第14話 鐘の鳴らない朝
灯火が消えると、墓石の向こうの松明が、急に近く見えた。
焼けた芯の臭いが、ロウラの鼻を刺す。
騎兵たちは墓地の入口へ向かっていた。蹄が敷石を叩く。その音に、腕の中のノアが目を覚ました。
「動くな」
ロウラは囁き、子供の頭へ布をかけた。
小屋の前で、オルムが兵を迎えていた。
「馬から降りろ。遺体を踏まれる」
「逃亡奴隷を探している!」
「なら顔を確かめろ。足の裏じゃ見分けはつかん」
墓地の入口には、運び込まれた遺体と、それを探す家族が溢れている。
兵が舌打ちをして下馬した。
レトは馬の手綱を引き、荷車を小屋の裏へ回した。もう一台も続く。
車輪が軋むたび、ロウラの背中に汗が浮いた。
石垣の切れ目を抜けると、畑へ下りる細い道があった。
オルムの小屋が遠ざかる。
ディオンも、ボルガも、あそこにいる。
ロウラは起き上がろうとした。脇腹が引きつり、息が止まる。
「頭を下げろ」
「でも、あいつらが――」
「見つかれば、小屋も調べられる」
レトの声は小さかった。
ロウラは板へ爪を立てた。
戻ることも、声をかけることもできない。
最後に見えたのは、松明を持った兵を、遺体の列へ案内する老人の背中だった。
*
畑の縁には、浅い水路が走っていた。
その脇を進んでいた荷車が、不意に傾く。
左の車輪が、ぬかるみへ落ちた。
ロウラの脚が板へぶつかった。喉まで上がった悲鳴を噛み殺す。傷口の奥で、熱いものが脈打った。
馬が踏ん張る。
車輪は泥を抉るばかりで、上がらない。
後ろの荷車も止まった。
「引かせるな。もっと沈む」
レトが馬の首を押さえる。
セヴァンは荷台を覗き込み、車輪と地面を見比べた。
「側板を外してください。下に敷きます」
歩いていた者たちが集まった。
木釘を抜く音。泥を掻く音。押し殺した息。
ロウラは左手を荷台の縁へかけた。
自分が降りれば軽くなる。
片脚で跳べば、少しぐらいは進める。
腰をずらした途端、腕に力が入らなくなった。体が横へ滑る。
「ロウラ!」
リネアが服へ爪を立てた。
ノアが左手をつかむ。小さな腕では支えきれず、一緒に引きずられた。
ロウラは慌てて縁へ肘を引っ掛けた。
歯を食いしばり、子供ごと体を荷台へ戻す。
「……馬鹿。落ちるだろうが」
「ロウラが落ちるんだよ」
ノアの声は怒っていた。
ロウラは何も言えなかった。
墓地の外で、蹄の音がした。
畑を隔てた道を、二つの灯りが動いている。
誰もが手を止めかけた。
セヴァンが首を横に振る。
唇だけで、数えた。
一。二。三。
男も女も、泥へ足を沈めて押した。レトが馬を進ませる。
車輪が板に乗る。
軋む。
止まる。
もう一度、全員が肩を入れた。
荷車が、泥から抜けた。
ロウラはノアの背中を左腕で押さえていた。傾きが戻っても、しばらく離せなかった。
畑の向こうの灯りは、道に沿って遠ざかっていく。
誰も喜びの声を上げなかった。
セヴァンが泥まみれの側板を拾い、また歩きだした。
*
次に目を開けたとき、頭上には見知らぬ梁があった。
屋根の隙間から、細い光が差している。
鳥が鳴いていた。
ロウラは反射的に体を起こしかけ、痛みに呻いた。
朝だ。
寝過ごした。
看守が来る。
左手で寝床を探ってから、それが牢の藁ではなく、荷台に敷かれた外套だと気づいた。
「……ここ、どこだ」
「搾油小屋。もう使われていない」
戸口にレトがいた。オルムの帳面を閉じ、外を窺っている。
「帳面に休めると書いてあった。城壁は、もう見えない」
壁際には大きな石臼が眠っていた。古い油と乾いた草の匂いがする。
荷車は二台とも中に収まり、人々はその間の床で、寄り添って眠っていた。
誰かが咳をした。
別の誰かが、眠りながら母親を呼んだ。
ロウラの胸元で、リネアが丸くなっている。傷ついた翼の端には、小さな布が巻かれていた。
「飛べんのか」
黒い耳が動いた。
「ちょっとなら」
「ちょっとも飛ぶな」
「ロウラも、立っちゃ駄目だよ」
「……うるせぇ」
戸口から射す光が、少しずつ床を渡っていった。
