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第20話 猟犬の声

 ロウラは杖から手を離した。


 一歩目は進んだ。二歩目を出そうとしたとき、左脚から力が抜け、納屋の床が顔へ迫った。


 横からレトの腕が腹へ回る。脇腹の傷が引き攣り、ロウラは声を殺した。


「今のは一歩だ」


「半歩だ」


「右足は前へ出た」


「左足がついてきてない。半歩を一人で歩けるに数えるな!」


 レトに寝床へ戻されると、ネッサが《熱見の銀糸》を脇腹へ当てた。銀糸は赤みを帯び、細かく震えている。


「傷が怒ってる」


「傷は喋らねえ」


「患者が聞かないから、代わりに私が喋ってるの」


 偽の監査から九日が過ぎていた。何も起こらなかった三日目までがいちばん長く、四日目からは、村へ下りてくる蹄の音がすべて王国兵に聞こえた。


 それでも畑では麦が刈られ、水路には子どもの声が戻った。共同納屋の戸口へ野菜を置いていく者が増え、今朝はオルバンが、もう見張りは要らないと告げた。


「客人に村の番をさせていては、リュケの名が廃る」


 ナザルは立派な外套の背中に大きな継ぎ当てを揺らし、満足そうに頷いた。


「ようやく、監察団にふさわしい待遇になりました」


 オルバンは答えず、彼の裾を噛んでいる山羊だけを指さした。


 昼前、セヴァンが寝藁を干すため、ロウラの寝床を移そうとした。


「壁際と戸口、どちらがいいですか」


「どこでも――」


 答えかけて、ロウラは戸の下へ伸びる光を見た。窓のない納屋で、朝を知らせるのはいつもあの細い光だった。


「戸のそばがいい。朝が分かるから」


 セヴァンは何も言わず、敷布を戸口へ寄せた。リネアが白い前足をそろえて新しい寝床へ乗り、先に場所を確かめる。


「ここは風も入るよ」


「寒かったら、お前を載せる」


「ぼくは毛布じゃないよ」


 黒い翼が不満そうに一度だけ鳴った。


 この九日間で、共同納屋から人の気配が減っていた。


 セヴァンは日の出前に仕事を割り振り、バルクは水路の崩れた石を積み直した。ユーデは麦畑を荒らす鳥を追い、ミレアとティロは羊毛を選り分けた。ノアまで、村の子どもと薬草を運んで戻ってくる。


 最初は納屋を遠巻きにしていた女が、今ではレトに包帯の巻き方を訊く。老人はカッシウスと荷車の車軸を覗き込み、どちらも相手のやり方が悪いと言い張った。


 ロウラは、皆が出ていく背中と、戻ってくる背中を戸口から見ていた。


「あたしがいなくても、片づくな」


 帳簿へ食料の残りを書いていたカッシウスは、顔を上げなかった。


「お前が寝ているたびに世界が滅びたら、こっちが困る」


「そういう意味じゃねえ」


「なら、どういう意味か自分で考えろ。俺は忙しい」


 言い返せなかった。役に立てない自分にも、昨日と同じ豆の皿が配られた。誰も、その分を借りだとは言わなかった。


 その音に重なって、遠くで犬が吠えた。


 村の猟犬ではない。一頭が吠え、少し遅れて二頭、三頭と続く。谷の東側、林の向こうからだった。


 リネアが戸口を蹴って飛び立った。セヴァンはすぐに皆を呼び、ユーデは《風読みの羽根》を指へ載せる。銅の羽根は東を向き、震えた。


「風上だ。向こうは、まだこっちの匂いを拾ってない」


「まだ、か」


 カッシウスが裏帳簿を懐へ入れた。


 丘から下りてきたリネアは、扉をくぐる前に叫んだ。


「兵が六人。犬が三頭。赤い服の男もいる」


 ゲルバスだった。


 セヴァンは床へ豆を並べる代わりに、指で道筋を引いた。


「東から来るなら、西の丘を越えます。荷車一台、歩ける者は荷を分けてください。今出れば、林へ入る前に尾根を越えられる」


「村人は」


 ロウラが訊くと、オルバンが戸口に立っていた。


「知らぬと言う」


「納屋を見れば分かる」


「ならば、泊めた。働かせた。逃がした。全部わしの判断だ」


「あたしを置いていけ」


 納屋の動きが一瞬止まった。


「兵が欲しいのはあたしだ。ここにいれば、村の人間は脅されずに済む」


「お前一人差し出して、ほかの者が見逃される保証は?」


 カッシウスは荷紐を結びながら訊いた。


「ない」


「では却下だ」


 レトとセヴァンが担架の両端を持ち上げる。


「下ろせ」


「嫌だ」


「歩けば追いつかれる」


「だから運ぶんだよ」


 ロウラは担架の縁をつかんだ。降ろせと言えば、二人はまた言い返すだろう。力ずくで降りれば、きっと傷が開く。そうなれば、もっと多くの手を塞ぐ。


 指に力を込めたまま、二度目の「下ろせ」を呑み込んだ。


     *


 村の西口には、屋根の低い農業用荷車が用意されていた。荷台には麦パン、保存豆、傷薬と清潔な布が積まれている。


 オルバンはバルクへ古い槍と木盾を、ユーデへ短弓と投石紐を渡した。さらに封蝋を押した一通を、ミレアへ預ける。


「ヴァルネの織物商、ルキウス・ファルコへの紹介状だ。善人ではないが、働く者を値切る程度には公平だ」


「それは公平なのか」


 レトが訊いたが、オルバンは聞こえなかった顔をした。


 ネッサは荷台へ薬包を押し込み、ロウラの包帯をきつく結び直した。


「揺れて熱が出たら止まること。立とうとしないこと。傷を開いたら、今度は私がいないからね」


「分かった」


「信用できない返事」


 村人は別れの言葉を口にせず、荷車の周りで紐を締め、車輪へ油を差した。見送る姿を兵に見られれば、一行との関係を認めることになる。それでも、麦パンの袋はいつの間にか一つ増え、ノアの膝には木彫りの羊が載っていた。


