第13話 死人の門
盾の列が、瓦礫を踏んで近づいてきた。
ロウラは左手を地面についた。立とうとした途端、潰れた脚に火が走る。腕で支えきれず、頬へ石の冷たさが触れた。
立て。
兵はもう、二十歩先にいる。
右腕はぶら下がったまま、指一本動かなかった。
「その女を渡せ!」
隊長の声に、セヴァンが剣を握った。
切っ先が震えている。
「抜くな」
レトが言った。
「斬り合えば、担架を運べなくなる」
「ですが――」
「右の路地だ。荷車の音がする」
軋む車輪の音に、ロウラも気づいた。
兵が駆け寄ろうとする。その前へ、ルキウスの母親が飛び出した。
「こちらにも手を貸してください!」
女は瓦礫に挟まれた男を指した。泥の中で、指先がまだ動いている。
「生きています! 誰か!」
助けを求める声が重なった。何人かが兵の腕へすがる。救助に戻る者の体が、ロウラたちを隠した。
セヴァンと剣闘士がロウラを戸板へ載せる。ボルガがディオンを抱き上げ、残る負傷者も次々に担がれた。
揺れる戸板の上で、ロウラは歯を食いしばった。
誰を殴ればいいのか、分からなかった。
*
裏通りには、粗末な荷車が並んでいた。
灰色の布をかけた遺体が運び込まれている。血が板の継ぎ目から滴り、車輪の轍を赤く濡らしていた。
レトが先頭の御者へ走り寄る。
「オルム! 門の外にいたんじゃないのか!」
「死体を運べと呼び戻された」
老人は灰のついた顎を拭った。節くれだった指には、爪の際まで黒い汚れが染みついている。
「東門は閉まったぞ」
「脇の葬送門は開けさせた。死人まで街に閉じ込める気はないらしい」
老人の目が、戸板の上のロウラへ移る。
「ああ。噂の人殺しか」
「おい」
「怒れるなら、まだ運べるな」
オルムは荷台を指した。
「寝かせろ。顔まで布をかける。動ける奴は荷車を押せ」
背後の路地から、子供の声がした。
「ロウラ!」
ノアだった。ルキウスの母親が、怪我をした子を抱えて追ってきていた。
「この子も、一緒に」
女の頬には、新しい擦り傷がある。
「門の外までと、約束したのに……」
オルムがノアを受け取り、ロウラの隣へ寝かせた。
「ここからは俺の荷物だ」
ルキウスが荷台へ手を伸ばす。
「またね」
ノアはその手を、両手で握った。離すまでに、少し時間がかかった。
「女も黒猫も、逃がすな!」
表通りから怒声が近づく。
母親は息子を引き寄せ、ロウラへ一度頭を下げた。それから、救助を続ける人々の方へ戻っていった。
オルムが布を広げる。
「今から死んだふりをしろ。目も口も閉じていろ」
灰色の布が視界を塞いだ。
狭い。暗い。
湿った布の下には、何度洗っても取れない古い血の臭いがあった。
ノアの手が、ロウラの服を探る。
「……また、邪魔?」
胸の奥が、脇腹の傷より痛んだ。
ロウラは左手で、その細い指を包んだ。
「違う」
言い直そうとした。あのときは、と続けようとした。
車輪が石畳へ乗り上げ、声は呻きに変わった。
それでも手だけは離さなかった。
*
荷車が止まった。
城壁の影に入ったのが、冷えた空気で分かった。
「布を上げろ」
兵の声がした。
別の荷台で、布の擦れる音がする。
「ひでぇな……」
「触って確かめるか」
オルムの声は平らだった。
「早く墓地へ運ばせろ。まだ街に何十人も残ってる」
「こっちも調べる」
足音が近づいた。
ノアの指が強くなる。
隣ではディオンが、浅い息を繰り返していた。その息が途中で詰まり、喉の奥で小さく鳴った。
ロウラは布の下で目を開いた。
駄目だ。
今だけは、音を出すな。
そう願ってから、胃が縮んだ。
生きていてほしい男へ、息をするなと願っている。
布の端が持ち上がった。
光が足元から差し込む。
「こいつ、動かなかったか」
オルムが荷台の横へ回った。
「踏まれた脚だ。まだ曲がったまま固まってない」
ロウラの左足へ、硬いものが触れた。
槍の石突だった。
押される。
砕けたところを探るように、もう一度。
悲鳴が喉までせり上がった。奥歯で頬の内側を噛む。舌へ熱い鉄の味が溢れた。
ノアを握る力を、必死に緩めた。
