第24話 所有証書
「ロウラ、ミレア、ティロ、バルク、ユーデ、セヴァン。それにノア。この七人は、私が買い取った財産です」
白い長衣の男は、ロウラたちを見回してそう言った。
男の名はマニウス・カルド。王国から許可を受けて奴隷を売買する商人だった。旧ルクサリア闘技場から逃げた六人とノアを買い取ったと主張し、ヴァルネの外へ連れ出すために来たのだ。
根拠は二つ。王国の印がある所有証書と、闘技場で奴隷の名前や特徴を記した古い台帳だ。
ヴァルネでは奴隷を売買できない。ただし、外部から所有権を主張された場合は、自由身分院が証拠を調べる。申立てが認められれば、七人はマニウスへ引き渡される。
申立書が届くと滞在登録は中断され、十人と一匹は登録所向かいの自由身分院へ移された。いまいるのは法廷ではなく、証書と本人を照らし合わせる確認室だ。ロウラはレトの肩を借りて長椅子に座っていた。
マニウスの髪と白い長衣には乱れがない。机には赤い房の証書と、角の潰れた台帳がある。
「なかでも、その猫がいちばん分かりやすい証拠です」
マニウスが指を向けると、リネアの背の毛が逆立った。
「翼のある黒猫。黒い体に、四本の足先だけ白い。旧ルクサリア闘技場の台帳にそう記されています。もっとも、いまは前足が青いようですが」
「事故だよ」
リネアは机の端へ前足をかけた。
「それに、ぼくは目印じゃない」
「猫が自分で証言してくれるとは助かる」
「じゃあ証言する。おまえ、嫌い」
記録を取っていた書記の筆が止まった。
「嫌いだというだけでは、申立てを退けられません」
「じゃあ、すごく嫌い」
「強さの問題じゃない」とレトが言った。
書記が告げた決まりは三つだけだった。所有証書の王印は本物である。審理は三日後に行う。それまで七人は市外へ出られない。ただし、マニウスも審理前には七人を拘束できない。
「本物の印なら、こいつの言うとおりになるのか」
ロウラは王印を睨んだ。読めない文字の下で、冠をかぶった獅子だけが赤く潰れている。
「印が本物でも、書かれた売買まで正しいとは限りません」
書記は証書へ触れずに答えた。
「だから審理します。今日は誰の物とも決めない」
「すでに王国が認めた所有権です」とマニウスが口を挟む。
「ここはヴァルネです」
書記はまた筆を動かした。それだけの返事だったが、マニウスの指輪が机を一度叩いた。
「俺は闘技場の奴隷じゃない。先に帰ってもいいか?」
ナザルが腰を上げかける。
「全員の確認が終わるまで待ってください」
ナザルは座り直した。
「正直に身分を話したのに、足止めされるのか」
「お前が正直だったから、書記も驚いている」とカッシウスが言った。
マニウスだけが笑わなかった。台帳を開き、書記が読み取れる向きに回す。
最初に示されたのはロウラだった。年頃、髪の色、背丈。右肩から胸へ入れられた奴隷紋の形。リュケ村で灯火団の団章へ彫り直しても、古い火傷の縁までは消えていない。
「改変された紋を確認すれば、より明らかになります」
「脱げってのか」
ロウラが低く言う。
「女性の検査人を用意できます。私は立ち会いません」
「気遣いのつもりか?」
「商品を傷つけないための作法です」
長椅子が鳴った。立ち上がったバルクの腕を、セヴァンとユーデが両側から押さえている。ロウラは自分の膝をつかんだ。ここで先に動くなと、自分の脚へ命じるためだった。
マニウスの指が、台帳の別の行へ滑る。
その前へ、リネアが飛び下りた。青い前足で行を隠し、男を見上げる。
「ぼくを見つけたから、みんながこの台帳の仲間だって言うんだね」
「そのとおりです。珍しい獣は優れた目印になる」
「ぼくが違うと言ったら?」
「獣の言葉に法的な価値はありません」
尾が机を一度、強く打った。
「見つけるときだけ、ぼくの存在を使うの?」
マニウスは答えず、台帳を引こうとした。リネアは四本の足を踏ん張る。紙を傷つけまいと力を加減した男と、退く気のない猫が、しばらく一冊を挟んで向かい合った。
「記録には残しておきます」
書記が言うと、リネアは自分から前足をどけた。青い跡が一つ、値段の欄に残った。
「それも事故だよ」
ミレア。ティロ。バルク。ユーデ。セヴァン。読み上げられるたび、名前の横に年齢と値がついていた。人を見ずに、布や家畜を数える声だった。
「レト、ナザル、カッシウス。この三人は台帳にありません」
マニウスは順に三人を見た。
「逃亡財産の隠匿に関わった者として、別に王国へ訴えることになります」
「よかったな」とレトがナザルへ言う。「値がつかなかったぞ」
「俺の価値を決めるのが、よりにもよって奴隷商人か」
「安心しろ。俺にもついてない」
「お前は葬儀屋だ。客が増えるほど儲かる」
「増やす奴と一緒にするな」
小さく笑ったのはユーデだけだった。すぐに口元を消したが、張りつめていたバルクの肩がわずかに下がる。
