第18話 納屋の光
共同納屋には、窓がなかった。
朝は扉の下の光で分かる。
坂を下る荷車の軋み。井戸端で桶を打ち合わせる音。遠くでは、羊の群れを追う子どもが、なぜか羊より甲高い声を上げている。
「今、外はどうなってる」
ロウラの腹の上で丸くなっていたリネアが、片目を開けた。
「晴れてるよ」
「それだけか」
「空が青くて、畑が黄色くて、レトが水路にはまってる」
外から罵声が聞こえた。
「最後のを先に言え」
「でも、もう出たよ」
リネアは白い前足を揃え、また目を閉じた。
村へ着いて二日目だった。
体を起こそうと左肘をつく。脇腹の傷が引き絞られ、息が止まった。右腕は肩から先が重い布袋のようで、左脚は寝床の上で少し向きを変えただけで骨の奥まで痛んだ。
尻を浮かせたところで、戸が内側へ開いた。朝の光と一緒に、薬草籠を抱えたネッサが入ってくる。
「散歩?」
「便所だ」
「便所は反対側よ」
ロウラは黙って寝床へ戻った。
ネッサは戸を開けたままにした。納屋は村の西端、ゆるい坂の途中にある。戸口の先に土壁の家々と共同井戸、その下には麦畑を縫う水路が見えた。
風が渡るたび、麦の穂が谷底へ向かって頭を下げる。湿った土と羊毛を煮る灰汁。闘技場にはなかった暮らしの匂いだ。
水路に立つレトへ、バルクが杭を渡す。ユーデは土手で流れを読み、羊小屋ではミレアとティロが毛を広げ、ノアが村の子どもたちと藁屑を拾っていた。
誰も剣を持っていない。
それでも、皆が働いていた。
「戸、閉める?」
ネッサに訊かれ、ロウラは首を横へ振った。
*
昼前、セヴァンが豆の煮込みと平たい板を運んできた。炭で描いた二つの輪に、大粒の豆九つ、小粒一つ、黒い小石が一つ並んでいる。
「何だ、それ」
「食料の計算です。大粒が大人、小粒がノアです」
セヴァンが黒い小石を指で押した。
「これはリネアです」
「どうして、ぼくだけ石なの?」
梁の上から声が降ってきた。
「豆を食べないからです」
「石も食べないよ?」
「知っています」
セヴァンは村で昼食をもらえる者を左の輪へ、持参食を使う者を右へ移した。これで食料が何日もつか分かる。
「あたしの豆を抜け」
セヴァンはロウラを表す豆を右の輪からつまみ上げた。
「なぜです」
「働いてない」
「抜けば一人分は浮きます。でも治りが遅れて滞在が一日延びれば、十人分以上が要る」
セヴァンはロウラの豆を右の輪へ戻した。
「一人分を惜しんで十人分を減らすのは、兵站ではありません。今の仕事は、食べて、寝て、早く治ることです」
「それを仕事と呼ぶな」
「最優先事項です」
セヴァンは煮込みを置くと、返事を待たず次の仕事へ出ていった。
腹が立った。だが、椀から立つ湯気は豆と山羊乳の匂いがした。腹は、持ち主より素直に鳴った。
*
三日目から、偽の街道監察団を頼って、納屋の前に村人が並び始めた。
ナザルは空樽に座り、カッシウスは戸板を膝へ載せて書記を装う。水路の堰を巡る争いの次は、兵に徴用された羊二頭の代金が届かないという女だった。
ナザルは話を遮らず、ときどき短く問い返した。
「羊を連れていった兵の襟は、赤でしたか。青でしたか」
「泥だらけで分からなかったよ」
「では、馬の鞍布は?」
「青だ。縁が黒かった」
「それなら所属を絞れます」
女が帰ると、カッシウスは戸板の紙へ「青地、黒縁、羊二頭」と書き残した。
「本当に分かるのか」
ロウラが訊くと、ナザルは声を落とした。
「鞍布だけじゃ無理だ。ただ、次は『何も分からない』ではなく『青地に黒縁』と言える。役人は、泣く女より、覚えている証人を嫌がる」
「それでも羊は戻らねえ」
「そうだ。だから、忘れていない人間がいると紙に残す」
カッシウスが炭筆を走らせたまま言った。
「本物の役所が書かないなら、偽物の俺たちが書く。少なくとも、羊二頭を取られた事実は残る」
昼過ぎ、卵籠を抱えた老婆が来た。
「監察様。ほんの気持ちです」
「受け取れません」
ナザルが断ると、老婆は卵を二つ引き上げた。
「八つなら?」
「二つ減らすと、賄賂ではなくなるんですか」
「二つは孫の分さ」
「孫が役人に勝った。健全な村だ」
カッシウスが真顔で頷いた。卵は村長へ預け、翌朝の一行の食事になった。
最後に、土のついた手を前掛けで拭いながら、女がやって来た。
「徴税役人のゲルバス様が、今度は種麦を出せと」
「税は納めたはずだ」
奥に立っていたオルバンが言う。
「そう言ったよ。でも印璽を見せられたら、亭主が何も言えなくなって……。次に来るまで、袋へ印をつけておけって」
「ゲルバスは、それを税と言いましたか」
ナザルが訊いた。
「国への臨時供出だと」
「盗人ほど、名前をつけるのが上手い。持っていく物は同じなのに」
「種まで渡したら、来年は何を播く」
ロウラが身を起こすと、女が驚いてこちらを見た。脇腹に熱いものが走る。
