第21話 門外の夜
閉じた門の前で、ナザルは両腕を広げた。
「怪我人がいるんです。ほんの少し開けていただければ、あとは身体を横にしてでも通ります」
城壁の上から、松明に照らされた兵が答えた。
「日没後は、王妹殿下でも門外だ」
「私たちは殿下より細いですよ」
「そういう決まりではない」
ヴァルネの東門は、近くで見るとさらに大きかった。鉄帯を渡した門扉の奥には、もう一つ門が見える。城壁の旗には、白い石門と三本の波が描かれていた。
自由の町へ着いたはずなのに、門は開かなかった。
「病人はどこだ」
兵に訊かれ、レトが荷車のロウラを指した。
「脇腹の傷を縫ってある。熱は傷のせいだ。他人に伝染らない」
「お前が医者か?」
「葬儀屋だ」
「手遅れってことか?」
「まだ客にする気はねえよ!」
レトが怒鳴ると、門兵は笑いながら城壁の南側を指した。門外には腰ほどの石壁に囲まれた待避所があり、屋根の下には先客の荷車が三台停まっていた。井戸と馬の水桶、旅行者用の炉まであるという。
門は開けない。だが、夜を越す場所は用意されていた。
オルバンの紹介状だけは、城壁から下ろされた革袋へ入れた。受取人が市内にいれば、夜番の伝令が届けるらしい。
「ルキウス・ファルコさん。織物商です」
ミレアが念を押すと、門兵は封蝋の宛名を確かめた。
「返事があれば朝までに門へ回す」
革袋が綱に引かれて上がっていく。あの薄い一通だけが、十人と一匹より先に壁を越えた。
*
待避所の屋根は半分しかなく、炉の煙は残り半分へ流れた。
セヴァンは荷車を風上へ寄せ、夜番を割り振った。ミレアはノアを毛布へ包み、ティロは馬へ水を飲ませる。カッシウスは足りない豆袋一つを帳面へ書き込んだ。
「門の外でも金を取るんだな」
レトが、炉の使用料として渡した銅貨を見て言う。
「無料の自由なんて、いちばん信用ならない」
カッシウスは帳面を閉じた。
「金を取るだけ正直だよ」
ロウラは荷台から城壁を見上げた。門の向こうでは荷車が軋み、人が笑っている。壁一枚を隔てたところで、誰かが夕飯を食べ、眠る支度をしていた。
「門を越えたら自由だって話だったよな」
「噂はいつも、面倒なところを省くんだ」
ナザルが炉のそばで濡れた靴を乾かしながら答えた。
「『門を越え、保証人を探し、仕事を得て、役所で何枚か書類を出せば自由になれる』では、誰も覚えてくれない」
「お前なら覚えやすく言えるだろ」
「もちろん。銅貨一枚で考えてやる」
ロウラが小石を投げると、ナザルは片手で受けた。
「元気じゃねえか、病人」
戻ってきたリネアが、荷車の縁へ降りた。黒い翼の先が冷たい夜気に震えている。
「上から見た。門の中にも、もう一つ門があるよ」
「二つも閉めるのか」
「きみが壊さないようにじゃない?」
「あたしは門を壊したことねえぞ」
レトが横から口を挟む。
「闘技場なら壊した」
「あれは床だ」
「上に建物が載ってたんだよ」
笑い声が途切れたあと、ロウラはもう一度、閉じた門を見た。
ゲルバスたちは自治領の境石で止まった。だが、諦めたとは限らない。明日、身元を調べられて門前から追い返されれば、また街道へ戻ることになる。
今夜眠る場所があるだけで、まだ自由になったわけではなかった。
*
夜明けの角笛とともに、東門の前へ列ができた。
野菜を積んだ農民、羊を連れた親子、樽を満載した荷車が並ぶ。門扉が開いても、一組ずつ外門と内門の間へ入り、荷と武器と名前を調べられた。
「次。昨夜の十人と猫」
門衛隊長オルシオ・ベランは、ロウラの荷車を見ても顔色を変えなかった。隣では、栗色の髪を束ねた登録官が書類を広げている。
オルシオは、袖口や襟から覗く同じ灯火の彫り物へ目を留めた。古い火傷を囲む線まで見ただろうが、奴隷の焼印とは口にしなかった。
「その印は?」
「傭兵団の団章です」
セヴァンが答える。
「登録証は」
「これから取ります」
「では今は、自称傭兵団だな」
「自称するところまでは、誰の許可も要らないので」
ナザルが胸を張ると、オルシオは団章の欄へ《未登録》と書かせた。それ以上は追及しなかった。
「市民登録官のリキア・モルナです。紹介状はファルコ商会へ届いています。返事は、職人二名の技量を見たうえで話を聞く、と」
「まあ、仕方ねえか」
カッシウスが呟いた。
「では、名前と入市目的を一人ずつ。虚偽が判明した場合、仮入市は取り消します」
リキアが筆先を整える横で、ナザルは小声になった。
「全員、偽名で入るぞ。ロウラはロラ。レトはレット。セヴァンはセヴ――」