最後に、マニウスはノアについての紙を台帳の下から抜いた。
「ノア。推定十歳前後。血縁不明。未成年の付属財産」
ロウラの膝を押さえていた指が止まった。
ミレアの後ろで、ノアが息を殺している。闘技場では、小さい者から先に気配を消すことを覚えた。見つからなければ、命令も鞭も少なくなる。ヴァルネへ来てから少しずつ聞こえるようになった足音が、いまはまた消えていた。
「長い」
不意にノアが言った。
「ぼくの名前は、ノアだけでいい」
「これは名前ではなく、法的な区分です」
「名前でもないのに、名前の横へ置くの?」
マニウスは子どもへ向ける答えを持っていなかった。ロウラには、黙ったことのほうが返事に見えた。
「付属って、何にだ」
「一緒に暮らす奴隷に養われていた子どもです。独立した自由民の記録がなければ、その奴隷たちと一緒に所有者へ引き渡されます」
「誰の子かも知らねえのに?」
「だからこそです。所有者のいない子どもを、誰が養うのです」
「あたしたちだ」
「そう言って、あなたは所有者に断りなく連れ出した」
ロウラは立っていた。
脇腹の古傷が内側から引かれ、右脚へ力が入らない。倒れかけた身体を机へ預けた。分厚い天板がずれ、書記の墨壺が跳ねる。マニウスが証書だけを持ち上げた。
「乱暴に扱わないでいただきたい。あなた方より、よほど高価な紙だ」
ロウラは机を回り込んだ。
背後でレトがロウラの名を呼んだ。構わず白い長衣の襟をつかむと、マニウスの踵が床から浮いた。背中が壁へ当たる。
部屋の外で、警備の靴が動いた。
マニウスの顔から血の気が引いている。それでも口元だけは笑おうとしていた。
「さあ。殴ればいい」
ロウラは右手を引いた。
「危険な逃亡奴隷が、正当な所有者を襲った。あとは私が何も言わなくても、あなたが証明してくれる」
拳の先に、鼻と歯があった。その奥に石壁がある。力を入れれば、どこまで壊れるか分かっている。
ノアの足音は、まだしなかった。
闘技場では、殴れば黙らせられた。鎖を持つ男も、剣を向ける男も、怪物も。紙だけは、殴った手の形まで自分の味方にするらしい。
ロウラの親指が開いた。次に人差し指がほどけた。握ったままの襟を放すと、マニウスの靴底が床へ戻る。
「あたしの手まで、お前の証拠にしてやらねえ」
殴らずにいることが、殴るより痛かった。開いた右手を下ろすと、何かが指へ触れた。ノアだった。いつの間にかミレアの後ろから出て、ロウラの小指を両手でつかんでいる。
マニウスが襟を直した。
「賢明です。三日後には、ノアの手も離していただきます」
彼は証書を抱え、出口へ向かった。
ロウラが先に立った。
狭い戸口を、身体で塞ぐ。拳は開いたままだ。マニウスが右へ寄れば右へ、左へ寄れば左へ、ロウラも一歩ずつ動いた。
「これは、何のつもりです?」
「立ってるだけだ」
「退いてください」
「今のはお願いか?」
背後でナザルが吹き出した。
「団長、もう少し右だ。そこなら完全に道を塞げる」
「手伝うな」とレトが言う。
「殴らせないために、別の楽しみを教えてるんだ」
マニウスの顔から、ようやく作り笑いが消えた。
「通さないなら、警備を呼びます」
「もう来てるよ」
リネアが翼で廊下を示す。二人の警備が戸口の外に立っていた。書記は墨のついた指で額を押さえ、ロウラに道を開けるよう命じた。
ロウラは一歩だけ退いた。マニウスが横を抜けようとする。そのとき、レトが書記の手元にある証書の控えを指した。
「待て。証書をもう一度見せろ」
「審理でご覧になれます」
「売り主の名と、売った日だけでいい。さっき読み上げたな」
書記が手元の控えを確かめた。旧闘技場の財産を管理する男の名と、売買の日付を読む。
レトの顔から、いつもの面倒そうな色が消えた。
「その売り主なら、知ってる」
マニウスが足を止める。
「商談でもされたので?」
「いや。俺の客だった」
レトは証書の日付を指した。
「その売り主は、売買日の三日前に死んでる。俺が遺体の両目を閉じて、布で包んだ。死人が売買を承認できるはずがない。この証書の日付か、売買そのものが偽だ」
確認室から音が消えた。
書記は控えとレトを見比べ、すぐに別の紙を引き寄せた。
「自由身分審理は三日後。それまで所有権を主張された全員の城外退出を禁じます。証人となるレトもです」
「葬儀屋が死人のせいで足止めか」
「慣れてるだろ」とロウラが言った。
レトは嫌そうな顔をしたあと、ほんの少し笑った。
マニウスはもう笑っていなかった。証書を巻く手だけが、先ほどより速い。
ノアはまだ、ロウラの小指を握っていた。ロウラはその手を離させず、証書を抱えて去る背中を見送った。
証書の売り主は、売買日の三日前に死んでいた。ならば、誰かが死者の名を使って証書を作ったことになる。
問題は、その証書になぜ本物の王印が押されているのかだった。




