前にだけは言われたくない」
レトは男を抱き起こした。軽い。剣闘士として売られ、見世物として傷つけられ、死体になってようやく都市の外へ出られる。その身体が、あまりにも軽かった。
男がレトの衣を弱くつかんだ。
「外へ……出られるのか」
「棺の蓋を自分で開けなければな」
「もし、見つかったら」
レトは答えなかった。
オルムが代わりに、男の手へ小さな死亡札の欠片を握らせた。
「そのときは、俺たちも一緒に捕まる。お前一人の失敗にはならない」
助かるとは言わない。その言葉だけで、男の指から少し力が抜けた。
床下の物置から空の棺を出す。底板の下には、呼吸のための細い穴と、水を入れる革袋が仕込まれていた。
「準備がいいな」
「葬儀屋だからな」
「生きている人間を棺で運ぶ葬儀屋は、評判が悪そうだ」
「死者から苦情は来ていない」
「生者からは?」
「帰ってこない。だから問題ない」
二人で男を棺へ寝かせた。オルムは水と、固いパンと、外套を入れる。隠れ家へ着くまでに必要なものを、一つずつ確かめた。
レトには、その手つきが葬送より慎重に見えた。
蓋を閉じる前に、レトは男の額へ手を置いた。
「息を浅くしろ。荷車が三度止まる。最初は裏門、次が市壁、最後が隠れ家だ。二度目を越えるまでは、何を聞いても動くな」
「あんた、葬儀屋なんだろ」
「今日まではな」
レトが蓋を閉じると、オルムが横から睨んだ。
「今日までにするな。明日も働け」
「職使いの荒い死人だ」
「俺は生きている」
「名簿を見せろ。話はそれからだ」
裏口には、棺を載せる荷車が待っていた。今夜運ぶものは一つ。しかし荷台の陰には、畳まれた麻布と水樽が、必要以上に積まれている。
「何人運ぶ気だ」
「明日、分かる」
オルムは処置室へ戻ると、壁際に空の棺を並べ始めた。一つ、二つ、三つ。隣室にも、さらに五つ。
作業台には、死亡札とは別の紙が伏せてあった。レトが端を持ち上げると、細かな字で場所と人数が並んでいる。
闘技場。奴隷宿舎。武具庫。奴隷市場。採石場。
最後に記された合計は、百二十人。
「これは葬儀の名簿じゃないな」
「明日、逃げる者の名簿だ」
「百二十人を棺へ詰めるのか。積む前に窒息するぞ」
「棺を使うのは、歩けない者と追われた者だけだ。ほかは自分の足で走る」
「都市を奪う気か」
「そんな立派な話ではない。門の外へ出る。それだけだ」
それだけ、とオルムは言った。
奴隷にとっては、都市一つを奪うより難しいことを。
「全員は無理だ」
「分かっている」
「半分も出られないかもしれない」
「分かっている」
「なら、なぜやる」
オルムは名簿を伏せ直した。
「何もしなければ、全員がここで死ぬ。日にちが違うだけだ」
その言葉には、長いあいだ墓へ入れなかった死者を数えてきた人間の重さがあった。
レトは腕を組んだ。
「死人を運ぶのか」
「生きている方を運べ」
「葬儀屋の仕事じゃない」
「明日だけだ」
「その言い方をする奴は、明後日も同じことを言う」
オルムは答えなかった。
答えない代わりに、空の棺をもう一つ運んできた。
レトはため息をつき、その反対側を持った。
「明日だけだ」
「それは俺の台詞だ」
「今のうちに返しておく。どうせ長く借りることになる」
遠くで闘技場の歓声が上がった。すぐに罵声へ変わり、鞭が肉を打つ音がかすかに届く。
レトの腰で、黒いナイフが震えた。
革鞘の内側から、一度だけ低い音が鳴る。
まるで、はるか地下にある何かが、その刃を呼んだようだった。
レトは闘技場の石壁へ目を向けた。
「オルム。明日は死人が増えるのか」
「増やさないために、お前がいる」
冗談で返す気にはなれなかった。
足元の石床が、心臓のように一度だけ脈打った。
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