第12話 数えられない
冷たい指が、ロウラの足首へ食い込んだ。
暗闇の中で、骨が石を引っ掻く。
ぎり。ぎり。
《成れの果て》の残骸が、瓦礫の隙間を這ってくる。腐った息が爪先を撫で、甘い花の臭いが鼻の奥へまとわりついた。
「まだ……動くのかよ」
右腕は動かない。左脚は石の下だ。
ロウラは左手で地面を探り、尖った骨をつかんだ。見えない指へ何度も振り下ろす。
一度。二度。三度。
濡れた肉が潰れ、足首を締めていた力が抜けた。
もう鼓動は来ない。砕けたものは戻らなかった。
だが、息をするたび石埃が肺へ入る。胸の上の瓦礫は重く、吸える空気は少しずつ薄くなっていた。
このまま怪物より先に窒息する。
そう思ったとき、頭上で石を擦る音がした。
「ロウラ!」
聞き間違えようのない、泣き声だった。
「……うるせぇ。生きてるよ」
「生きてる! レト、ここ!」
小さな隙間から黒い前脚が伸びる。爪が必死に土を掻き、リネアの鼻先が覗いた。
その後ろで、レトの低い声がする。
「喋るな。空気を使う」
「どっちだよ……」
答えると、今度は別の声が落ちてきた。
「ロウラさん!」
「セヴァン?」
「十九人は東門まで送りました!」
「なら何で戻った!」
石の向こうで、一瞬だけ沈黙した。
「数え直したら、一人減っていました」
「誰が」
「あなたです」
「あたしは最初から十九人に――」
「今、入れました」
折れた槍の柄が隙間へ差し込まれる。何人もの呻き声とともに、胸を押さえていた石が少し浮いた。
冷たい空気が流れ込み、ロウラは激しく咳き込んだ。
「せえの!」
石が転がる。
光が刺さった。
レトとセヴァン、それに名も知らない剣闘士たちの、灰まみれの顔が見えた。
「脚が挟まってる!」
「持ち上げろ!」
「先に、そこの生きてる奴を――」
「あなたが最後です!」
セヴァンが怒鳴った。
「一人でも減ったら承知しないと言ったでしょう!」
その言葉には聞き覚えがあった。
ロウラは言い返そうとして、やめた。
助けられるのは、落ち着かなかった。自分の重さを誰かに背負わせるのは、傷口を見られるより恥ずかしい。
それでも、振り払わなかった。
石が持ち上がる。潰れた左脚をレトが引き抜いた。
全身を焼くような痛みに、声が漏れた。
リネアが胸へ飛び込み、顔を押しつけてくる。
「痛ぇよ」
「うん」
小さな体は、震えながら温かかった。
*
地上には、闘技場がなくなっていた。
巨大な鉢のような穴が口を開け、砕けた客席や柱を呑み込んでいる。白い石埃が空を覆い、昼なのに夕暮れのように暗い。
焼けた木。血。砕けた香油壺。
甘さと焦げ臭さの混じる風の中で、至る所から助けを呼ぶ声がした。
「母さん!」
「ここだ! 脚が挟まってる!」
「誰か、この子を――」
奴隷も市民もなかった。
素手で石を掻き、知らない者の腕を引いている。さっきまで奴隷を見下ろしていた男が、首輪をつけた女に水を飲ませていた。
穴の縁を、ボルガが歩いてくる。
青銅の盾はなく、背にはディオンを負っていた。ディオンの左半身は血で濡れ、片腕が力なく揺れている。
「息は」
「まだある」
ロウラは胸へ耳を当てた。
弱い。
だが、確かに鼓動があった。
ディオンの瞼がわずかに開く。
「……戻ったか」
「喋るな。死んだらぶっ飛ばすぞ」
「難しい……注文だ」
息だけの笑いが途切れ、目が閉じた。
そのとき、瓦礫の上から甲高い声が響いた。
「そいつだ!」
破れた紫の衣をまとった興行主が、ロウラを指さしていた。額から血を流しているが、その指だけはまっすぐだった。
「その奴隷が地下へ入った直後、闘技場が崩れた! 反乱を起こし、怪物を放ったのもそいつらだ!」
救助の手が止まった。
泣き声だけが残る。
「違うよ!」
リネアが翼を広げた。
「ロウラは、みんなを助けるために――」
「闘技場を壊したのは、おまえか」
血まみれの男がロウラへ聞いた。腕には、動かない少女を抱いている。
ロウラは答えられなかった。
心臓を壊さなければ、怪物は止まらなかった。
壊せば上が沈むと知っていた。
どちらも本当だった。
「……壊した」
男の顔が歪んだ。
石が飛んできた。
額へ当たり、温かい血が眉を伝う。
「娘を返せ!」
「人殺し!」
「奴隷どもを捕まえろ!」
次々に石が落ちる。
リネアがロウラの前へ出ようとした。ロウラは左腕で抱き寄せ、翼ごと胸へ隠した。
「やめろ!」
絹の服の女が群衆へ割って入った。ルキウスとノアを背に庇っている。
「この方は、子供たちを救いました!」
「俺の子は死んだ!」
怒号が女の声を押し潰した。
助けた者もいる。
死んだ者もいる。
何人救い、何人潰したのか。
セヴァンでも、もう数えられなかった。
角笛が鳴った。
崩れた街路の向こうから、都市兵の盾が並んで近づいてくる。
「東門を閉鎖せよ!」
城壁の上で伝令が叫ぶ。
「闘技場を破壊した逃亡奴隷、《幸運の女神》ロウラを捕らえろ! 従う者も同罪とする!」
遠くで、重い鉄扉の閉まる音がした。
ゴォン――。
「オルムは門の外だ」
レトが言った。
前には都市兵。
背後には、石を握る群衆。
足元には、意識のないディオンと、立つこともできない負傷者たち。
逃げ道は閉じた。
歓声の代わりに憎しみの声が降り注ぐ。
闘技場は崩れたのに、見世物は終わっていなかった。
今度の獲物は、ロウラだった。




