第19話 天性の詐欺師
「その焼印、灯火にしてしまおう」
滞在十五日目の朝、ミレアは縫い針を火へかざしながら言った。
共同納屋の床には、煮沸した針、煤を混ぜた顔料、酢の匂いがする布が並んでいる。ロウラは寝床の上で左肩を引いた。
「もう一度焼く気か」
「焼かない。細い針で色を入れる」
「何度も刺すのか」
「そう」
「焼いた方が早い」
「塞がりかけた傷をまた焼いて、治療を最初からやり直したいなら止めないよ」
ミレアが顔も上げずに言った。
鉄の首輪は、川を渡る前にすべて壊して捨てた。だが、肩や背に押された奴隷商の焼印は残る。触書には、その形まで描かれていた。
鉄は沈んだ。首の痕と焼印はついてきた。
「消せないなら、こっちの印に変える」
ミレアが炭筆を走らせた。焼印の線を黒い火皿へ取り込み、途切れた輪を二筋の炎へ変える。女神ヴェラの石像が掲げる灯火を簡略にした形だった。
「全員、同じ絵か」
「《ヴェラの灯火傭兵団》なら、灯火でいい」
カッシウスが図を横から見た。
「奴隷を見分ける印が、傭兵を見分ける団章になる。悪くない」
焼印のない自分の肩を、レトが押さえた。
「待て。俺まで入れるのか。俺は団員じゃなくて、ただの付き添いだぞ」
「図柄を統一するなら、全員に入れる」
「団章を入れてしまえば、団員になれる」
「順番がおかしいだろ!」
最初に針を受けたバルクは、背を固くしたまま動かなかった。次に肩を出したユーデが、その横顔を覗き込む。
「採石場の男が、針を怖がるのか」
「石の痛みは一度で済む。これは何度も来る」
バルクが真顔で答えたので、ユーデは笑って自分の肩を揺らした。ミレアが針を止める。
「次に動いたら、炎を三本にする」
ユーデはすぐ真顔になった。
焼印のないレト、ナザル、カッシウスも針の前へ座った。同じ痛みを引き受けたとき、灯火は偽装ではなくなった。
セヴァンの焼印も、同じ灯火へ変わった。リネアが首を傾げる。
「セヴァンの灯火だけ、豆みたい」
「全員、同じ図柄です」
「でも、セヴァンはいつも豆を数えてるから」
セヴァンは肩の灯火を見下ろし、反論を諦めた。
ノアが小さく笑った。首へ巻いていた布はもう外され、薄くなりかけた痕が朝の光に出ている。誰も隠せとは言わなかった。
ロウラの番になると、レトが寝床の脇へ腰を下ろした。
「何だ」
「肩を押さえる」
「いらねえ」
「じゃあ、針がずれて額に『奴隷』と彫られても文句を言うな」
「肩から額までどうやってずれる」
「お前ならありうるだろ」
否定しきれなかった。ロウラは右腕を庇い、黙って左手をレトの膝へ置いた。
針が古い焼け痕を囲んでいく。ちくり、ちくりと細い痛みが続いた。鎖を外した夜より静かで、だから逃げ場がない。けれど、ミレアの指は奴隷商人の手と違った。所有するためではなく、追う者の目から隠すために触れている。
焼印の線を呑み込み、黒い火皿と二筋の炎が浮かび上がった。バルクにも、ユーデにも、セヴァンにもある形だった。
「消えたか」
「消えてはいない」
ミレアは針を布で拭った。
「でも、最初に何があったかは、近くで見ても分からない」
ロウラはそれ以上訊かなかった。消えなくても、何のために背負う印かは選び直せる。その考えは、まだ自分のものにするには居心地が悪かった。
*
「ゲルバスが種麦を取りに来たら、偽の監査命令を突きつける。麦を返させたうえ、俺たちを本物の監察団だと思わせる」
昼過ぎ、ナザルはカッシウスの作った命令書を広げた。
古い公文書の文字を削り、空いた場所へ《王都会計院・臨時監査》と書き足してある。蜜蝋の印は欠けた部分までそれらしかった。
「村人を巻き込むな」
ロウラが言うと、ナザルは羊皮紙の端を押さえた。
「もう巻き込まれてる。お前が来るずっと前からな」
「だから騙していい理由にはならねえ」
「正直に頼めば、ゲルバスが種麦を返すと思うか?」
ナザルは笑っていたが、目には光がなかった。
「村人には計画を話す。騙すのはゲルバスだけだ。王都の監査が来たと思わせる。不正がばれるくらいなら、あいつは種麦を返す」
「そいつが嘘を信じなかったら」
「護衛隊長殿に睨んでもらう」
「立てねえぞ」
「座ったままでいい。怪我をしていても人を殴りそうな顔は、天からの贈り物だ」
「褒めてるのか」
カッシウスが印の乾きを確かめた。
「ナザルなりには」
セヴァンは人の配置を床へ描いた。オルバンたちは受領証を持って穀物庫前。村人六人は荷役人、バルクとユーデは車輪止めのそば。ロウラは納屋の戸口で負傷した護衛隊長を装う。
「あたしは何をすればいい」
「余計なことをしないでください」
セヴァンは床の豆を一つ、戸口へ置いた。
「それが一番難しい役目です」
「お前、言うようになったな」
「兵站上、必要なので」
ナザルが咳払いした。
「俺がゲルバスの注意を引く。カッシウスが帳簿を見る。護衛隊長は黙って睨む」