朝を知らせる鐘は鳴らなかった。
誰も、彼女を叩き起こしに来なかった。
*
セヴァンがパンを切っていた。
オルムから渡された包みと、皆が持ち出してきた食料を、木箱へ並べている。
切り分けた分を数え、残りを布で包む。その手順は、傷ついた者へ布を配るときと同じだった。
「水は、次の家で補給できます。食料は、明日までもたせます」
「明後日は」
誰かが聞いた。
セヴァンの手が止まる。
「……それまでに、手に入れます」
大丈夫だとは言わなかった。
ロウラの腹が鳴った。
思いのほか大きな音に、眠っていたノアが顔を上げる。
「ロウラのお腹?」
「床だ」
「床は鳴らないよ」
「古いからな」
ノアが少し笑った。
ロウラはその顔を見て、ようやく息を吐いた。
セヴァンから受け取ったパンは硬かった。
左手だけでは割りにくい。膝へ押しつけようとすると、横からノアが両手を伸ばした。
小さく割られた欠片を、口へ入れる。
石埃の味がまだ残っていた。噛むたび、頬の傷が染みる。
それでも、ゆっくり噛んでいるうちに、穀物の甘さが舌へ広がった。
「ヴァルネにも、闘技場あるの?」
ノアが聞いた。
ロウラはレトを見る。
「闘技場は知らない。ただ、あそこは奴隷の売買を認めない町だ」
「じゃあ、これも外していい?」
ノアが首の鉄輪へ触れた。
皮膚の擦れた赤い線が、その下に見えた。
「着いたら、道具を探そう」
レトは答えた。
ノアは何度も頷いた。
ロウラは、指で鉄輪を捻り切る自分を思い浮かべた。
今の腕では、力の加減さえできない。
代わりに、輪の下へ折った布を差し込み、赤くなった皮膚を覆った。
「痛かったら言え」
「うん」
パンをもう一口食べた。
「……焼きたてのも、売ってんのか」
口にしてから、自分の声だと気づいた。
「パンのことか?」
レトが振り向く。
「他に何があんだよ」
「売ってるだろう。金があれば」
「金かよ」
「そういうものだ」
ノアが、ロウラの手に残った欠片を見た。
「柔らかいの、食べたいね」
「……ああ」
答えたあと、胸が痛くなった。
ディオンは今、水を飲めているだろうか。
あの小屋へ残した者の顔が浮かぶ。
ロウラはパンを置きかけた。
腹が、もう一度鳴った。
彼女は俯いたまま、残りを口へ押し込んだ。
*
陽が高くなる前に、小屋を出た。
畑の間を抜け、低い丘を越える。
荷車は何度も止まった。歩けるはずの者が足を引きずり、乗っていた者が場所を空けた。
セヴァンが乗る順番を変えるたび、車輪はまた動きだした。
ロウラは荷台から、その背中を見ていた。
肩を借りて歩く者。
水を回す者。
遅れた者を呼ぶ者。
牢では黙って座っていた者が、何度も仲間のところへ戻っていた。
午後、川の音が聞こえた。
木々の隙間に、水面が白く光っている。湿った風が頬を撫で、ロウラは目を細めた。
対岸には、麦畑が広がっていた。
「渡し場がある」
レトが帳面を開いた。
「舟で荷車ごと渡れる。向こう岸の農家で、水と食料を分けてもらう手筈だ」
「やっと飲める……」
誰かが空の水袋を揺すった。
セヴァンが坂を下りかけ、足を止めた。
「隠れて!」
荷車が木陰へ引き戻される。
川岸に、兵がいた。
舟の前へ槍を立て、渡ろうとする者を一人ずつ止めている。荷物を開かせ、顔を上げさせ、襟元まで調べていた。
城門で見たのと同じ盾だった。
ロウラは、ノアの首へ巻いた布を見た。
その下には鉄輪がある。
「回り道は」
「別の渡し場までは、ここから一日以上かかる」
レトは川上を見た。
流れは速かった。水の下に足場があるのかさえ、分からない。
歩けない者がいる。泳げない子供がいる。
岸辺では、兵が舟板を槍の柄で叩いていた。
「逃亡者を渡した船頭も、同罪だ! 分かったな!」
ノアがロウラの服をつかむ。
「また、戻るの?」
ロウラの口に、牢の黒パンの味がよみがえった。
「戻らねぇ」
それだけは、すぐに答えた。
どうやって渡るのかは、分からなかった。
目の前の川の向こうに、今夜の食事も、眠れる場所もあった。




