第25話 死人の帳簿
「審理まで、あと二日です」
自由身分院の書記はそう告げ、証拠閲覧室の扉を閉めた。
マニウスの所有証書を崩せなければ、ロウラ、ミレア、ティロ、バルク、ユーデ、セヴァン、ノアの七人は奴隷として引き渡される。証書と旧闘技場の台帳を調べられるのは、朝の一刻だけだった。
証書と台帳は、書記の監視下で調べる。頁を傷つければ閲覧は打ち切りだ。
「触る奴を決めるぞ」
カッシウスが台帳を囲む手を追い払った。
「レトは売り主が死んだ日を確認する。ミレアは台帳の綴じ目。ティロは綴じ紐。俺は証書の番号を見る。ほかは余計なことをするな」
「あたしは?」
ロウラが訊いた。
「座ってろ」とカッシウスが答えた。
「殴る相手もいねえのに?」とロウラ。
「だから安心して座ってろ」とカッシウス。
レトに椅子を引かれた。脇腹の傷は、立っているだけでも熱を持つ。ロウラは不満を椅子へぶつけるように腰を下ろした。
昨日は、マニウスの襟をつかむところまでしかできなかった。今日は、その襟さえない。目の前にあるのは、殴れば不利になる紙ばかりだ。ロウラには読めない。
それでも席を立たなかった。仲間が何を見つけるのか、最後まで聞くつもりだった。
リネアは高窓の石枠へ飛び上がった。裏路地からマニウスの手の者が来ないか、見張るためだ。
青く染まった肉球が石枠へ一つ、くっきり残る。
「これは見張りの印だよ」
「誰に言い訳してるんだ」とレトが言った。
「跡が残った方が、ちゃんと見張ってたと分かるでしょ」とリネア。
「侵入した奴にも、お前の居場所が分かるぞ」とレト。
リネアは肉球印を翼でこすった。青い跡は横へ広がり、前より目立った。
「見張りを続けろ。掃除は向いてない」とレトが言った。
*
最初に口を開いたのはレトだった。
「証書の売買日は、俺たちがルクサリアを出る直前だ。その三日前、売り主の遺体がルクサリアの葬儀所へ運ばれてきた」
いまから一月以上前、レトはまだルクサリアで葬儀屋をしていた。死者を受け取り、身元を記録し、埋葬係へ渡すのが仕事だった。
「日没前だった。俺が両目を閉じて、翌朝に埋葬係へ渡した」
レトは証書に書かれた売り主の名を、もう一度書記に読ませた。名前だけでなく、役職も一致している。遺体の手首には市の死亡札が結ばれ、同じ名が刻まれていたという。
「記録はありますか」と書記が訊く。
「ルクサリアの葬儀所に受入帳が残っていればな。俺の証言だけじゃ足りないのか」とレト。
「マニウスが否定すれば、証言と証言になります」と書記。
「死人を連れてきた方が早そうだ」とレトが言った。
「やめろ」とロウラが言った。
「できるとは言ってない」とレト。
「埋葬記録の写しをルクサリアへ照会します。ただし、審理までに届く保証はありません」と書記が告げた。
書記が照会状を書き始めた。正しい記録があっても、遠くにあれば間に合わない。それがマニウスの狙いなのだと、ロウラにも分かった。
ミレアは会話を聞かず、台帳の背を撫でていた。右手の中指には、《綻び見の指貫》がはまっている。布や革の弱った縫い目に触れると、切れかけた箇所が指先へ伝わるレリックだ。
上から三分の一ほどで、指が止まった。
「ここだけ、引っ張られ方が違う」
台帳を横から見ると、古い茶色の糸に混じって、十数頁だけ青黒い紐で綴じられていた。ミレアは頁を持ち上げず、指貫の先で結び目を示す。
「古い糸を切って、別の頁を足している。ロウラたちの名前は、その十数頁にしかない」
追加された頁だけ、針穴の位置もわずかに低い。古い穴へ通せなかったため、台帳の背へ新しく穴を開けていた。表紙を閉じれば見えないが、横から見れば紙の端も揃っていない。
ロウラは台帳へ身を乗り出した。読めない文字の列を見ても、自分の名前がどこにあるのか分からない。
「後から、あたしたちを書き足したのか」
「その可能性が高い。でも、これだけでは綴じ直した時期が分からない」とミレア。
ミレアが場所を空けると、ティロが紐へ顔を寄せた。鼻先が紙につきそうになり、書記が咳払いする。
