第15話 明日のパン
川面に、夕陽が砕けていた。
ロウラたちは、渡し場を見下ろす林に隠れていた。坂の下では、兵が舟へ乗る者の襟元を調べている。
ノアは首輪を隠した布を握り、荷台で膝を縮めていた。
「俺が船頭と話す。オルムの知り合いだ」
レトが帳面を懐へしまい、坂を下りていく。
ロウラは、その帳面を見送った。
昨日、オルムが渡したものだった。
*
城外の墓地にある、遺体を洗う小屋。
そこで、ディオンの包帯を替えていたオルムが言った。
「この二人は残す」
剥がした布から、血が糸を引いていた。
「荷台に寝かせりゃ運べるだろ」
「ディオンは、ここまで運んだだけで傷が開いた。ボルガの脚も、もう腫れが引かん」
壁際で、ボルガが脚を投げ出していた。ディオンを背負ってきた大男の膝は、倍ほどに膨れていた。
「じゃあ、あたしも――」
「ロウラ」
ボルガが遮った。
「外の子供が、おまえを待っている」
戸口にはノアが立っていた。何も言わず、こちらを見ていた。
ロウラは唇を噛み、寝台へ左手を伸ばした。
ディオンの指は冷たかった。
「あんた、戻れって言っただろ。だから戻ったんだぞ」
返事はなかった。
「次は、あんたが来いよ」
動かない指を握る。
「……聞こえてんなら、握れ」
長い間があった。
やがて、人差し指がわずかに曲がった。
ロウラの指に引っ掛かっただけだった。それでも、離すのが嫌になった。
「俺がついている」
ボルガが言った。
「こいつが目を覚ましたら、二人でおまえの文句を言いながら追いつく」
「脚、治してから来い」
「おまえもな」
オルムが、ディオンの手へ新しい布をかけた。
「俺も残る。まだ運べない奴が、ここにはいる」
小屋の奥で誰かが咳き込んだ。別の寝台から、水を求める声がした。
オルムはすぐに振り向いた。
ロウラはゆっくり、ディオンの手を放した。
外へ運ばれる直前、もう一度だけ振り返った。
戸口を離れても、水の滴る音が耳に残った。
*
「ロウラ」
肩を揺すられ、顔を上げた。
レトが戻っていた。川はもう黒い。
「下流の葦原で舟に乗る。船頭は、仕事を終えて対岸の家へ帰るふりをして舟を回す」
「兵から見えねぇのか」
「川の曲がり角に隠れる。ただし、荷車まで積む余裕はない。全員を一度に運ぶ」
セヴァンが荷台の板を外し、上着を敷いた。
負傷者を運ぶ担架にする。水袋と食料だけを持ち、二台の荷車は林に残した。馬も軛を外して放す。
ロウラが担架へ移されると、脇腹に焼けるような痛みが走った。
「ゆっくり運んで」
ノアが担ぎ手へ言った。
ロウラは何も言えず、板の縁を握った。
*
葦原は、渡し場から坂を下り、川岸を少し歩いた場所にあった。
川はそこから大きく曲がる。こちら側の岸は、その先で切り立った岩壁になっていた。対岸には低い畑が続いている。
葦を分けると、浅瀬に平たい渡し舟が待っていた。
船頭が舟の後ろで竿を突き、流されないように支えている。岸と舟の間には、幅の広い板が渡されていた。
「担架から乗せてくれ。真ん中へ寝かせるんだ」
ロウラは板の上を運ばれ、舟の中央へ下ろされた。右腕も左脚も動かせない。ノアとリネアがすぐ隣へ座った。
歩ける者たちも、続いて乗り込む。
水面が近い。濡れた木と川泥の臭いが、鼻を突いた。
全員が乗ると、セヴァンが渡り板を舟へ引き入れた。
レトとセヴァンの二人だけが、岸に残った。
「押し出すぞ」
船頭の声に、二人は舟の左右から浅瀬へ入った。水は膝の高さだった。
舟の先端が泥へ沈んでいる。二人は縁をつかみ、川の深い方へ押した。
動かない。
ロウラは左手を舟板についた。体を起こしただけで、傷口が引き攣れた。
「くそ……!」
岸へ下りて押すことさえできない。
そのとき、背後の斜面に灯火が現れた。
「荷車の連中だ! 川へ逃げるぞ!」
兵が林から駆け下りてくる。剣が葦を薙ぎ、乾いた葉が裂けた。
