第1話 プロローグ 黒い翼の猫へ
「……様。エレナお嬢様」
呼ばれて、エレナ・ヴァルクレアは石壁から手を離した。灰がかった銀髪を首の後ろで束ねた、細身でやや背の高い女だ。灰青の目だけは、疲れを知らないように輝いている。
「三十路を過ぎた伯爵家三女に、お嬢様はやめろと言っているだろ」
「では、三十路を過ぎた伯爵家三女様。そろそろお戻りください。天井から砂が落ちています」
ランタンを掲げたユリアの栗色の髪に、細かな砂が積もっていた。髪は動きやすく束ねられ、濃紺の上着の下には白いブラウス。濃い茶色の目と伸びた背筋が、隙のない印象をつくっている。
同じ地下遺跡を歩いてきたはずなのに、侍女兼護衛の旅装にはほとんど乱れがない。対するエレナは、膝まで泥にまみれ、片方の手袋をどこかでなくしていた。
「あと少し。この壁の向こうに何かある」
「先ほども、その前にも聞きました。エレナ様の『あと少し』を積み重ねた結果、帰還予定は三日遅れています」
「歴史的発見は予定表を読まないんだよ」
「食事も睡眠も取らない歴史的発見と、生身のお嬢様を同じ日程で動かした私が愚かでした」
「怒ってる?」
「心から心配しております」
「怒ってる人の言い方だなあ」
レリスタ西端の山中で、エレナたちは旧ルクサリア救済会が残した地下遺跡の奥にいた。
三千年近く前の建造物。崩落の危険が高く、領主は調査隊を入れたがらなかった。そこでエレナは伯爵家の名と金を使い、発掘権を買った。山道を直し、近隣の村へ橋を架ける約束までした。
父からは「これを最後の道楽にしろ」と言われた。前回も同じことを言われたので、おそらく今回も最後ではない。
道楽と言われても仕方がなかった。エレナ自身、この執着をうまく説明できない。新しい遺跡を見つけたい。歴史書の誤りを正したい。学者として認められたい。どれも嘘ではないが、どれも本当の理由には届かなかった。
探しているのは場所ではなく、誰かだ。
そう思うたび、胸の中に人一人分の空席があるような気がした。顔も名も知らない。いつ別れたのかさえ分からない。それなのに、急がなければ間に合わないという焦りだけが、幼いころから消えなかった。
だから扉があれば開けた。道がなければ買った。止められるたびに、次はもう少し上手に説得する方法を覚えた。
ユリアは、それを道楽とは呼ばなかった。ただ、帰りの食料を一日多く用意するようになった。
「それで、壁に祈っていたのですか」
「祈ってない。音を聞いていた」
「壁の?」
「壁の向こうの」
ユリアは笑わなかった。
こういうとき、彼女はすぐに否定しない。エレナの勘が、説明のつかない形で当たることを知っているからだ。
昔から、ときどき記憶のようなものが見えた。
砂にまみれた闘技場。心臓のように脈打つ赤い立方体。傷だらけなのに、乱暴に笑う少女。自分のものではない、小さな前脚。
高い場所から飛び降りる感覚もある。背中には翼があり、落ちるはずなのに怖くない。
幼いころは誰にでもあるものだと思っていた。他人にはないと知ってから、話さなくなった。ユリアにさえ、すべては話していない。
「また、妙にはっきりした夢を見たのですね」
「人の秘密を勝手に言い当てないでくれる?」
「十六年ほど観察しておりますので」
エレナはごまかすように、壁の砂を払った。
炎を掲げる人々が彫られている。その中心に神の姿はない。灯火だけが、人の手から人の手へ渡されていた。
下には古代文字が一行、刻まれている。
「神々が数えなかった者を、私たちが数える」
声に出した途端、胸の奥が痛んだ。
知らない言葉ではない。古代レリスタ語を学んだ者なら読める。それなのに、これを書いた人間の声まで知っている気がした。
