第22話 値切る善人
「十人と猫一匹? オルバンは紹介状と荷車の積み荷目録を間違えたのか」
ルキウス・ファルコは、荷車を一周してから封書を開いた。
染め川横丁には、濡れた羊毛と灰汁の匂いがこもっていた。水路の両側に工房が並び、軒下では赤や黄の布が朝風をはらんでいる。ファルコは上等な外衣を着ていたが、爪の間には紫の染料が残っていた。
「間違いではありません」
セヴァンが答えると、ファルコは紹介状へ目を落とした。
「なお悪い。あの爺め、俺への昔の貸しを、十人分まとめて返させる気だな」
「何を借りたんだ?」
レトが訊く。
「返していないから借りだ。返したら昔話になる」
「中身を聞いてる」
「商売人が、値段のつく話をただですると思うか」
ファルコは封書を畳み、指で弾いた。
「保証人にはならん。十人まとめて面倒も見ない。空いている染料倉庫なら十日だけ貸す。寝藁と水は自分たちで用意しろ」
「紹介状があってもか」
ナザルが訊くと、ファルコは紙を彼の胸へ押し返した。
「これは、お前たちの話を聞けと書いた紙だ。借金も喧嘩も私が引き受けるとは書いてない。保証人とは、口だけで善人を名乗る仕事ではない」
「俺たちは借金を踏み倒さない」
「昨日入った十人全員について、お前がそう証明できるのか」
ナザルが一行を見回した。
「一人、少し怪しいのがいる」
「お前のことだな」
レトが言う。
「異論はない」
カッシウスも続けた。
ファルコは笑わず、一人ずつの仮入市票を確認した。リネアの小さな木札で眉を寄せたが、荷物の数には入れなかった。
「倉庫を貸す相手は十人と一匹ではない。名を届け出た十人と、よく分からん同行者一名だ。何か壊した者が自分で払え」
闘技場では、誰か一人が失敗すれば房の全員が罰を受けた。ファルコの言い方は冷たかったが、ロウラにはその冷たさが妙に耳へ残った。
「賃料は?」
カッシウスが間を置かず訊いた。
「一日、銅貨二枚」
「屋根と壁しかない倉庫に?」
「床もある」
「床へ金を払うのは初めてだ」
「では外で寝ろ。地面は無料だ」
カッシウスとファルコが見つめ合った。ナザルが口を挟もうとしたが、セヴァンに外套の裾を引かれて止まった。
「まず職人を見てからです」
ファルコはミレアとティロを顎で示した。
*
工房の奥には、色の抜けた布が一反、作業台へ投げ出されていた。濃い赤に染めるはずが、中央だけ薄く、端には黒い斑点が浮いている。
「これを売れる布にしろ。できるなら雇う」
ミレアは布を裏返し、端を水へ浸した。指先で揉み、匂いを嗅ぐ。
「染め汁より先に、灰汁へ浸した時間が違います。薄いところを濃くするだけだと、黒い斑点がもっと目立つ」
「では捨てるか」
「模様にします。斑点の位置へ濃い色を重ねれば、失敗ではなくなる」
ミレアは金属の指貫をはめ、布地の上を滑らせた。織り目が乱れた場所で指貫が止まる。そこへ細い糸で印をつけ、黒い斑点と結ぶように線を引いた。
「染め直す前に、ここを繕います。弱った糸へ色を重ねたら、売ったあとで裂ける」
「染めの腕を見ると言った」
「裂ける布へ綺麗な色をつけても、返品されるだけです」
ファルコは返事をせず、新しい糸を作業台へ置いた。試す目から、働かせる目に変わっていた。
ティロが乳白色の小石を取り出した。
「《染まり石》です。染め汁へ入れると、布が乾いたあとの色になるので、二度目をどの濃さにすればいいか、乾くまで待たずに――」
「やれ」
「はい。まず赤へ少し黒を入れて、でも黒が強いと古い血みたいに見えるから葡萄の皮を煮た汁で紫へ寄せて、織り目の向きに沿って――」
ミレアが弟の後頭部を軽く叩いた。
「口より手を動かしなさい」
「説明も技術のうちだよ」
「あなたは説明してると日が暮れるの」
「その石があれば、誰でも同じ色を出せるのか」
ファルコが訊く。
「まさか。石が教えるのは乾いたあとの色だけです。染め汁の温度、布を入れる順番、どこで引き上げるかは――」
「その話はあと。日が暮れるわよ」
ミレアに言われ、ティロは口を閉じた。手元は一度も止まっていなかった。
二人は浅い鉢へ染め汁を作り、石を浸した。白かった石が暗い葡萄色へ変わる。ティロは色を見て灰を足し、ミレアは布の斑点へ蔓のような線を引いた。失敗した染めむらが、葉と実の模様へ隠れていく。
ファルコは黙って端から端まで眺めた。
「売れる」
ティロの顔が明るくなる。
「雇ってもらえますか」
「二人で日当、銅貨九枚」
「安いですね」
セヴァンの返事が早かった。
「昼の豆粥をつける」
「二人で十二枚。昼食は別です」
「十枚。粥は薄くする」
「十二枚。粥へ豆を入れてください」
「粥と呼ぶ以上、二粒は入れる」
「一人二粒ですか」
「鍋にだ」
ティロが指を折り始めた。ミレアがその手を下ろさせる。
