第17話 偽りの先触れ
「傭兵団なら、登録証を見せろ」
奴隷商人の声に、カッシウスは手元の紙を見た。
白紙だった。
「その前に、あんたの奴隷台帳を見せてくれ」
商人の口元がこわばった。
「なぜ私が見せる」
「登録前の傭兵を逃亡奴隷だと訴えるんだろ。だったら役所は、申し立てた側の台帳から調べる。買付証明、納税記録、焼き印の記載。全部だ」
「そんな決まりは聞いたことがない」
「奴隷を商っていて、審査手続きも知らないのか」
カッシウスは気の毒そうに首を振った。その横で、ナザルが穏やかに笑う。
「こちらは争う気はありません。ヴァルネの役所で、互いの書類を確かめてもらいましょう。それで正しい方が分かる」
「登録証もない者が、役所を口にするな」
「俺たちに登録証がないことと、あなたの帳簿が正しいことは別の話です」
ナザルは言い返さず、事実を置くように話した。
商人が護衛へ目をやる。五人の手が剣の柄にかかった。
道の中央にはセヴァンがいる。右の岩際にはバルク、左の茂みにはユーデ。誰も武器を持っていない。それでも三人は、抜かれた剣をどう奪うか、相手の足と間合いだけを見ていた。
ロウラは荷車の上で左手を握った。爪が掌へ食い込んでも、体を起こせない。耳の奥で脈が鳴り、六人の輪郭が陽炎のように揺れている。
「団の代表者は?」
商人が尋ねた。
ナザルが振り返るより早く、皆の視線がロウラへ集まった。
「見るな」
「では、負傷中の団長に代わって俺が話します」
「勝手に団長にすんな」
「反論できるなら元気そうだ」
ナザルは商人へ向き直った。腹が立つが、言い返して会話を長引かせる方がまずい。ロウラは奥歯を噛み、黙った。
カッシウスは白紙へ炭筆を当てた。
「商会名は?」
「何を書く気だ」
「照会書だ。登録地と主人の名も頼む」
「誰が書けと言った」
「あんただ。証明しろと言っただろ。書類は勝手に生えてこない」
護衛の一人が剣を指二本分だけ抜いた。
バルクが半歩、道の中央へ寄る。ユーデは足元の石を拾わず、どの護衛が投石紐を下げているか見定めた。セヴァンは動かない。抜かせないための距離を保っている。
商人は三人を見てから、荷車の檻へ目を戻した。空の檻、二人の死体、なくした五人の奴隷。これ以上の損を出すか、帳簿を調べられる危険を冒すか。脂ぎった指が、上着の裾を何度も撫でた。
「東の宿場に、ヴァルネの出張所があります」
ナザルが道の先を示す。
「俺たちもそこで仮登録を済ませる予定です。気になるなら、ご一緒に」
「その顔は覚えたぞ」
商人はそれだけ言い、護衛へ顎を振った。剣が鞘へ戻る。空の荷馬車が向きを変え、六頭の馬とともに来た道を引き返していった。
蹄の音が遠ざかってから、レトがナザルの肩をつかんだ。
「その出張所、本当にあるんだろうな」
「ない」
「規則は」
「半分は本物だ」
「半分しか本物じゃねえのか!」
「全部嘘より長持ちする」
カッシウスが白紙を畳んで懐へ入れた。
「あいつが調べ終わるまで、二日は稼げる」
「二日後はどうする」
「その頃には、ここにいない」
もっともな答えだった。ロウラもそうするつもりだった。
起き上がろうとして、左肘が担架から落ちた。体の芯が急に冷え、次いで焼けるような熱が戻る。リネアの白い前足が頬へ触れた。
「ロウラ、すごく熱い」
「西へ半日ほど行けば、リュケという村がある」
ナザルの声が、遠くで聞こえた。
「ヴァルネとは逆です」
セヴァンが答える。
「半日だけだ。村なら傷を診られる人間もいるかもしれない」
「ヴァルネへ行け」
ロウラは言ったつもりだった。喉から出たのは、息に近い音だけだった。
レトが担架のそばへ膝をつく。
「このまま七日運べば、お前が先に死ぬ」
「死なねえ」
「その台詞、熱にも言ってやれ。聞いてないみたいだぞ」
御者台で手綱が鳴り、荷車が西へ向きを変えた。誰もロウラの許しを求めなかった。止めろと怒鳴りたいのに、荷車がヴァルネから遠ざかるほど、腹の奥に張りついていた力が少しずつ抜けていく。
それを認めるのが嫌で、ロウラは目を閉じた。
空が傾いた。
*
次に目を開けたとき、荷車は麦畑の間を下っていた。
夕暮れの浅い谷に、白っぽい土壁と藁屋根が集まっている。豆を木桶へ落とす硬い音が止み、代わりに犬が吠え始めた。畑から戻る者たちが鍬や刈り鎌を手に、細い道を塞いでいく。
大人の脚の間から、子どもたちが荷車を覗いていた。母親が肩を引いて家の陰へ隠す。羊まで鳴くのをやめ、十一人のよそ者が谷へ持ち込む厄介事を見定めているようだった。
一行の前へ出てきた老人は、杖を使っていなかった。腰は曲がり、白い髪と短い髭に囲まれた顔には深い皺がある。けれど声には力が残っていた。
「ここはリュケ村だ。よそへ行け」
「病人がいる。一晩でいい」
レトが荷車を示した。