「偽名より先に、命名の才能がない」
カッシウスが遮った。
だが、リキアには聞こえていた。
「仮入市票の名前は、滞在登録と傭兵団登録へ引き継ぎます。違う名を使えば、後から本名を名乗っても同じ人物だと証明できません。その偽名で結んだ契約も、受け取る報酬も、あなたのものではなくなります」
「報酬を受け取ってから訂正すればいい」
「その前に、虚偽登録で拘束します」
ナザルはしばらく考えた。
「自由の町を名乗る割に、嘘には厳しいな」
「嘘をつく自由まで認めたら、契約書が紙くずになります」
「お前の天敵だな、ナザル」
「役所はだいたい俺の天敵だ」
セヴァンから順に名前が記された。武器を持つ者は、種類と本数も申告した。
バルクとユーデの槍や弓について、オルシオが「持ち主は」と訊いた。二人がオルバンの名を答えると、紹介状の末尾に貸与品として記されているのを確かめる。盗品ではないと確認できたため、そのまま市内へ持ち込むことを許された。
「次。この猫は荷物でいいですか」
リキアが訊くと、リネアの翼が大きく開いた。
「よくない。ぼくは自分で飛んできた」
オルシオの顎髭が動いた。
「喋るのか」
「さっきから喋ってるよ」
「家畜でもないな」
「猫だけど、誰の荷物でもないよ」
リキアは筆を止め、書式の端から端まで見直した。
「前例がありません。ひとまず同行者欄に。《黒い翼猫、言語を解する》」
「名前もある。リネア」
「リネア。入市の意思は?」
「ある。門の中の魚を見たい」
「目的は見聞、としておきます」
「魚だってば」
*
最後に、リキアの視線が荷車の上へ向いた。
「あなたの名前は?」
ナザルがロウラの耳元へ顔を寄せた。
「まだ間に合う。今度は、もう少しましな偽名を考える」
「さっきの続きなら要らねえ」
「ロウとか、ラーラとか」
「悪くなってるぞ」
ロウラはリキアへ向き直った。境石の向こうではゲルバスが待っているかもしれない。偽名なら、追手の目を一度は逸らせる。ここで告げた名は紙に残る。
「一度書いた名前は、消せるのか」
「訂正はできます。ただし、最初に届け出た名前も記録に残ります」
ロウラは身体を起こした。脇腹が引き攣ったが、レトの手を借りずに荷台の縁へ背を預ける。
「だったら、最初からあたしの名でいい」
「ロウラ」
「家名は?」
「ない。ロウラだけだ」
リキアの筆が紙の上を走った。短い音が止まり、今度は細い筆とインク壺が差し出される。
「ここへ署名を」
ロウラは筆を受け取った。
細すぎた。どう持つのか分からず、拳の中へ柄を握り込む。穂先から落ちた黒い雫が、紙に丸い染みを作った。
誰も笑わなかった。それがかえって苦しかった。
「書けねえ」
声にすると、武器を持っていないことより裸に近い気がした。
リキアは筆を取り戻し、汚れた紙を脇へ置いた。
「では代筆と拇印です。その前に、記載内容を読み上げます」
名前、同行者、武器、入市目的。十日間の仮滞在であり、市民権ではないこと。市法に従うこと。期限内に滞在登録を申請しなければ、退去を命じられること。
リキアは一行ずつ読み、ロウラが分かったと言うまで次へ進まなかった。
「これが、あなたの名前です」
紙の下を指で示される。そこには、意味の分からない三つの形が並んでいた。リキアが正しく書いたか、ロウラには確かめられない。
拳なら、相手が嘘をついているかどうかとは関係なく振るえる。文字の前では、誰かを信じるしかなかった。
ロウラは赤い印泥へ右手の親指を押しつけた。
「ここか」
「はい。《ロウラ》の横へ」
紙に指を押す。離すと、渦を巻いた指の跡が残った。
「これで、この名をあなたが届け出たと記録されます」
リキアは十人分の木札へ公印を押した。最後に、小さな札をもう一枚取り出し、《リネア》の文字の下へ仮の印を入れる。
「十日間の仮入市票です。失くさないでください」
内門が開いた。
朝日に照らされた白銅通りの先で、人と荷車が行き交っていた。誰もロウラたちを待っていない。誰も歓迎の声を上げない。それでも門衛は道を塞がず、ロウラの名が書かれた紙は破られなかった。
荷車が石門をくぐる。
その人混みの端で、灰色の上着を着た男が足を止めた。
男の目はロウラではなく、荷車の縁で翼を畳むリネアを追っていた。懐から小さな帳面を出し、門の記録所を見上げる。
「黒い翼の猫……」
男は一行が白銅通りへ消えるのを待ち、王国公認奴隷商人マニウス・カルドの商館へ向かった。




