第2話 殺せない奴隷剣闘士
三千年前、ルクサリア大闘技場の地下牢。地上の円形競技場から、観客が床を踏み鳴らす音が降ってきていた。
黒い翼を持つ小柄な猫が、鉄格子の隙間から顔を出した。
「ロウラ。下で、何かがぐわんぐわんしてる」
「腹でも減ったのか、リネア」
「ぼくのお腹じゃない。もっと下。闘技場のずっと下で、おっきい魔力が脈打ってるの」
石床へ頬をつけていたロウラは、片耳を塞いでみた。聞こえるのは、観客席を踏み鳴らす足音と、自分の出番を告げる銅鑼だけだった。
「分からん」
「分かろうとしてから言ってよ!」
「腹に響くのは客の足音だけだ。今日も元気に、他人が死ぬのを見に来てやがる」
看守が鉄格子を槍の石突きで叩いた。
「立て、《幸運の女神》。お前の番だ」
ロウラは顔をしかめて立ち上がった。十六歳の少女の身体は鍛えられ、日に焼けた肌にはいくつもの傷が走る。革紐で乱暴に束ねた明るい栗髪の下で、大きな橙色の目が看守を睨んだ。粗末な革鎧と革の腰巻き、サンダルが戦支度のすべてだった。
女神というものが本当にいるなら、まず自分の首から鉄輪を外してみせろと思う。剣を折っても、盾をなくしても、最後には勝つ。それだけを見て、客は彼女を幸運と呼んだ。
どこが幸運だ。毎回、死ぬほど痛い目に遭っているのに。
鉄格子の扉が開く。ロウラは壁際の剣を取り、刃を親指で押した。鈍い。昨日の血も落ちきっていない。
「また中古かよ」
「奴隷に新品が要るか」
「じゃあ、てめえが使え。あたしは見ててやる」
看守が槍を向けるより先に、リネアがロウラの肩へ飛び乗った。
「壊さないでね」
「あたしが壊してるんじゃねえ。ここの武器が根性なしなんだ」
「剣にも根性ってあるの?」
「ないから折れるんだろ」
闘技場へ続く門が開き、光と歓声が流れ込んだ。
焼けた砂の匂い。古い血の鉄臭さ。幾千もの顔が円形の観客席から見下ろしている。その中心に、痩せた若い男が一人で立っていた。短い黒髪の下で、鋭い灰色の目だけが落ち着きなく動いている。
新品なのは胸当てだけだった。剣を握る両手が震えている。
「名は」
ロウラが訊くと、男は唇を二度動かしてから答えた。
「セヴァン」
「何人殺した」
「……まだ、誰も」
「そうか。じゃあ今日もゼロだ」
開始の角笛が鳴った。
セヴァンはすぐには来なかった。ロウラの足元、剣、観客席、背後の門へと忙しく目を動かしている。
「何を数えてる」
「衛兵が十二人。弓が四。あんたの後ろの門まで三十七歩。俺の後ろは三十四歩だ」
「逃げ道を探してたのか。賢いな」
「笑わないのか」
「笑って道が増えるなら笑う」
客席から野次が飛んだ。戦え。血を見せろ。女神の幸運を見せろ。
セヴァンが歯を食いしばり、踏み込んできた。遅い。だが剣先はまっすぐロウラの胸を狙っていた。
死にたくないのだ。それでいい、とロウラは思った。
セヴァンの踏み込みは途中で鈍った。剣先が一度沈み、ロウラの喉ではなく肩へずれる。人を刺したことのない腕だ。殺せと命じられても、身体のどこかがまだ拒んでいる。
観客は、そのためらいを見逃さなかった。
「臆病者!」
「女神の首を取れ!」
セヴァンの顔が歪んだ。恐怖だけではない。羞恥と怒りが混ざり、握った剣が大きく震える。
「客を見るな」
ロウラは刃を構えたまま言った。
「目の前の一人だけ見ろ。あいつらは、てめえが死んでも夕飯を食うぞ」
「あんたは、怖くないのか」
「怖いに決まってるだろ。怖くなきゃ、こんなに必死で生きてねえ」
セヴァンの目が、初めて客席からロウラへ戻った。
刃を合わせる。甲高い音がして、ロウラの剣が根元から折れた。
歓声が爆発した。
「幸運の女神だ!」
「また壊したぞ!」
「だから、あたしじゃねえ!」
怒鳴った拍子に、セヴァンの二撃目が脇腹をかすめた。熱い痛みが走る。ロウラは折れた刃を捨て、剣を持つ手首をつかんだ。
セヴァンは手首をひねって逃れ、三歩下がった。逃げ足だけは速い。すぐに間合いを測り直し、今度はロウラの脚を狙う。
剣筋は素直だった。教えられたとおりに振り、教えられたとおりに戻す。だから次にどこへ来るかは分かる。分かるのに、ロウラの身体は教えられたとおりには動かない。
