↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
23/63

第23話 名前のない十日

「読めねえ紙には、指を押さねえ」


 ロウラが右の親指を引っ込めると、登録官リキア・モルナの筆が止まった。


 染料倉庫の柱では、朝一番にファルコが二つ目の丸を黒くしていた。残りは八日。その一日を手続きに使うため、十人と一匹は白銅通りの登録所まで来た。ロウラだけは小さな荷車の上だ。歩くと言い張ったが、倉庫の戸口から水路までで脇腹が痛み、レトに荷物と一緒に載せられた。


 細長い部屋には三つの窓口があり、壁際の長椅子まで人で埋まっていた。ロウラの前には、すでに二枚の書類が重ねられている。


「いま読み上げたのは就労状況の申告です」


「最初から、もう一度だ」


「三度目です」


「三度読んだら、違うことが書いてある紙に変わるのか?」


「変わりません」


「なら、もう一度読め」


 後ろで待つ男が舌打ちした。リキアは男へ番号札を見せて黙らせ、最初の行へ筆先を戻した。


 同じ言葉を聞いても、それが紙と同じか、ロウラには分からない。読み手が一行飛ばしても気づけない。嫌になるほど読ませるのが、ロウラにできる用心だった。


 だが、読み上げは就労先の欄で止まった。ミレアとティロにはファルコの札があり、ノアは保護児として申請する。残る七人は傭兵団へ入る予定だが、そのうち港仕事に就く三人の就労札がまだなかった。


「先に三波港で、河運組合の就労札を受けてください」


「先に言え」


「一度目に言いました」


「聞いてねえ」


「読めと言いながら聞かないのはやめろ」


 レトに荷車の向きを変えられ、一行は白銅通りを南へ戻った。


 三波港には、河船が腹を並べるように泊まっていた。荷揚げ台では麻袋が肩から肩へ渡り、濡れた綱と魚と穀物の匂いが風に混じる。水門の向こうには大河が光り、市壁の内側だけで町が終わっていないことが見て取れた。


 組合小屋の前で、日に焼けた女がセヴァンの差し出した紹介札を読んだ。河運組合を預かるメルカというらしい。バルクの肩幅とユーデの手のまめを見て、二人を荷役へ、セヴァンを荷数の記録係へ振り分けた。


「賃金は働いた本人へ払う。代表者にも、仲間にも渡さない。それでいいね」


「はい」


「返事が早い。前に揉めたことがある顔だ」


「顔に出ていますか」


「港じゃ、賃金日にだけ家族が増える」


 メルカは三人の名を就労札へ書き、公印を押した。バルクが受け取ろうとすると、まだ印泥が乾いていない。


「触るんじゃないよ。あんたの指なら、仕事が決まった日に名前が潰れる」


 バルクは両手を背中へ回した。リネアが代わりに札を覗き込み、青く染まった前足を机にかける。


「猫も触るんじゃない」


「ぼくは荷役しないよ」


「見れば分かる。荷を青くされちゃたまらない」


 乾いた札を持って登録所へ戻ると、先ほど舌打ちした男はもういなかった。代わりに待つ者が二人増えていた。


 リキアは最初から読み直した。就労先のない者は、傭兵団として登録するなら団の契約で生活費を得ること。登録には成人五名以上、責任者、就労先、携行する武器の所有または貸与証明が要ること。


