第23話 名前のない十日
「読めねえ紙には、指を押さねえ」
ロウラが右の親指を引っ込めると、登録官リキア・モルナの筆が止まった。
染料倉庫の柱では、朝一番にファルコが二つ目の丸を黒くしていた。残りは八日。その一日を手続きに使うため、十人と一匹は白銅通りの登録所まで来た。ロウラだけは小さな荷車の上だ。歩くと言い張ったが、倉庫の戸口から水路までで脇腹が痛み、レトに荷物と一緒に載せられた。
細長い部屋には三つの窓口があり、壁際の長椅子まで人で埋まっていた。ロウラの前には、すでに二枚の書類が重ねられている。
「いま読み上げたのは就労状況の申告です」
「最初から、もう一度だ」
「三度目です」
「三度読んだら、違うことが書いてある紙に変わるのか?」
「変わりません」
「なら、もう一度読め」
後ろで待つ男が舌打ちした。リキアは男へ番号札を見せて黙らせ、最初の行へ筆先を戻した。
同じ言葉を聞いても、それが紙と同じか、ロウラには分からない。読み手が一行飛ばしても気づけない。嫌になるほど読ませるのが、ロウラにできる用心だった。
だが、読み上げは就労先の欄で止まった。ミレアとティロにはファルコの札があり、ノアは保護児として申請する。残る七人は傭兵団へ入る予定だが、そのうち港仕事に就く三人の就労札がまだなかった。
「先に三波港で、河運組合の就労札を受けてください」
「先に言え」
「一度目に言いました」
「聞いてねえ」
「読めと言いながら聞かないのはやめろ」
レトに荷車の向きを変えられ、一行は白銅通りを南へ戻った。
三波港には、河船が腹を並べるように泊まっていた。荷揚げ台では麻袋が肩から肩へ渡り、濡れた綱と魚と穀物の匂いが風に混じる。水門の向こうには大河が光り、市壁の内側だけで町が終わっていないことが見て取れた。
組合小屋の前で、日に焼けた女がセヴァンの差し出した紹介札を読んだ。河運組合を預かるメルカというらしい。バルクの肩幅とユーデの手のまめを見て、二人を荷役へ、セヴァンを荷数の記録係へ振り分けた。
「賃金は働いた本人へ払う。代表者にも、仲間にも渡さない。それでいいね」
「はい」
「返事が早い。前に揉めたことがある顔だ」
「顔に出ていますか」
「港じゃ、賃金日にだけ家族が増える」
メルカは三人の名を就労札へ書き、公印を押した。バルクが受け取ろうとすると、まだ印泥が乾いていない。
「触るんじゃないよ。あんたの指なら、仕事が決まった日に名前が潰れる」
バルクは両手を背中へ回した。リネアが代わりに札を覗き込み、青く染まった前足を机にかける。
「猫も触るんじゃない」
「ぼくは荷役しないよ」
「見れば分かる。荷を青くされちゃたまらない」
乾いた札を持って登録所へ戻ると、先ほど舌打ちした男はもういなかった。代わりに待つ者が二人増えていた。
リキアは最初から読み直した。就労先のない者は、傭兵団として登録するなら団の契約で生活費を得ること。登録には成人五名以上、責任者、就労先、携行する武器の所有または貸与証明が要ること。
「成人は足りています。ファルコ商会と河運組合の就労札もある。オルバン・ケストの紹介状には武器の貸与が記されています」
リキアは空いた欄を順に示した。
「残るのは団の責任者と、各人の滞在資格です。まず、以前の所属か所有者名を」
室内の音が、遠くなった。
「ない」
「分からないのですか」
「書かねえ」
リキアの隣にいたダレスが、書類をこちらへ引いた。粗い作業着の袖を肘までまくり、爪の間に墨を入れた男だった。ロウラの顔ではなく、空欄を見ている。
「ここは、昔の持ち主へ返すための欄じゃない。外から所有を申し立てる者が出たとき、照合するためだ」
「名前を聞かれたから、あたしの名を言った」
「それは記録してある」
「今の名前だけじゃ足りないのか」
ダレスはすぐに答えなかった。順番を待つ者たちの視線が、荷車の上へ集まる。
「お前を呼ぶには足りる。お前を自分の物だと言う奴を退けるには、ほかの記録も要る」
「そいつに証明させろ。あたしじゃなく」
「させる。そのためにも、空欄の意味を記録へ残す」
ダレスは勝手に埋めず、《回答を拒否》とリキアへ書かせた。ロウラには読めない。だから、その言葉も読み上げさせた。
朱肉がまた差し出されたが、ロウラはまだ親指をつけなかった。
「今日、決まらなかったところは?」
「保留です。空欄を同意済みとして扱いません。この拇印は申請を受け付けた印で、登録が終わった印ではありません」
そこまで聞いてから、赤い泥へ指を沈めた。紙に残った指紋は昨日と同じ形をしていた。書かれた内容を読めなくても、押すか押さないかだけは、まだロウラのものだった。
次に止まったのは、リネアの欄だった。
「家畜ではありません」
リキアが先に消す。
「言葉を解するなら、使い魔の登録例があります。主人はロウラですか」
「主人じゃない。ロウラだよ」