「交渉中に豆を数えないの」
セヴァンは一歩も引かなかった。
「二人が直した布を、あなたはいくらで売りますか」
「それを言う商人はいない」
「では、十二枚でも利益は残る」
ファルコの口元が初めて少し曲がった。
「オルバンは、とんだ値切り屋を寄越したな」
「兵站係です」
「食費を預かる者は、値切れなければ務まらんか。十枚、豆は一人二粒。倉庫代は二枚のままだ。これ以上なら別の職人を探す」
セヴァンはカッシウスを見た。カッシウスが小さく頷く。
「その条件で」
ファルコはミレアとティロへ向き直った。
「契約するのは、この二人だ。ほかの者の働きで賃金を差し引いたり、二人を逃げられなくしたりはしない」
「随分と親切だな」
レトが言うと、ファルコは鼻を鳴らした。
「人は買わん。仕事なら安く買う」
その言葉のあと、ファルコは残りの者にも、できることを一人ずつ訊いた。
「人を殴れる」
ロウラが答えると、ファルコは首を振った。
「客を減らす仕事に賃金は出さん」
「荷物も運べる」
「今のお前は、自分を運ぶ人間が二人要る」
「一人で歩ける」
「半歩な」
レトが横から足した。ロウラは睨んだが、訂正できなかった。
バルクは石積みと荷運び、ユーデは弓と畑仕事、セヴァンは人数と食料の管理を挙げた。ファルコは三人へ、三波港の河運組合へ持っていく紹介札を渡した。明朝、荷役の口があるという。
カッシウスは帳簿付けを申し出たが、「初日に帳場へ入れるほど善人ではない」と断られた。子どものノアには、仕事を訊きもしなかった。
「死体なら扱える」
レトが言う。
「生きている客の前で売り込む仕事ではないな。必要になったら呼ぶ」
「呼ばれない方がいい」
ナザルが「交渉なら俺も働ける」と売り込むと、ファルコは彼の外套の大きな継ぎ当てを見た。
「まず、自分の服に信用を持たせろ」
「これは慎ましさを表している」
「貧しさしか伝わってこん」
*
借りた倉庫は、工房から水路を挟んだ向かいにあった。石床には青い染みが広がり、空の桶が壁際へ積まれている。屋根の明かり取り窓から、細い陽が落ちていた。
ミレアとティロには、仕事と一日十枚の賃金が決まった。バルクたちには、明日の働き口がある。カッシウスは倉庫代と食費を帳面へ書き、ナザルはファルコへ自分を売り込む言葉をまだ探していた。
ロウラに決まったのは、椅子の置き場所だけだった。
セヴァンたちが荷を運び込むなか、ロウラは椅子から立った。
「何をする気だ」
レトに訊かれ、近くの布包みへ手を伸ばす。
「働く。運ぶ物ならあるだろ」
「荷物は足りてる。お前は座ってろ」
「あたしだけ食って寝てろってのか」
「傷が閉じるまでな」
「閉じたら働く。だから今、どこまでできるか見てる」
「傷は試すたびに最初へ戻るんだよ」
布包みを持ち上げる。重さはなかった。けれど腰を伸ばしたところで脇腹の奥が引かれ、息が止まった。指が開き、包みが石床へ落ちる。
ティロが駆け寄り、布に染料がついていないかを先に確かめた。
「身体より布かよ」
「身体はレトが見る。布はぼくが見る」
ティロは包みを拾うと、ロウラの椅子の背へ両手を掛けた。床石を靴で蹴り、椅子ごと作業場の隅へ押していく。
「おい」
「そこなら荷物が落ちてこない。立ったら姉ちゃんを呼ぶ」
「あたしより怖いのか」
「針を持ってる姉ちゃんと、立つだけで倒れる人なら、迷わないよ」
ミレアは聞こえていたが、否定しなかった。
ロウラは椅子の座面をつかんだ。立ち直そうと思えば立てる。今度は包みを運べるかもしれない。そのたび誰かの手を止め、傷が開けば、賃金を得る二人の仕事まで遅らせる。
皆が荷を運び終えるまで、尻を上げなかった。
*
「雨漏りが三か所あるよ!」
屋根を調べていたリネアの声がした。
黒い翼が明かり取り窓から入る。梁へ降りようとして、積んだ桶の縁へ後ろ足をぶつけた。桶が傾き、リネアは翼を広げたまま、青い染め汁へ足から落ちた。
ティロが両脇を抱えて引き上げる。黒い身体は変わらない。白かった四本の足先だけが、鮮やかな青になっていた。
「魚はいなかった」
リネアは床へ青い足跡をつけながら言った。
「将来、工房を持ったら、戸をこの色にしよう」
ティロが濡れた前足を眺める。
「その前に、家賃を払えるくらい稼ぎなさい」
ミレアは弟へ布を投げ、リネアを拭かせた。
笑いが収まるころ、ファルコが入口の柱へ紙を貼った。十個の丸を描き、最初の一つを墨で塗り潰す。
「仮入市の一日目だ。毎朝、一つずつ黒くする」
ロウラは椅子に座ったまま、その印を見た。文字は読めなくても、丸なら数えられる。
「全部が黒くなる前に、滞在登録と傭兵団登録を終えろ。間に合わなければ仮入市票は失効する。私は倉庫の借り手を、その日のうちに外へ出す」
柱には、白い丸が九つ残っていた。




