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第10話 墓場の心臓

 階段を下りるほど、空気は冷たくなった。


 湿った石へ足を置くたび、靴の裏で何かがぬるりと潰れる。黴と古い血の臭いが舌にまとわりつき、息をするだけで吐き気がした。


 先を行く青年の灯火が揺れる。


「おまえ、名前は」


 青年は振り返らなかった。


「レト」


「あたしはロウラだ」


「知っている。さっき、上で何千人も叫んでいた」


「《幸運の女神》は捨てろ」


「分かった、ロウラ」


 初めて名を呼ばれた。


 それだけのことなのに、墓場の暗闇が少し近くなった気がした。


 リネアが黒い翼を縮め、ロウラの肩へしがみつく。


「下から、もっと来るよ」


「何匹だ」


「五つ。たぶん」


「たぶん?」


「混ざってて、ちゃんと数えられないんだもん」


 その意味は、階段を下りきると分かった。


     *


 地下には、広い石の部屋があった。


 壁際には白骨が積まれ、その上へ新しい死体が無造作に投げ捨てられている。折れた腕。潰れた頭。錆びた奴隷の首輪。乾いた骨と湿った肉が重なり、赤黒い汁が床の溝を流れていた。


 ロウラは口元を覆った。


「闘技場の死体、全部ここかよ」


「全部じゃない」


 レトの声が急に静かになった。


「売れる骨と、家族が引き取る遺体は別だ。ここへ来るのは、誰も取りに来ない者だけ」


「……そうか」


「俺も、ここまでは入ったことがない。上の穴から落とすだけだ」


 誰も取りに来ない。


 その言葉が、骨より冷たく胸へ刺さった。


 ロウラは壁へ目を向けた。


 階段から続く無数の傷が、ここにも刻まれている。奥へ進むほど数が増え、互いに重なり合っていた。


「これ、何て書いてある」


「名前だ」


「誰の」


「分からない。多すぎる」


 ロウラは壁へ指を這わせた。


 読めない傷の一つ一つが、誰かの生きていた証しらしい。


 自分がここで死んだら、誰が名前を残すのだろう。


 そう考えたが、すぐに忘れた。


 どくん。


 床が脈打った。


 積み上がった死体が、一斉に跳ねる。


 骨の間から黒い泥が溢れ、腕と脚へ絡みついた。人の指が脚になり、肋骨が背骨になり、顔と顔が押し潰されて一つの頭になる。


 一体。


 二体。


 三体。


 四体。


 五体。


 馬ほどの獣が、ロウラたちを囲んだ。


 泥の腹から何十もの歯が覗く。喉の奥で、男と女と子供の声が重なって唸った。


「五つで合ってた!」


「褒めてる場合か!」


 最初の一体が跳んだ。


 ロウラは踏み込み、その横面を殴った。拳に触れたのは肉ではない。腐った果実を潰したような感触だった。


 怪物の頭が弾ける。歯と指と黒い泥が壁へ飛び散った。


「やった!」


「まだだ」


 レトの声と同時に、赤い光が部屋を染めた。


 どくん。


 散った肉片が床を這う。指が石を掻き、歯がかちかちと鳴りながら、再び一つへ集まっていく。


「……ふざけんなよ」


 背後から二体目が迫る。


 レトがロウラの脇を抜けた。手には黒いナイフがある。葬儀屋の道具には見えない。暗闇を削って刃にしたように、美しかった。


 刃が怪物の前脚へ触れる。


 音もなく脚が落ちた。


 けれど次の鼓動で、切れた断面から人の腕が伸び、床の脚を引き寄せた。


「おまえのでも駄目か!」


「終わらせても、始め直される」


「分かりやすく言え!」


「何度殺しても、生き返る」


 十分すぎるほど分かりやすかった。


     *


 三体目の口を蹴り砕き、ロウラは部屋の奥を見た。


 赤い光が、規則正しく明滅している。


「あれだよ!」


 リネアが翼で示した。


 石の台座に、赤い立方体が載っていた。


