第16話 名もない一行
パンを二口食べたところで、担架の帯が切れた。
ロウラの体が傾き、荷車の縁から左肩がはみ出す。脇腹の傷が内側から裂けたように痛んだ。
「止めて!」
荷車が急停止する。街道脇の乾いた草が、車輪に巻き込まれて倒れた。
担架を押さえたのは、焦げ茶の髪をきつく編んだ女だった。ミレアという元織工で、闘技場を出てからもほとんど口を利かなかった。細い体のどこにそんな力があったのか、ロウラの肩を片手で支えている。
「動かないで。ほかの帯まで切れる」
「あたしが降りりゃいい」
「立てないでしょう」
言い返す前に、ミレアは切れた帯を引き抜いた。隣で弟のティロが糸束を広げる。青、黄、煤けた白。指先まで染料の色が染みついていた。
「白がいちばん丈夫だよ。青は濡れると緩む」
「じゃあ、白」
「見た目は悪いけど」
「担架の色なんか、誰も見ねえよ」
ティロは口を閉じ、白い糸を渡した。
御者台では、セヴァンが後ろを振り返っている。昨夜借りた小型の荷車を引く馬は、朝から二度目の停止に鼻を鳴らした。バルクとユーデは左右の轍を調べ、追跡の痕がないか確かめていた。
歩ける者は働いている。動けないのは自分だけだ。
ロウラは残ったパンを握った。せっかく焼きたてだったのに、もう冷えている。
朝、竈から出たときには、指で割ると湯気が立った。ノアは一つ目を食べ終える前に、二つ目を膝へ確保していた。
皆が笑っている間だけは、昨日の舟も、対岸へ残した三人も遠い出来事に思えた。
道へ出れば違う。荷車が石を踏むたび、ロウラのせいで速度が落ちる。壊れた担架を縫う時間だけ、兵との距離が縮む。
明日のパンを欲しがったのはノアだ。明日まで全員を生かすのは自分の役目だと、勝手に決めていた。
その自分が、一番先に運ばれている。
「食わないなら、俺がもらうぞ」
レトが言った。
「食う」
「なら握りつぶすな」
腹が立ったので、残りを全部口へ押し込んだ。傷ついた口の端が痛み、うまく噛めない。胸の上にいたリネアが、白い前足でパン屑を押さえた。
「それ、ぼくの?」
「落ちたやつだけな」
「けち」
リネアは不満そうに言いながら、屑を舐め取った。
*
川を離れて半日。ヴァルネへ続く大街道を避け、一行は丘の間の古い脇道を進んでいた。
陽は高く、石の道から照り返す熱が荷車の底まで上がってくる。オリーブに似た低木がまばらに生え、その葉が風に裏返るたび、白く光った。
先を飛んでいたリネアが、黒い翼を畳んで戻ってきた。
「この先、くさい」
「何の臭いだ」
「血。馬。それから、死んだ人」
レトが御者台の横へ上がった。
「道を外せるか」
セヴァンは首を振る。
「右は崖、左はぬかるみです。この荷車では通れません」
「見てくる」
ロウラが身を起こそうとすると、ミレアの手が額を押した。
「何だよ」
「縫い終わるまで寝てて。傷が開く」
「すぐそこだ」
「そこまで歩けないでしょう」
糸をくわえたまま、ミレアは帯を縫い続けた。
荷車は速度を落として進んだ。やがて、蠅の羽音が車輪の軋みに混じり始める。
曲がり角の先で、一台の檻馬車が横倒しになっていた。車軸が折れ、片方の車輪が道の下へ転がっている。檻の扉は開き、切られた鎖が石の上へ垂れていた。
死体は二つあった。一人は馬車の下敷きになり、もう一人は喉を切られている。どちらも奴隷狩りがつける赤革の腕輪を巻いていた。
そして、その死体を二人の男が漁っていた。
背の高い男は、血のついた金具を布で拭いている。黒髪に、旅埃で灰色になった白い上着。もう一人は小柄で肩幅が広く、死体の指から指輪を抜いていた。黒革の外套の下に、小ぶりの鎌を布で包んで隠している。
「何してる」
ロウラが言うと、小柄な男は指輪を日に透かした。
「祈ってる」
「どこがだ」
「この人の財産が無駄になりませんように、って」
「返せ」
「本人に?」
ロウラは担架へ左手をつき、体を起こした。視界が一度、白くなる。
背の高い男が立ち上がった。穏やかな顔をしていたが、目だけがロウラの傷、荷車、同行者の数を順に測っている。
「待て待て。俺たちは助けた側だ」
「その金具は何だよ」
「救助報酬」
「自分で持ってっただけだろ!」
レトの声が丘へ響いた。
小柄な男が耳を押さえた。
「死体が起きるぞ」
檻の中には、引きちぎられた縄と、片方だけの草履が残っていた。裸足の跡が五人分、ぬかるみを横切って西へ続いている。
レトが二つの死体のそばへしゃがんだ。喉を切られた男の瞼を閉じ、服の裏や腕輪を調べていく。指輪を奪ったことを責める様子はない。
「埋めねぇのか」
「穴を掘っている間に追いつかれる。道の端へ寄せる」
「こいつら、奴隷狩りだぞ」
「分かってる。それでも道の真ん中には置いていけない」