「一晩泊めたよそ者が、翌朝には兵を連れてくる。何度も見た」
老人の視線はロウラの首元で止まり、次に人数を数えた。拒んでいるのはロウラが憎いからではない。この村の三百人と、目の前の十一人を量っている。
ナザルが一歩前へ出た。
「南西辺境守備隊付属、街道監察団の先触れです」
後ろでレトの口が開く。カッシウスが肘で腹を小突き、声になる前に止めた。
老人は鼻を鳴らした。
「嘘をつけ。息子のエダンは第三営にいる。監察役がこの道を通るなど、手紙には一言もなかった」
「その手紙が届いたのは?」
「二月前だ」
「では、エダン殿が知らないのも当然です。我々が動き始めたのは、その後ですから」
ナザルはエダンを知っているとは言わなかった。それでも、息子の所属を知る役人のように聞こえた。
「通行証は」
「血で汚れました。読める部分だけなら」
カッシウスが懐から古びた通行証を取り出した。折り目で文字を隠し、老人が手を伸ばす前に、下端の印だけを見せて戻す。
「こちらも急いでいます。ですが、村長」
ナザルの声がわずかに低くなった。
「もしエダン殿が、この女と同じ姿で見知らぬ村へ担ぎ込まれたら、門前に捨ててほしいですか」
老人の太い指が動いた。何度も開いた手紙の折り目をなぞるような動きだった。
「オルバン・ケストだ」
しばらくして、老人は名乗った。
「村外れの共同納屋を使え。今夜だけだ。武器は隠せ。井戸は村の者が使い終えてからにしろ」
「感謝します、オルバン村長」
*
納屋の扉が閉じるなり、カッシウスは干し草の上へ紙を広げた。
「南西辺境守備隊付属、街道監察団、と」
「今から書くのかよ!」
「さっきまでは、そんな団なかったからな」
「なかった団の証明を作るな!」
「声を落とせ。監察団は耳がいいことになっている」
「その設定も今増えたな?」
レトが怒鳴りきれず、喉の奥で声を潰した。カッシウスは古い通行証の文字を削り、炭と油を混ぜた墨で新しい名を書き足す。小さな蜜蝋の塊を火で温め、欠けた印を押した。
「エダンを知ってたのか」
ロウラが訊くと、ナザルは首を振った。
「今、知った」
「前から知ってるみたいに話しただろ」
「俺は一度も、そうは言ってない。あの人が足りないところを自分で埋めたんだ」
「嫌なやつだな」
「よく言われる」
「主に俺からな」
カッシウスが印を押しながら付け加えた。
扉が開き、薬草籠を抱えた娘が入ってきた。ロウラと同じくらいの年に見える。ネッサと名乗った娘は挨拶もそこそこに包帯を切り、傷へ鼻を近づけた。
「臭いが悪い。いつから熱があるの」
「ない」
「熱の方は、あるって言ってる」
ネッサは傷を縫った糸を指先でつまんだ。
「誰が縫ったの」
「俺だ」
レトが答えると、ネッサは縫い目とレトの顔を見比べた。
「ほどけてはいない。褒めてほしい?」
「助かる」
「そう。じゃあ褒めない」
ネッサは銀色の糸をロウラの額へ当てた。糸が細かく震え、冷たい銀から濁った赤へ変わる。
「糸で治すのか」
「測るだけ。治すのはあんたの体。邪魔をしなければね」
レリスタ人には、一人につき一つ、その者と結びついた品がある。レリックと呼ばれ、多くは火を長持ちさせたり、穀物の湿りを測ったりする生活道具だった。中には戦や都市の行方を変えるものもあり、強い力を持つ者は《銘持ち》と呼ばれる。
「お前らも持ってんのか」
ナザルは親指ほどの銀の小鈴を出した。
「《返り声の小鈴》。話している間、相手が気にした言葉に震える」
「だから商人が帳簿を嫌がったと分かったのか」
「あれは鈴がなくても分かる」
「言わないと格好がつかないからな」
カッシウスが笑う。
「お前の鎌は?」
「草刈り用だ」
「それだけか」
「草以外も刈れる。指とか」
「ごまかしてるな」
「ばれたか」
ミレアは青銅の指貫を見せた。布や縄へ触れると、次に切れる糸が白く見えるという。
「担架が切れるのも分かってたのか」
「触れればね。朝はパンを配ってたから」
ティロは待っていたように乳白色の小石を掲げた。
「ぼくのは《染まり石》。染め汁につけると、乾いたあとの色が――」
「戦いには使えねえな」
「投げれば、たぶん」
「やめなさい」
ミレアに止められ、ティロは石をしまった。
ネッサは全員を追い払い、ロウラの脇腹を洗い始めた。水が触れるたび肉の奥が脈打つ。
「そこはきつく巻け。肩は先に固定しろ」
「口まで怪我すれば、少しは静かになる?」
「やれるもんなら――」
言い返す途中で、ロウラの歯が鳴った。ネッサの顔から苛立ちが消える。銀糸を傷の上へ垂らすと、先ほどより濃い赤に染まり、細かく震え続けた。
「ヴァルネまで、何日」
「この足なら一週間だ」
レトが答えた。
ネッサは汚れた水を捨て、新しい布を取った。
「無理。最低でも一か月は動かせない」