 人の胴ほどの大きさ。歪み一つない形。半透明の内部で赤い霧が渦を巻き、心臓のように縮んでは膨らんでいる。


 そこから太い赤色の筋が何本も伸び、床と壁と天井へ食い込んでいた。


 どくん。


 怪物の潰れた顔が戻る。


 どくん。


 折れた脚が立ち上がる。


「こいつが戻してんだな」


 ロウラは怪物の間を駆け抜けた。


 爪が背中を裂く。熱い痛みが走り、血が腰まで伝った。それでも止まらない。


 台座へ飛び乗り、立方体を殴る。


 鈍い痛みが肘まで突き抜けた。


 赤い表面には、傷一つついていない。


「もう一発!」


「待って!」


 リネアが耳元で叫ぶ。


「これ、下だけにつながってない! 上にも、いっぱい伸びてる!」


 ロウラは拳を止めた。


 赤い筋は石柱を貫き、天井の奥へ消えている。脈打つたび、古い柱の亀裂から砂がこぼれた。


 レトが迫る怪物をナイフで牽制しながら、天井を見上げる。


「この部屋は闘技場の真下だ」


「だから何だ」


「赤い筋が、崩れかけた地下を支えている」


 上で轟音がした。


 砂が降る。


 遠く、誰かの悲鳴が石を通して聞こえた。


 ディオンとボルガは、まだ競技場にいる。


 セヴァンたちも、全員が門を出たとは限らない。


「壊せば、上はどうなる」


「沈む」


 レトは短く答えた。


「闘技場ごと、ここへ落ちる」


 ロウラの喉が乾いた。


 壊さなければ、怪物は何度でも戻る。


 壊せば、逃げ切れていない者まで瓦礫に呑まれる。


 どちらかを選べと、赤い光が迫ってくる。


「レト!」


 怪物の腕がレトの背へ伸びた。


 ロウラは台座から跳び、体当たりで彼を弾き飛ばした。


 爪が脇腹を抉った。


 口の中に血の味が広がる。膝が石床へ落ちた。


「何をしている!」


「約束したろ。自分を捨てねぇって」


「今のは俺を庇っただけだ!」


「細けぇな!」


「会って間もない人間に、死に方の言い訳をするな!」


 怒鳴るレトの顔は、初めて静かではなかった。


 その向こうで、怪物たちが起き上がる。


 五体すべてが元の姿へ戻っていた。


 上から、何か巨大なものが倒れる音がした。


 ディオン。


 名前を呼びそうになり、ロウラは飲み込んだ。


 呼んで返事がなかったら、立てなくなる気がした。


「……選べってのかよ」


 誰も答えない。


 積まれた骨も、刻まれた名前も、赤い立方体も、黙っていた。


 この場所では、ずっと誰かが選ばされてきた。


 客を楽しませるために死ぬ者。


 値段がつかないから捨てられる者。


 逃げる誰かのため、残る者。


 ロウラは血の混じった唾を吐き、立ち上がった。


「気に食わねぇ」


「何が」


「二つしかないと思わせるやり方がだよ」


 彼女は赤い立方体へ向き直った。


「壊して、上の連中も助ける」


「方法は」


「今から考える」


「それを方法とは呼ばない」


「じゃあ、おまえが考えろ。レト」


 青年が目を見開いた。


 次の瞬間には、呆れたように息を吐く。


「俺たちは、今日会ったばかりだぞ」


「だから何だ」


「無茶を任せる相手を間違えている」


「できねぇのか」


「……やる」


 レトは黒いナイフを構え、五体の怪物の前へ出た。


「十息だけ止める」


「十分だ」


「根拠は」


「ない!」


 ロウラは走った。


 怪物の悲鳴。リネアの羽音。骨の砕ける音。


 すべてを背中へ置き、赤い光へ拳を振り上げる。


「壊せば、全部沈むぞ!」


 レトの叫びが追ってくる。


「じゃあ、ちょうどいい」


 ロウラの拳が、赤い立方体へ触れた。


 衝撃音はしなかった。


 拳と石の間――何もないはずの空間に、髪の毛ほどの黒い線が浮かんだ。


 それは石に入った罅ではなかった。


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