「あたしも、こいつを飼ってねえ」
「では、傭兵団の団員に」
「成年者として数えられるのか?」
カッシウスが訊くと、リキアは規則集をめくった。猫の年を人の成人へ直す決まりは見つからない。
「家畜、使い魔、団員。どれかに決めないと書類が作れません」
リネアは机へ飛び乗り、書類の両脇へ前足を置いた。青い肉球の跡が二つつく。
「ぼくのことを、ぼく抜きで決めるの?」
リキアが口を閉じた。
ダレスは青い足跡を指で囲み、余白へ何かを書き足した。
「本人の意思を確認するまで保留。今日は同行者のままだ」
「ぼくは、ぼくだよ」
「その欄がない。だが、ないから誰かの物にしていいとも書いていない」
リネアはしばらくダレスを見たあと、もう一つ足跡をつけた。
「増やすな。何の印か分からなくなる」
団の責任者欄も空白のまま、書類は《申請中》の束へ置かれた。
*
武器検査は、入ってきた東大門の内側で行われた。
外門と内門の間は高い石壁に囲まれ、荷車を数台入れれば身動きが取れなくなる。頭上には射撃孔が並び、内門の手前には落とし格子が上がっていた。床の隅に四角い鉄蓋があり、その下から鎖を巻く音が響いている。
外門が閉じなければ内門は開かない。昨日の朝に通ったときは人の列しか見えなかったが、いまは敵をこの狭い石囲いへ閉じ込めるための造りだと分かる。壁の上には、石や砂を落とす穴まで口を開けていた。
石粉を髭につけたグラウコが、小さな槌で門柱を叩いていた。場所によって音が違う。低く濁ったところへ白い印をつけ、検査役へ「ここへ荷車を寄せるな」と告げた。
バルクの槍とユーデの弓は、オルバンの貸与品として通った。カッシウスの大鎌には、検査役が長い時間をかけた。
「農具か?」
「畑へ持っていけばな」
「持っていく予定は」
「ない」
「武器だ」
レトの黒いナイフも机へ置かれた。
「葬具だ」
「人へ向けたことは」
「生きてる奴には、なるべくない」
「武器だ」
ロウラの番になると、検査役は空の両手を見た。
「武器なし」
「こいつの場合、その書き方で合ってるのか?」
レトが言った。
「拳を門で預かれるなら、預かってみろ」
ロウラが片手を差し出すと、検査役は見なかったことにした。
その間に、リネアは鉄蓋の横にある点検孔へ頭を入れていた。翼を畳み、前足で奥へ進もうとする。
「やめろ。そこで詰まったら、格子を下ろせん」
グラウコが後ろ足をつかんで引き戻した。
「ひげが通れば猫は通れるよ」
「お前には翼があるだろうが」
孔の先には、地下の機構室へ降りる石段が見えた。太い鎖が壁沿いを走り、巻き上げ軸へつながっている。グラウコはリネアを床へ下ろすと、点検孔を板で塞いだ。
「門より先に猫対策が要るな」
*
登録所へ戻る途中、ロウラは白銅通りの告示板で足を止めさせた。
一枚だけ、新しい紙が貼られていた。太い見出しの下に、人の横顔が描かれている。傷の位置も、髪の形も似ていた。
「読め」
レトが動かなかった。
「そこに書いてあることを、全部だ」
レトは紙へ近づいた。
「剣闘士ディオン。ルクサリア闘技場の集団逃走を扇動。逃走中に負った傷により死亡。遺体は回収されず。生存を前提とした懸賞金を取り消す」
ロウラは荷車から下りた。レトが腕を出したが、つかまなかった。片足ずつ進み、告示板の前へ立つ。
最後に見たディオンの指は冷たかった。握れと言うと、長い間を置いて、人差し指がロウラの指へ引っ掛かった。
返事だったのか、ただ動いただけなのか。確かめないまま、ロウラは先に川を渡った。
ディオンは、人の名を忘れなかった。闘技場で一度しか組まなかった新入りも、厨房から水を運んだ子どもも、次に会えば名で呼んだ。死んだ者の寝台へ別の奴隷が入っても、前にそこへ寝ていた者の名を口にした。そんな男の最後が、誰が見たとも書かれていない一行で決められている。
「あたしが、次はあんたが来いって言ったんだ」
紙の端が風で浮いた。手を上げれば破れた。けれど、これを剥がしても、別の町には同じ紙が貼られている。破れば、ディオンの名まで一緒に消える気がした。
ロウラは浮いた端を、指で板へ押し戻した。
リネアが隣へ座った。青い前足を揃え、何も言わず、同じ紙を見上げている。
通りを荷車が二台過ぎた。鐘が鳴り、店の呼び声が重なった。ディオンが死んだと書かれた町で、誰も足を止めなかった。
どれほど立っていたか分からない。
登録所の戸口から、リキアに呼ばれた。
「ロウラ。同行者全員に関わる書類が届きました」
振り返ると、リキアは赤い封蝋のついた申立書を抱えていた。
「あなたたちを財産として引き渡すよう、所有権の申立てが出ています」
ロウラは告示板から手を離した。
告示板の紙は、ディオンを死者にした。リキアの抱えた紙は、十一の名を持ち物の一覧へ変えようとしていた。
「誰が出した」
「王国公認奴隷商人、マニウス・カルドです」