レトは淡々と答え、馬車の下敷きになった男の肩へ手をかけた。バルクが反対側を持ち、二人で道端の木陰へ運ぶ。
「捕まってた連中は逃がした」
背の高い男が言った。
「馬車を倒したのは俺たちだ。下になった方は運が悪かった。喉を切ったのは、あいつが逃げた女へ剣を投げようとしたからだ」
「金目当てだろ」
「それもある」
否定しないのが、よけいに気に入らなかった。
小柄な男が、倒れた馬車の下から革袋を引きずり出した。中身を確かめ、銅貨を二枚だけ死体の胸へ置く。
「渡し賃だ」
「どこへ渡るんだよ」
「知らねぇけど、ただで行くよりましだろ」
レトは銅貨を拾わなかった。代わりに折れた車輪を二つの死体の前へ立て、街道から直接見えないようにした。
背の高い男はその間、逃げた足跡を目で追っていた。
「五人とも西へ向かった。水を持っているのは一人だけだ」
「追わないのか」
「隠れられる場所は教えた。俺たちがついていくと、かえって目立つ」
ロウラは返事をしなかった。その言葉だけは、よく分かった。
「俺はナザル。こっちはカッシウス」
「聞いてねえ」
「そうか。君たちは?」
「言わねえ」
「だと思ったよ」
ナザルは笑った。人を安心させるために、笑う角度まで決めているような笑顔だった。
カッシウスは指輪を自分の袋へ落とした。
「で、あんたらも追われてるのか」
バルクが一歩前へ出た。武器はない。それでも、石切場で鍛えた太い腕を見て、カッシウスは袋の口を閉じた。
「それ以上、聞くな」
ユーデも道端の石を一つ拾い、重さを確かめている。
ナザルは二人を見て、今度は笑わなかった。
「なら忠告だけだ。さっきの奴隷狩りは本隊じゃない。逃げた五人を追って、残りが谷へ下りた。戻れば、この道を通る」
「何人だ」
セヴァンが尋ねる。
「商人が一人、護衛が五人。馬もある」
「こっちの人数を見て、避けてくれればいいんだが」
「向こうは全員、剣を持ってる。数だけじゃ引かねえよ」
レトは倒れた馬車の先へ目を凝らした。
*
遠くで馬具が鳴った。
リネアが耳を伏せ、荷車から飛び立つ。道の曲がり角を越え、すぐ戻ってきた。
「六人。もう近い。檻のない馬車もある」
セヴァンが馬の手綱をバルクへ渡した。ユーデは石を二つ拾い足す。ミレアは縫い終えた帯を強く引き、ティロとノアを荷車の陰へ入れた。
誰もロウラの指示を待っていなかった。
セヴァンは道の中央に立ち、バルクを右の岩際、ユーデを左の茂みへ置いた。戦いになれば、バルクが最初の一人を受け止め、ユーデが馬の顔へ石を投げる。二人とも武器はない。
レトは荷車の横を離れず、ノアたちとの間へ体を入れた。リネアは上空から、曲がり角の向こうを見張っている。
闘技場なら、ロウラは誰がどこへ動くかを声で決めていた。今は皆が自分で場所を選び、足りないところを埋めている。
自分がいなくても動ける。その事実に安堵するより先に、置いていかれたような寂しさが来た。そんな自分が、ひどくみっともなかった。
それでいいはずなのに、舌の裏が苦くなった。
「あたしを下ろせ。荷車だけなら――」
「走れるのか」
レトに問われ、言葉が止まった。
走れない。立てない。剣も握れない。下ろされたところで、守られる場所が道端へ変わるだけだ。
ナザルが倒れた馬車を見回した。
「向こうから見れば、俺たちもあんたらの仲間だ。今さら別だと言っても信じない」
「勝手に仲間にするな」
「だったら、あいつらが行くまでは仲間のふりをしよう」
「何を言う気だ」
「考えてる。本当のことを話せば、全員捕まる」
馬蹄が石を打つ音が近づく。
ロウラはナザルを睨んだ。追い払えと言えば、二人は去るかもしれない。けれど、去ったあとで六人を相手にするのは、セヴァンたちだ。
開きかけた口を閉じた。
それだけで、ナザルは勝手に一行の前へ立った。カッシウスも隣へ並び、懐から紙と炭筆を出す。
「それ、何だ」
「通行証だ」
「真っ白じゃねえか」
「だから今から書く」
曲がり角から、六騎と空の荷馬車が現れた。
先頭の太った男が、倒れた檻馬車と二つの死体を見た。次に、ロウラたちの首元、手首、粗末な衣服へ目を走らせる。
護衛たちが剣の柄へ手を置いた。
「お前たちは何者だ」
「俺たちは――」
ナザルの視線が道端で止まった。
低木に半ば埋もれた小さな祠がある。欠けた女神像は、笑っているのか困っているのか分からない顔で、煤けた石の灯火を掲げていた。台座には、かろうじて名が残っている。
ヴェラ。
「《ヴェラの灯火傭兵団》だ。十一人で、護衛の仕事をしている」
レトは祠とナザルを交互に見た。
「おい。今、あの祠を見ただろ」
「あとにしてくれ」
奴隷商人は笑わなかった。
「傭兵団なら、登録証を見せろ」
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