 ロウラは礼を言おうとして、知っている言葉のどれも足りない気がした。結局、荷台から深く頭を下げた。ネッサだけが、早く行けと手を振った。


 ナザルが御者台へ上がろうとすると、村長が呼び止めた。


「街道監察団など、最初から来ておらん」


 ナザルの足が宙で止まった。


「いつから?」


「第三営の糧秣車が来た日からだ」


「二週間も、騙されたふりをしていたのか」


「お前が、何のために嘘をつく男か見ていた」


 猟犬の声が、さっきより近く聞こえた。オルバンは東の丘を見ずに続ける。


「偽物の役人のほうが、本物の役人より村の役に立った。それだけの話だ」


 ナザルは珍しく、すぐには言葉を返さなかった。


「本当の名は」


 問われて、彼は荷車にいる十人と一匹を振り返った。何人もの肩に、古い焼印を呑み込んだ同じ灯火がある。


「《ヴェラの灯火傭兵団》」


 今度は祠を見なかった。


     *


 荷車が西の丘を越えたとき、犬の声は谷の中へ入っていた。


 道はやがて、片側が岩壁、反対側が崖になった。二台は並べない。後ろから赤い外套が見え、ゲルバスの掠れた怒声が飛んでくる。


「止まれ! 王国の名を騙った盗賊どもだ!」


 兵が走り、犬を放つ。三本の綱が道を擦った。


「先へ」


 バルクは木盾を構え、道の中央へ立った。両足首の《根留めの鉄環》が低く鳴る。


「百数えたら来てください」


 セヴァンが言う。


「長い」


「五十で」


「分かった」


 ユーデも崖側の岩へ片膝をつき、《風読みの羽根》を唇の前に掲げた。銅の羽根が傾く。弦が鳴り、先頭の犬の綱を矢が地面へ縫い留めた。犬は首を引かれて横倒しになり、後ろの二頭ともつれた。


 兵の槍がバルクの盾へぶつかる。男の身体は揺れたが、足は土へ打ち込まれた杭のように退かない。前へ出られない代わりに、一人で道を塞ぐ。


 二本目の矢が、兵の足元で砕けた。三本目はゲルバスの外套を岩壁へ縫いつける。


「貴様!」


「赤はよく見える」


 ユーデが小声で返した。


 荷車が曲がり角へ入った瞬間、右の車輪が深い轍へ落ちた。馬が首を振り、車体が崖側へ傾く。ノアを抱えたミレアが荷台へ伏せ、積んだ豆の袋が一つ道へ転がった。


「右へ寄ってください!」


 セヴァンの声で、動ける者が一斉に山側へ体重を移す。レトはロウラの肩を押さえ、ナザルとカッシウスが車輪へ手を掛けた。


 ロウラの左手なら、車体を持ち上げられるかもしれない。荷台から降りさえすれば。


 身体を起こすより先に、ティロが落ちた豆袋を車輪の後ろへ噛ませた。セヴァンが馬を引き、皆が押す。車輪は土を削って轍を抜けた。


 誰もロウラを呼ばなかった。呼ばれないことが、前ほど痛くなかった。


 荷車の上で、ロウラは身を起こした。戻れば戦えると思ったわけではない。ただ、二人だけを残して進むことに身体が耐えなかった。


 左脚を荷台から下ろした瞬間、脇腹の奥が裂けた。視界が白くなり、レトに肩を押し戻される。


「今のお前が戻ったら、守る相手が一人増える」


「二人が――」


「戻ってくる。戻れなくするのは、お前だ」


 ひどい言い方だった。正しかった。


 ロウラは荷台の縁を握ったまま、足を戻した。


 五十を数える前に、細身の影が道を駆けてきた。続いて木盾を背負った大男が走る。バルクが荷台へ手をかけ、ユーデが後ろを振り返る。


「外套を脱げば追えるぞ」


「あの男、金袋より外套を惜しみそうだ」


 ナザルが馬へ鞭を入れた。


 車輪が石を跳ね、荷車はヴァルネへ続く坂を下った。


     *


 日が山の端へ触れるころ、道端に自治領の境石が立っていた。


 背後の尾根で、赤い外套が止まった。ここから先へ兵を入れ、正式に調べられれば、ゲルバス自身の帳簿まで開かれる。彼は掠れた声で何か叫んだが、もう言葉までは届かなかった。


 前方の丘を越えた荷車の上で、ノアが立ち上がった。


「壁だ」


 夕闇の向こうに、ヴァルネの城壁が伸びていた。ロウラには、闘技場の外壁より高く見えた。


 助かった、と誰かが言いかけた。


 その目の前で、最後の入城者を通した二枚の門扉が動き始めた。角笛が鳴り、分厚い木と鉄が、門の光を細くしていく。


 荷車はまだ坂の途中だった。


 ヴァルネの門が、閉じた。

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