刃を避けきれず、腿が浅く裂けた。
客席が沸く。
ロウラの血が砂へ落ちるたび、それを祝う声が降ってきた。
「よそ見するな!」
ロウラが怒鳴ると、セヴァンは反射的に身を固くした。
「今、あんたを斬ったのは俺だぞ」
「知ってる。だから次は外せ。あたしが避ける」
「試合中に相談する奴がいるか!」
「ここにいるだろうが!」
ロウラは砂を蹴って距離を詰めた。セヴァンが慌てて剣を横へ振る。その下へ潜り込み、肩からぶつかった。
本気で当たれば胸骨を砕く。寸前で力を抜いたせいで、ロウラ自身も体勢を崩した。二人でもつれ、砂の上を転がる。
笑い声が降った。
立ち上がったのはロウラが先だった。セヴァンの剣を踏みつけ、片手で引き上げる。
細い骨の感触が掌に伝わる。握れば折れる。だから握れない。
力を殺して引き寄せ、足を払う。セヴァンの背が砂を打った。剣が離れた瞬間、ロウラはその胸を膝で押さえた。
喉元へ、折れた剣の切っ先を向ける。
観客の声が一つになった。
「殺せ!」
高壇の主催者が、親指を下へ向けた。
拒めばどうなるか、ロウラは知っていた。
鞭で済めば軽い方だ。次の試合で防具を減らされるかもしれない。食事を抜かれるかもしれない。セヴァンと一緒に処刑されることだってある。
考えるまでもなかった。
目の前にいる一人を殺して得る明日なら、そんなものは自分の明日ではない。
セヴァンは目を閉じた。口の中で何かを数えている。最後まで、数えることをやめないらしい。
ロウラは切っ先を捨てた。
砂へ落ちた鉄片は、歓声よりもはっきり鳴った。
「立て。死んだふりが下手すぎる」
セヴァンが目を開ける。
「でも、俺が立ったら、今度はあんたが……」
「あたしの心配をする暇があるなら走れ。次に倒れたら、本当に死んだことにするぞ」
ロウラは彼の腕を引き、無理やり立たせた。
歓声は罵声へ変わった。石が飛び、ロウラの額を割った。衛兵たちが門から駆け込んでくる。
「罰を受けるのは一人でいい!」
ロウラはセヴァンを背へ隠した。
「命令を無視したのはあたしだ。こいつは負けただけだろうが!」
槍の柄が膝裏を打った。ロウラは砂へ倒れた。それでもセヴァンへ伸びた腕をつかみ、衛兵ごと引き倒す。
「そいつに触るな」
低く言うと、衛兵が一歩退いた。
怪物を見る目だった。
その視線には慣れていた。人より頑丈で、人より力が強く、死にかけても立ち上がる。便利な武器として見る者と、いつか檻を破る獣として恐れる者。そのどちらも、ロウラが痛むことなど考えない。
それで構わないと、ロウラ自身も思っていた。
セヴァンが生きるなら、自分が何と呼ばれようと大したことではない。
結局、二人とも地下牢へ戻された。
ロウラは鞭打ち台につながれ、セヴァンは隣の格子へ放り込まれた。背中が焼けるたびに、ロウラは歯を見せて笑った。痛くないからではない。セヴァンが自分のせいだと思わないようにするためだった。
夜、リネアが傷口へ濡れ布を落とした。
「笑うところじゃなかったよ」
「客には受けただろ」
「セヴァン、ずっとこっち見てる」
隣の格子で、セヴァンは配られた水と黒パンを二つに分けていた。
「ロウラ。明日の分まで合わせると、水は三杯、パンは一個半だ。布は二本。薬はない。傷が開いたら足りなくなる」
「寝ろ」
「あんたが俺を生かした。だから、あんたが死なないようにする」
「勝手にあたしの係になるな」
「もう決めた」
弱そうな顔のくせに、そこだけは妙に頑固だった。
ロウラが言い返そうとしたとき、石床の下から音がした。
どくん。
水の器に細かな波が立つ。
リネアが翼を逆立てた。
「さっきより近い」
もう一度、闘技場の地下で何かが脈打った。
どくん。
今度はロウラにも、はっきり聞こえた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
「続きが気になる」「ロウラを見守りたい」と思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけるとうれしいです。感想もお待ちしております。
皆さまの応援が、今後の執筆の大きな励みになります。