壁の端には、小さな縦線が無数に刻まれていた。文字を読めなかった者が、人数だけでも残そうとしたのかもしれない。長い線の隣に短い線があり、途中で途切れたものもある。
エレナは一本ずつ指で追った。
「多すぎますね」
「うん。けど、数えた人がいた」
何千年も前の誰かが、忘れないために石を削った。その指の痛みまで伝わる気がした。
「ここは神殿じゃない」
「では、何です?」
「人を助けていた場所。治療所か、避難所。それとも、死んだ人の名前を残す場所」
「根拠は?」
「考古学的直観」
「立派になったのは言葉だけですね」
壁の炎へ触れると、彫刻がわずかに動いた。
ユリアがエレナの手首をつかむ。
「罠かもしれません」
「仕掛けた人間は三千年前に死んでるよ」
「人は死んでも、罠は残ります」
「夢がないなあ」
「命は残したいので」
二人で周囲を調べ、炎の彫刻を右へ回した。
石の擦れる音がして、壁が内側へ沈む。冷たい空気が流れ出し、ランタンの火が細くなった。
その先には、小さな地下室があった。
正面の壁一面に、一枚の絵が残されている。
鎖につながれた、傷だらけの少女。
少女の肩には、黒い翼を持つ猫が乗っている。二人の足元には砕けた赤い立方体があり、その周りを、空中に浮かぶ黒い亀裂が囲んでいた。
少女の顔は、意図的に削られたように摩耗していた。それでも、猫を庇うように片腕を上げていることは分かる。自分が鎖につながれているのに、守ろうとしているのは自分ではない。
黒い翼の猫は、少女の肩へ爪を立てていた。引き止めているようにも、一緒に残ろうとしているようにも見えた。
猫の翼を見た瞬間、エレナの息が止まった。
「……これを、知ってる」
「どこで見たのですか」
「分からない。でも、知ってるんだ」
指が震えていた。
怖いのではない。懐かしかった。
三十余年しか生きていない自分が、三千年前の壁画を懐かしいと感じる理由などない。それでも、黒い翼を見ていると、長いあいだ帰れなかった場所へようやく戻った気がした。
同時に、腹の底から怒りがこみ上げた。
どうしてこの少女は鎖につながれている。
どうして顔を削られている。
どうして、誰も迎えに来ていない。
問いはどれも、初めて目にした壁画へ向けるには近すぎた。
壁画の下には、いくつもの文字が刻まれている。
《ロウラ》。
《葬儀屋レト》。
《終末》。
意味の分からない名の中で、一文だけがエレナの目を捕らえた。
「黒い翼の猫へ――」
続く文字は削れ、ほとんど読めない。
エレナはランタンを近づけ、指で溝をなぞった。
「迎えに、来い」
声にした途端、涙が頬を伝った。
「どうして……」
誰が待っているのか。なぜ自分が泣いているのか。何一つ分からない。
足元から、低い音が響いた。
金属が石を擦るような音。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
誰かが暗い地下の底で、長い眠りから目を覚ましたように、鎖が鳴っていた。
「戻ります」
ユリアがランタンを掲げ直した。
「この下を調べないと」
「遺跡ごと崩れては、調べる人がいなくなります」
「でも――」
「帰るまでが探索です」
反論しかけたエレナは、背後の気配に振り返った。
開いた壁の向こう、二人が通ってきた通路に、人影が立っていた。
古びた外套の胸元に、壁画と同じ灯火の印がある。
「エレナ・ヴァルクレア様ですね」
その人物は、黒い翼を持つ猫の壁画へ深く頭を下げた。
「あなたにお渡しするよう、代々伝えられているものがあります」
ユリアがエレナを庇い、短剣の柄へ手を置く。
「何者です」
「ルクサリア救済会」
人影は顔を上げた。
「私たちは、三千年前からあなたを待っていました」
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