「横になって」
ネッサの手が肩へ来た。
「ナザル、そいつが来るのはいつだ」
「まず寝ろ」
「いつだ」
オルバンが二人の間に口を挟んだ。
「次にゲルバスが来るのは十日後だ。だが、これは村の問題だ。お前たちは関わるな」
ロウラは反論できなかった。実際、立つことさえできない。
*
夕方、ミレアが破れた穀物袋を納屋へ運び込んだ。
ロウラは針を借りた。左手だけでも袋くらい縫えると思った。糸を歯で引き、布へ針を刺す。ひと針目は曲がり、ふた針目で指先を刺した。握り直そうとした拍子に袋が倒れ、乾いた豆が床板を跳ねた。
ノアが戸口から顔を覗かせる。
「拾う」
「触るな」
「でも――」
「いいから行け」
ノアが手を引っ込め、肩をすぼめた。怒鳴られた奴隷たちと同じ姿だった。自分の声は、奴隷管理人に似ていた。
違う、と言いたかった。誰に対してかは分からなかった。
ネッサが黙って豆を拾い始めた。
「やめろ。自分でやる」
「いつまでに?」
「……今日中だ」
「今から傷を洗う。包帯も替える。そのあと熱が上がる。今日があと三日くらいあるなら、間に合うかもね」
ロウラは針を握ったまま、床を見た。
「飯が欲しければセヴァンに『持ってこい』。体を起こすときはレトに『肩を貸せ』。傷を洗う私には『早くやれ』」
ネッサは最後の一粒を拾い、ロウラの掌から針を抜いた。
「ロウラは、『任せる』とか『お願い』って言えないのね」
「命令なら伝わる」
「伝わるよ。でも命令なら、相手の返事を待たなくていいものね」
「返事なんかいらねえ」
「そうやって、断られる前に話を終わらせる」
ネッサは包帯の端をロウラへ持たせた。
「痛かったら放して」
「平気だ」
濡らした布が傷へ触れた。指に力を込める。二度目に布が入ったとき、白い火花が視界を走った。
それでも、声は出さなかった。
三度目が来る前に、包帯の端を放した。
ネッサは何も言わず、少しだけ手を緩めた。
*
八日目、カッシウスが近くの宿場から戻った。
靴に乾いた泥をつけたまま、戸を閉める。懐から取り出した紙には、女の顔と、肩に焼き印のある男たちが粗い線で描かれていた。
「逃亡奴隷の触書だ。似顔絵は似てない。賞金も安い」
「安いのか」
「値切られて腹が立つなら、元気な証拠だ」
セヴァンが地面へ村と街道の線を引く。バルクとユーデが戸口を塞ぎ、外から覗かれないように立った。
「村仕事は二人ずつにします。戻る時刻もずらす。ノアは村の東へ行かせません」
「俺は北の宿場へ戻る。馬丁には『女が北へ』、酒場の女将には『男たちが東へ』。門番には『翼の猫が南へ飛んだ』と言わせる。追手を三方向へ散らす」
「最後の噂だけ、本当が混じってるじゃねえか」
レトが言うと、カッシウスは触書を畳んだ。
「嘘には、本当をひとつ混ぜる。その方が長持ちする」
梁の上で、リネアが不満そうに翼を鳴らした。
「ぼくは混ぜ物じゃないよ」
皆が動き出す。ロウラは壁に背を預けたまま、その背中を見送った。
止める言葉も、指図する言葉も浮かばなかった。
戸を閉めようとしたセヴァンへ、ロウラは言った。
「少し、開けとけ」
セヴァンは理由を訊かなかった。人ひとり通れるだけの隙間を残した。
*
十四日目の朝、共同穀物庫には冷えた麦の匂いが満ちていた。
オルバンは種麦の袋を一つずつ開き、《乾き石》を押し当てていた。灰色の石が淡い白へ変わる。よく乾いている。冬を越し、春に播けば、村の畑をもう一度黄色くできる麦だった。
蹄の音が谷へ下りてきた。
南西辺境守備隊の荷車だった。第三営の印を見て、オルバンは道へ出た。御者台の若い兵に、息子エダンの名を告げる。
「知っています。腕相撲ばかり強い人だ」
「仕事は」
「それなりです」
オルバンは二月ぶりに笑った。
車輪を直すあいだ、兵から逃亡奴隷の捜索と、ヴァルネへ向かう道の検問を聞いた。
「監察団も忙しいだろう」
オルバンが何気なく言うと、兵は首を傾げた。
「この辺りに監察団は来ませんよ。今は北の徴発地に集められています」
昼過ぎ、荷車は谷を出ていった。
オルバンは、土煙が丘の向こうへ消えるまで見送った。
共同納屋へ戻ると、戸は今日も細く開いていた。隙間から、カッシウスが樽を机にして書き物をしているのが見える。脇には、二週間前の通行証が置かれていた。
カッシウスが紙を押さえるために伸ばした手より先に、風が通行証をめくった。
削られた文字。継ぎ足した墨。欠けた印。
オルバンは立ち止まった。
「何か?」
カッシウスが顔を上げる。
「いや」
オルバンは首を振った。兵から聞いたことも、通行証が偽物だと気づいたことも口にしなかった。
本物の役人は種麦を奪う。偽物たちは訴えを紙に残し、水路を直す。
どちらを追い出すべきか、迷うほどのことではなかった。