「成人は足りています。ファルコ商会と河運組合の就労札もある。オルバン・ケストの紹介状には武器の貸与が記されています」


 リキアは空いた欄を順に示した。


「残るのは団の責任者と、各人の滞在資格です。まず、以前の所属か所有者名を」


 室内の音が、遠くなった。


「ない」


「分からないのですか」


「書かねえ」


 リキアの隣にいたダレスが、書類をこちらへ引いた。粗い作業着の袖を肘までまくり、爪の間に墨を入れた男だった。ロウラの顔ではなく、空欄を見ている。


「ここは、昔の持ち主へ返すための欄じゃない。外から所有を申し立てる者が出たとき、照合するためだ」


「名前を聞かれたから、あたしの名を言った」


「それは記録してある」


「今の名前だけじゃ足りないのか」


 ダレスはすぐに答えなかった。順番を待つ者たちの視線が、荷車の上へ集まる。


「お前を呼ぶには足りる。お前を自分の物だと言う奴を退けるには、ほかの記録も要る」


「そいつに証明させろ。あたしじゃなく」


「させる。そのためにも、空欄の意味を記録へ残す」


 ダレスは勝手に埋めず、《回答を拒否》とリキアへ書かせた。ロウラには読めない。だから、その言葉も読み上げさせた。


 朱肉がまた差し出されたが、ロウラはまだ親指をつけなかった。


「今日、決まらなかったところは?」


「保留です。空欄を同意済みとして扱いません。この拇印は申請を受け付けた印で、登録が終わった印ではありません」


 そこまで聞いてから、赤い泥へ指を沈めた。紙に残った指紋は昨日と同じ形をしていた。書かれた内容を読めなくても、押すか押さないかだけは、まだロウラのものだった。


 次に止まったのは、リネアの欄だった。


「家畜ではありません」


 リキアが先に消す。


「言葉を解するなら、使い魔の登録例があります。主人はロウラですか」


「主人じゃない。ロウラだよ」


「あたしも、こいつを飼ってねえ」


「では、傭兵団の団員に」


「成年者として数えられるのか?」


 カッシウスが訊くと、リキアは規則集をめくった。猫の年を人の成人へ直す決まりは見つからない。


「家畜、使い魔、団員。どれかに決めないと書類が作れません」


 リネアは机へ飛び乗り、書類の両脇へ前足を置いた。青い肉球の跡が二つつく。


「ぼくのことを、ぼく抜きで決めるの?」


 リキアが口を閉じた。


 ダレスは青い足跡を指で囲み、余白へ何かを書き足した。


「本人の意思を確認するまで保留。今日は同行者のままだ」


「ぼくは、ぼくだよ」


「その欄がない。だが、ないから誰かの物にしていいとも書いていない」


 リネアはしばらくダレスを見たあと、もう一つ足跡をつけた。


「増やすな。何の印か分からなくなる」


 団の責任者欄も空白のまま、書類は《申請中》の束へ置かれた。


     *


 武器検査は、入ってきた東大門の内側で行われた。


 外門と内門の間は高い石壁に囲まれ、荷車を数台入れれば身動きが取れなくなる。頭上には射撃孔が並び、内門の手前には落とし格子が上がっていた。床の隅に四角い鉄蓋があり、その下から鎖を巻く音が響いている。


 外門が閉じなければ内門は開かない。昨日の朝に通ったときは人の列しか見えなかったが、いまは敵をこの狭い石囲いへ閉じ込めるための造りだと分かる。壁の上には、石や砂を落とす穴まで口を開けていた。


 石粉を髭につけたグラウコが、小さな槌で門柱を叩いていた。場所によって音が違う。低く濁ったところへ白い印をつけ、検査役へ「ここへ荷車を寄せるな」と告げた。


 バルクの槍とユーデの弓は、オルバンの貸与品として通った。カッシウスの大鎌には、検査役が長い時間をかけた。


「農具か?」


「畑へ持っていけばな」


「持っていく予定は」


「ない」


「武器だ」


 レトの黒いナイフも机へ置かれた。


「葬具だ」


「人へ向けたことは」


「生きてる奴には、なるべくない」


「武器だ」


 ロウラの番になると、検査役は空の両手を見た。


「武器なし」


「こいつの場合、その書き方で合ってるのか?」


 レトが言った。


「拳を門で預かれるなら、預かってみろ」


 ロウラが片手を差し出すと、検査役は見なかったことにした。


 その間に、リネアは鉄蓋の横にある点検孔へ頭を入れていた。翼を畳み、前足で奥へ進もうとする。


「やめろ。そこで詰まったら、格子を下ろせん」


 グラウコが後ろ足をつかんで引き戻した。


「ひげが通れば猫は通れるよ」


「お前には翼があるだろうが」


 孔の先には、地下の機構室へ降りる石段が見えた。太い鎖が壁沿いを走り、巻き上げ軸へつながっている。グラウコはリネアを床へ下ろすと、点検孔を板で塞いだ。


「門より先に猫対策が要るな」


     *


 登録所へ戻る途中、ロウラは白銅通りの告示板で足を止めさせた。


 一枚だけ、新しい紙が貼られていた。太い見出しの下に、人の横顔が描かれている。傷の位置も、髪の形も似ていた。


「読め」


 レトが動かなかった。


「そこに書いてあることを、全部だ」


 レトは紙へ近づいた。


「剣闘士ディオン。ルクサリア闘技場の集団逃走を扇動。逃走中に負った傷により死亡。遺体は回収されず。生存を前提とした懸賞金を取り消す」


 ロウラは荷車から下りた。レトが腕を出したが、つかまなかった。片足ずつ進み、告示板の前へ立つ。


 最後に見たディオンの指は冷たかった。握れと言うと、長い間を置いて、人差し指がロウラの指へ引っ掛かった。


 返事だったのか、ただ動いただけなのか。確かめないまま、ロウラは先に川を渡った。


 ディオンは、人の名を忘れなかった。闘技場で一度しか組まなかった新入りも、厨房から水を運んだ子どもも、次に会えば名で呼んだ。死んだ者の寝台へ別の奴隷が入っても、前にそこへ寝ていた者の名を口にした。そんな男の最後が、誰が見たとも書かれていない一行で決められている。


「あたしが、次はあんたが来いって言ったんだ」


 紙の端が風で浮いた。手を上げれば破れた。けれど、これを剥がしても、別の町には同じ紙が貼られている。破れば、ディオンの名まで一緒に消える気がした。


 ロウラは浮いた端を、指で板へ押し戻した。


 リネアが隣へ座った。青い前足を揃え、何も言わず、同じ紙を見上げている。


 通りを荷車が二台過ぎた。鐘が鳴り、店の呼び声が重なった。ディオンが死んだと書かれた町で、誰も足を止めなかった。


 どれほど立っていたか分からない。


 登録所の戸口から、リキアに呼ばれた。


「ロウラ。同行者全員に関わる書類が届きました」


 振り返ると、リキアは赤い封蝋のついた申立書を抱えていた。


「あなたたちを財産として引き渡すよう、所有権の申立てが出ています」


 ロウラは告示板から手を離した。


 告示板の紙は、ディオンを死者にした。リキアの抱えた紙は、十一の名を持ち物の一覧へ変えようとしていた。


「誰が出した」


「王国公認奴隷商人、マニウス・カルドです」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。