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第11話 黒い罅

 黒い線は、ロウラの拳にも、赤い立方体にも触れていなかった。


 何もない空間に浮かび、髪の毛のように細く枝分かれしていく。


「ロウラ、離れて! それ、石の傷じゃない!」


 リネアの声が急に遠ざかった。


 違う。


 遠くなったのではない。


 怪物の唸りも、レトの足音も、天井から落ちる砂の音も消えていた。耳を塞いだような静けさの中で、自分の呼吸さえ聞こえない。


 それでも赤い立方体の鼓動だけは、歯の根を通して伝わってきた。


 どくん。


 拳を押し返される。


 立方体は硬いのではなかった。石台へ縛りつけられているように、そこから一寸も動かない。


 ロウラは足を踏ん張った。


 黒い線が、また一本増えた。


 背後では、レトが五体の《成れの果て》を食い止めている。黒いナイフで脚を落とし、喉を裂き、飛び散る泥を蹴り返す。


 だが、すぐに次の腕が生える。


 レトが何かを叫んだ。


 音は聞こえない。


 その口が、八、と動いた。


 残り二息。


 二息で壊す。


 それから振り返り、レトを怪物の中から引きずり出す。リネアも抱えて、階段を駆け上がる。


 それで全員助かる。


 できるかどうかなど、考えなかった。


 自分が間に合わせる。


 ロウラの頭にあるのは、それだけだった。


 拳から手首へ、焼けた鉄を差し込まれたような痛みが走った。皮膚が裂け、血が立方体の表面を滑り落ちる。


 もう一度殴れば、腕が壊れる。


 それでも壊せるとは限らない。


 頭に浮かんだのは、泣いているノアの顔だった。


『ロウラも来る?』


 後で行く。


 そう答えた。


 ディオンにも戻ると言った。セヴァンには、一人でも減らすなと言った。


 約束ばかり増やして、まだ一つも果たしていない。


「こんなところで、止まれるかよ」


 声は聞こえなかった。


 ロウラは拳を引いた。


 赤い光の向こうに、読めない名前が刻まれた壁が見える。


 この心臓が動く限り、死んだ者まで見世物にされる。


 名前を残そうとした者たちが、今度は名前も分からない怪物へ混ぜられている。


 それが、たまらなく気に食わなかった。


 腰を落とす。


 肩を入れる。


 床を蹴り、全身の重さを拳へ載せた。


「返せ!」


 自分でも、誰へ叫んだのか分からなかった。


「こいつらの死まで、勝手に使うんじゃねぇ!」


 拳が赤い立方体へ叩き込まれた。


 黒い罅が瞬きをするように開く。


 その奥には光も、炎も、景色もなかった。


 ただ、何も存在しない暗闇だけがあった。


 立方体の内側で、赤い霧が激しく渦巻く。逃げ道を探すように表面へぶつかり、ロウラの顔を真っ赤に照らした。


 右腕の骨が軋む。


 肩の奥で、何かが切れた。


 痛みで膝が折れかける。


 それでも、拳を引かなかった。


「押し返せなくなるまで――殴ればいいだろうが!」


 黒い罅が立方体を包んだ。


 赤い光が細くなる。


 次の瞬間、赤い立方体は、音も、破片も残さず、そこに存在することをやめた。


     *


 音が戻った。


 最初に聞こえたのは、五体の怪物の悲鳴だった。


 幾つもの喉が同時に潰れ、男と女と子供の声が石室を引き裂く。《成れの果て》の脚が崩れ、黒い泥と骨の塊になって床へ広がった。


「消えた……?」


 リネアの黒い翼が震えている。


「まだだ」


 レトが泥の塊へナイフを突き立てた。


 びくり、と泥が跳ねる。


 刃の周囲から黒く乾き、今度は元へ戻らなかった。


「動かなくなった!」


「生き返らせるものが消えた。これなら終わらせられる」


「じゃあ全部やれ!」


「その前に、俺たちが終わる」


 低い音が、足元から響いた。


 赤い立方体から伸びていた筋が、次々に萎んでいく。壁を支えていた筋まで縮み、古い石柱が自分の重さに耐えられず折れた。


 天井に亀裂が走る。


 その隙間から砂ではなく、観客席の赤い敷石が落ちてきた。


「走れ!」


 レトに言われる前に、ロウラは駆けだしていた。


 右腕は肩からぶら下がり、指一本動かない。傷ついた脇腹から血が溢れ、走るたび靴の中まで温かく濡れた。


 背後で石室が潰れる。


 積まれていた骨が波のように押し寄せ、足首へぶつかった。


「こっち!」


 リネアが黒い翼で舞い上がり、階段を示す。


 三人が通路へ飛び込んだ直後、地下全体が大きく傾いた。


 上下が分からなくなる。


 ロウラは壁へ肩をぶつけ、口の中を噛んだ。血の味と石埃が混じり、喉に貼りつく。


 はるか上から、大勢の悲鳴が降ってきた。


 石段の砕ける音。


 柱が倒れる音。


 鉄格子がひしゃげる音。


 ルクサリア闘技場が、地面へ呑み込まれ始めていた。


「ディオン……!」


 今度は、その名を飲み込めなかった。


「止まるな!」


 レトがロウラの腰を押す。


「あんたは戻るんだろ!」


「分かってる!」


 階段まで、あと十歩。


 九歩。


 八歩。


 頭上の石が外れた。


「レト!」


 ロウラは左腕で青年を突き飛ばした。


 レトの体が階段側へ転がる。


 直後、石柱が二人の間へ落ちた。床が割れ、白い骨が噴き上がる。


「ロウラ!」


 レトの姿が石埃の向こうへ消えた。


 さらに天井が崩れる。


 リネアの翼へ石片が当たり、小さな体が落ちた。


「リネア!」


 ロウラは覆い被さった。


 背中へ瓦礫が降り注ぐ。骨が軋み、息が肺から押し出された。


「ロウラ、どいて! 一緒に行くんだよ!」


「うるせぇ……今、考えてる」


 目の前に、子供の頭ほどの隙間があった。その向こうから、レトが石を掻き分けている。


 人間は通れない。


 猫なら通れる。


 ロウラは左手でリネアをつかんだ。


「外へ行け。ディオンたちに、地下が崩れるって伝えろ」


「ロウラは?」


「あたしは自分で出る」


「でも、動けないじゃん!」


「うるせぇ! いいから行け!」


 本当は、一人になるのが怖かった。


 ここにいてほしいと、言いたかった。


 けれど、そんな頼み方をロウラは知らなかった。


 大きな揺れが来た。


 残された隙間が、音を立てて狭くなる。


「行け!」


 ロウラはリネアを押し込んだ。


 黒い翼が石に擦れる。向こう側からレトの手が伸び、小さな体を引き抜いた。


「待ってて! ぼく、絶対戻るから!」


「勝手にしろ!」


 ロウラが怒鳴った瞬間、最後の隙間が崩れた。


     *


 暗闇になった。


 石の重みで胸が潰され、浅くしか息を吸えない。


 右腕は何も感じなかった。左脚も瓦礫の下から動かない。


 耳の奥には、もう存在しない赤い立方体の鼓動が残っている。


 どくん。


 どくん。


 違う。


 これは自分の心臓だ。


「後で……行くって、言ったからな」


 ノアへ言い聞かせるように呟いた。


 返事の代わりに、近くで何かが動いた。


 ずるり。


 湿ったものが、瓦礫の隙間を這う。


 立方体は消えた。


 けれど、怪物を終わらせたわけではない。


 暗闇の中で、冷たい人の指がロウラの足首をつかんだ。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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