この子まで痛がらせたら、二人とも見つかる。
「確かめたけりゃ、顔を見ろよ」
オルムが低く言った。
「そのついでに、名前も調べてくれ。家族へ返すんでな」
兵は答えなかった。
少しして、布が落ちた。
「通せ」
車輪が動く。
門の下で、軋む音が大きく反響した。
一度揺れ、二度揺れた。
やがて石畳の振動が消え、柔らかい土を踏む音に変わった。
布の下へ、草の匂いが入ってきた。
城壁の外だった。
ロウラは声を出さずに息を吐いた。
濡れた頬が、血なのか汗なのか分からなかった。
*
城外の墓地には、遺体を洗う石造りの小屋があった。
その裏の物置に、先に逃げた奴隷たちが身を寄せていた。バルカが戸口まで出てきて、ディオンを見るなり笑顔を失った。
オルムは負傷者を奥へ運ばせた。
ロウラの脇腹へ布が強く押し当てられる。右腕を胸へ縛りつけられ、左脚には二枚の板が添えられた。
何度か目の前が暗くなった。
水を一口飲むと、ひび割れた唇が染みた。こんなに喉が渇いていたことにも、気づいていなかった。
「日が落ちたら、歩ける者から出発させる。街道は避けろ」
オルムがレトへ、小さな帳面を差し出した。
「途中で匿ってくれる家を書いてある。最終的には自由都市ヴァルネだ。荷車は二台使え」
「おまえは」
「ここで動かせない奴を診る。そのあと街へ戻る」
レトは帳面を受け取らなかった。
「連中は、死人を運ぶ車まで調べている」
「だから、次の逃がし方を考えるんだろうが」
「捕まるぞ」
「俺まで逃げたら、誰が死者を数える」
外で、遺体を求める女の声がした。
夫の名を繰り返している。同じ名前を、何度も。
オルムは戸口を見てから、帳面をレトの胸へ押しつけた。
「生きてる方を運べ」
レトはしばらく動かなかった。
やがて、表紙を握る指に力がこもった。
「……国境までだ」
「ああ」
「本当に、そこまでだからな」
「ああ。分かった」
老人はもう、次の包帯を裂いていた。
ロウラは隣の寝台を見た。
「ディオンも載せろ」
「無理だ。揺らせば、もたん」
「ゆっくり運べば――」
「さっきの道で、呼吸が何度止まりかけたと思う」
言葉が続かなかった。
百勝した男の胸が、薄い布をほんの少し押し上げていた。
城門の外まで、生きて走れ。
そう叫んだ男は、外へ来てもまだ死にかけている。
ロウラは立とうとした。
左脚は床につく前に震えた。寝台の縁をつかんでも、腰さえ持ち上がらなかった。
「……何も、終わってねぇじゃねぇか」
誰も、終わったとは言わなかった。
オルムがディオンの足元へ、小さな木札を置く。
「何て書いた」
「ディオン。死亡」
ロウラは顔を上げた。
「まだ生きてるだろ」
「役所へ出す札だ。これで、こいつを牢へ戻さずに済む」
老人は別の帳面を開き、同じ名を書きつけた。
「こっちには、生きている者として残す」
ロウラには、どちらの文字も読めなかった。
同じ名前だということさえ、自分では確かめられない。
彼女は寝台に横たわる男の顔を、もう一度見た。
「ディオンだ」
「分かってる」
「《不倒》とか、そういうのは要らねぇ」
オルムの筆が止まり、それから短く頷いた。
*
夕暮れ、荷車へ移されるとき、ディオンの指がロウラの服へ触れた。
「……行け」
今度は返事ができなかった。
ほどけた指が、寝台へ落ちる。
ボルガは小屋へ残った。自分も脚が限界だと言い、ディオンの横へ腰を下ろした。
セヴァンが人数を確かめ、レトが御者台へ上がる。ノアはロウラの隣で、眠りながら服の端を握っていた。
小屋の戸口に、オルムが立っている。
「レト」
青年が振り返った。
「腹は減るぞ。死人と違って」
「……知ってる」
老人が投げたパンの包みを、レトは胸で受け止めた。
荷車が動きだす。
その直後、城門から角笛が響いた。
一度では終わらなかった。
城壁の向こうから出てきた騎兵たちが、門前で二手に分かれる。片方が街道へ。もう片方が、墓地へ向いた。
「灯りを消せ」
レトが言った。
ロウラは右手を握ろうとした。
指は、一本も動かなかった。