「殴るのは」
「監査項目にない」
*
ゲルバス・トーンは、正午を少し回ったころ、荷車三台と王国兵を連れてきた。
赤い縁取りの外套の胸に、拳ほどもある黒青銅の印璽が太い鎖で吊られていた。表には王国の獅子が浮き彫りにされ、歩くたび肋骨へ当たって鈍い音を立てる。村人たちはゲルバスの顔より先に、その獅子を見た。
ゲルバスが印璽を持ち上げる。鎖が鳴り、黒い獅子が徴税札の赤い蝋へ深く沈んだ。彼は獅子の紋を皆へ見せつけてから、文面を読み上げた。
「王国軍への臨時供出として、麦三十袋を引き渡せ」
声が井戸端へ落ちた途端、空気が重くなった。
胸を帯で締め上げられたように息が浅くなる。オルバンの口が動いたが、声にならない。袋の前に立つ村人たちも、喉を押さえたまま道を空けかけた。
「待ちなさい」
ナザルだけが歩み出た。
青ざめた顔には、役人を迎える穏やかな笑みが貼りついている。だが、長衣の裾が細かく震えていた。あの印璽から妙な圧力を感じる。樽を机にして座るカッシウスが、下からナザルの膝を片手で押さえた。
「王都会計院の臨時監査です。供出分を積む前に、帳簿を確認します」
「聞いておらん」
「抜き打ち監査を先に知らせたら、ただの訪問です」
ゲルバスは命令書を奪うように取り、印へ目を寄せた。隣の兵士が眉をひそめる。
「この番号は見覚えがない。印も浅い」
「ならば偽物だと?」
「疑問を述べただけだ」
「では王都へ同行し、証言してください」
ナザルは相手が返事をする前に、ゲルバスの荷車へ目を向けた。
「もちろん、前回の徴収量、受領証のない上乗せ分、横流し先も同時に調べます。疑いは一つずつでは不公平だ」
ゲルバスの親指が、胸元の黒い獅子を撫でた。
「街道監察ごときが、財務府の帳簿を――」
ゲルバスは印璽を握り直した。黒青銅の縁が掌へ食い込み、鎖がぴんと張る。
「監査を中止し、負傷者を含む一行の身分を検める。全員、その場を動くな」
声が頭蓋の内側から響いた。ロウラの左手が床板へ縫いつけられたように動かない。命令に従えば痛みが止まる。息ができる。身体が、そう訴えていた。
命令が正しいから苦しいのではない。苦しくして、正しいと思わせているだけだ。
ロウラは戸枠へ肩を押しつけ、上半身を起こした。
「帳簿を出せ」
大きな声ではなかった。立つこともできない女の一言に、村人が道を譲うのをやめた。ゲルバスは初めて、納屋の戸口をまともに見た。
「それが護衛隊長か」
「任務中に負傷しまして」
ナザルが答える。
「何の任務だ」
「守秘義務があります。王都でお尋ねを」
ナザルが、先ほどの言葉を返した。
「街道監察ごときで結構です。命令書が偽物だと言うなら、王都で証言してください。偽物なら罰を受けるのは私。本物なら、帳簿を見られて困るのはあなたです」
王都へ行く気のない二人が、しばらく見つめ合った。
オルバンが前へ出た。何も言わず、正規の受領証を一束、樽の上へ置く。続いて、種麦へつけられた札と、以前の徴収日を刻んだ木片を並べた。
ナザルが村長を見たのは一瞬だった。オルバンは皺だらけの顔を動かさない。
「帳簿を」
ゲルバスの声が掠れた。
カッシウスは差し出された表帳簿をめくり、底板の継ぎ目へ指を入れた。薄い裏帳簿が出てくる。記された袋数は、受領証より多い。
「湿気対策にしては、ずいぶん奥へしまったな」
「書記の誤りだ」
「便利な書記だ。銀貨まで書き間違えて隠している」
ゲルバスの顔から色が引いた。
一刻後、荷車の向きが変わった。種麦と過剰に取られた麦が、村の穀物庫へ戻される。兵士たちは互いに目を合わせたが、ゲルバスの不正まで庇う気はないらしい。
オルバンは《乾き石》を袋へ当てた。淡い白へ変わると、村人たちへ頷いた。
最後の袋が下ろされる間、ナザルはゲルバスの肩を抱き、口止めの条件を親切そうに囁いた。その手が離れたとき、ゲルバスの腰の小袋は消えていた。
*
「お前ら、金まで盗ったのか!」
納屋へ戻るなり、レトの声が梁を揺らした。
「監査手数料だ」
ナザルが小袋を放る。その横で、カッシウスは裏帳簿を懐へ入れ、さらに重そうな袋を寝藁の下へ置いた。
ナザルの笑みが止まる。
「お前も盗ったのか」
「人聞きが悪い。帳簿の保管料だ」
ナザルが手を差し出した。
「半分よこせ」
「お前の袋を半分よこしたら考える」
レトが二人の間へ割って入った。
「どっちも返せ!」
ロウラは肩の新しい灯火へ触れた。戸の向こうから、種麦を運ぶ声が聞こえる。
「これで終わったのか」
ロウラの問いに、カッシウスは首を横へ振った。
「三日は保つ」
「三日しか保たねえのかよ!」
「三日後には偽造がばれる。次は兵を増やす。たぶん、逃亡奴隷を追う猟犬も連れてくる」
ロウラは左脚へ力を込めた。踵は、床から指一本ぶんも上がらなかった。
残り三日だった。