「急げ!」
レトとセヴァンが、もう一度腰を落とした。
船頭も竿を川底へ突き立てる。
木が軋んだ。
泥の吸いつく音がして、舟が滑り出した。
「二人とも、乗れ!」
舟の中の男たちが腕を伸ばした。
まずレトが縁へ腹を乗せ、引き上げられた。舟はゆっくり深みへ出ていく。次にセヴァンが両手をかける。
濡れた指が滑った。
肩まで水へ落ちた彼を見て、ロウラの喉が縮んだ。
レトが身を乗り出し、その手首をつかんだ。別の男が上着を握る。二人で引きずり上げ、セヴァンの体が舟板へ転がった。
もう、水の中に仲間はいない。
船頭が竿で最後の一押しをした。
岸が離れる。
追いついた兵が水へ踏み込んだ。膝までだった水が、次の一歩で腰を越えた。
「止まれ!」
突き出された槍は、舟まで届かなかった。
岸に残った弓兵が、弦を引いた。
「伏せろ!」
ロウラはノアを左腕で抱え込み、頭を下げた。
矢が舟の縁へ突き立つ。頬へ木屑が刺さった。
船頭は竿を置き、櫂を握った。レトも反対側の櫂を取る。舟は流れに乗りながら、斜めに対岸を目指した。
兵は岸を走って追ってきた。
だが、川の曲がり角で岩壁に行く手を塞がれた。
もう一本、矢が水へ落ちる。
舟が曲がり角を越えると、灯火も弓兵の姿も、岩陰へ消えた。
*
川の真ん中で、セヴァンが一人ずつ顔を確かめた。
「林を出た者は、全員います」
ロウラは頷き、ノアを抱く腕を緩めた。
小さな肩が震えている。自分も震えていると、そのとき気づいた。
「もう、顔を上げていい?」
「……ああ」
ノアが鼻をすすった。
誰かが声を殺して泣いていた。
ロウラは、岩壁の向こうに隠れた岸を見た。
昨日、ディオンの指が触れた場所を、左の親指で擦る。
オルムの小屋は、あちら側にある。
自分たちは、先に行く。
喉の奥が痛くなり、ロウラは下を向いた。
舟底に溜まった水が、足元を行き来していた。
*
対岸の浅瀬に着くと、歩ける者から下りて舟を押さえた。
ロウラは担架ごと持ち上げられ、草の上へ運ばれた。
今度は、揺れない。
背中の下に陸がある。そのことだけで、長く息が漏れた。
「この辺りの舟はこれだけだ」
船頭が、背後の川を見た。
「兵が橋から回れば、馬でも半日はかかる。今夜は休める」
舟を茂みへ隠し、畑の縁を通って船頭の家へ向かった。
家の女は一行を見ると、納屋を開け、鍋と木の椀を運んできた。
「座った者からお飲み」
温かい豆の汁だった。
左手で受け取った椀が震える。女は何も言わず、底を支えてくれた。
一口、飲む。
塩が口の傷へ染みた。豆が舌で潰れ、腹の底へ温かさが落ちていく。
涙が一粒、椀へ落ちた。
「熱かったかい」
「……ちょっとな」
女は水を足さなかった。
納屋では、濡れた服を脱ぐ音に、小さな寝息が混じり始めていた。
「朝になったら、ここの荷車を借りる」
レトが言った。
「街道を避けて、ヴァルネへ向かう」
「着いたら、どうする」
「仕事と、寝る場所を探す」
ロウラは動かない右腕を見た。
剣を握れない自分に、何ができるだろう。
「ロウラ」
隣でノアが呼んだ。
「明日、パンあるかな」
今朝、荷台でした話だった。
焼きたてのパンを食べたい。
「粉ならあるよ」
家の女が言った。
「朝に焼こうかね。元気な人は薪を割っておくれ」
セヴァンが立ちかけ、濡れた服を踏んでよろけた。
「明るくなってからでいいよ」
誰かが吹き出した。
小さな笑いが、藁の上を広がっていった。
ロウラも笑い、口の傷が裂けた。
痛かった。
それなのに、もう一度笑いたくなった。
「ノア。焼けたら、あたしも起こせ」
「うん」
空の椀を置き、藁へ背を預ける。リネアが胸の上で丸くなった。
戸口の向こうには、知らない土地へ続く道があった。
朝になれば、あの道を行く。
その前に、温かいパンを食べる。
ロウラは、その朝が来るのを待ちながら目を閉じた。