「食べませんよ」とティロ。
「誰もそこまでは心配していません」と書記。
ティロは青黒い紐を光へ傾けた。
「ファルコ商会の染め紐です。俺がこの町へ来た翌日に染めた。濃くしすぎて売り物にならず、荷造り用へ回した束と同じ色です」
「間違いない?」とミレアが訊く。
「失敗した色は忘れません。成功した色より長く怒られますから」
これで、古いはずの台帳がヴァルネへ来てから綴じ直されたことになる。書記は青黒い紐の位置と、ロウラたちの頁番号を控え、ファルコ商会の作業記録も取り寄せると告げた。
*
カッシウスは所有証書を裏返し、右下の小さな数字を追っていた。
旅の途中、カッシウスは各地の関所で許可証を何度も調べてきた。書類の端にある番号を見れば、どこで発行された紙か判別できる。
「王印の許可証には、一枚ずつ番号がある。だが、これは売買証書の番号じゃない」
カッシウスは数字の前にある三本線の記号を指した。
「これは南西方面軍の文書局を示す印だ。売買証書ではなく、王命を現地で発行する白紙許可証に使う番号だろう」
「白紙なのに、王印があるのか」とロウラが訊く。
「遠征先で王都の返事を待たず命令を出すためだ。印だけ先に押した紙を、必要な文面で埋める」
「ずいぶん便利だな」とロウラ。
「盗まれなければな」とカッシウス。
高窓から、小さく爪の鳴る音がした。
リネアが振り返るより先に、女の手が石枠へかかった。短い黒髪のサビナが音もなく窓を越え、室内へ降り立つ。
「正面の入口を、マニウスの書記が見張っている。私が調査へ加わったと知られない方がいい」
「斥候が通った跡を残すな」
サビナは窓枠の青い肉球印を指した。
「ぼくじゃない。染料が残したんだよ」
「足が残した跡を、足跡という」
リネアは前足を翼の下へ隠した。
「肉球もないのに、どうして音がしないの?」
「肉球ではなく、練習で消す」
「ぼくにも練習を教えて」
「まず足跡を隠せ」
リネアは翼の下の前足を、さらに奥へ押し込んだ。
サビナは王妹ヴァレリアの副官で、元密偵だった。番号を照会するため、自由身分院が昨夜、灰館へ使いを出していた。
「その番号帯なら、三か月前に十二枚が盗まれている」
サビナが答えた。
「王都へは紛失として報告された。王印はすべて本物だ」
「十二枚も、印を押してから運ぶのか?」とレトが訊く。
「遠征中の司令官が、現地で命令を書き入れるためだ。使用後は番号と文面を王都へ報告する。盗まれた十二枚には、その報告が一つもない」
つまり、同じ王印を持つ偽の命令が、ほかにも十一枚作れるということだった。
*
「面白そうな話を、あたし抜きで始めるんじゃないよ」
廊下から太い声がした。入ってきたのは、王妹ヴァレリアだった。
ヴァレリアは、記録箱を運び込む裏口から来た。護衛一人が階段を、もう一人が裏口を見張っている。
三十代前半。短い濃茶の髪、日に焼けた肌、腕にも首にも古傷がある。元南西辺境司令官で、いまは兄王から謀反を疑われ、ヴァルネの灰館に身を寄せている。
「殿下、来るなと申し上げました」とサビナ。
「聞いたよ。従わなかっただけさ」とヴァレリア。
ヴァレリアは机の横にあった証拠箱へ腰を下ろした。書記が青ざめる。
「そこには押収品が入っています」と書記。
「壊したら弁償する」とヴァレリア。
「降りてください」と書記。
「ヴァレリアだ。王の妹で、現在は謀反人の候補。こっちはサビナ。副官、護衛隊長、恋人、それから必要ならあたしの首を落とす係だ」
「護衛は三人だけか」とレトが訊いた。
「残りは灰館を守ってる。あたしが黙って抜け出したせいで、三人とも急に配置が変わった」
「原因が誇らしげに言わないでください」とサビナが言った。
「予定外にも対応できる。いい護衛隊だろう?」
誰も笑わなかった。ヴァレリアだけが豪快に笑い、証拠箱から降りた。
彼女は所有証書を窓の光へ向けた。王印の縁、赤い房、紙の透かしを順に見る。笑い声が止まった。
サビナが盗難番号を書いた紙を横へ並べる。証書の番号は、失われた十二枚のうち七番目と一致した。
「印は本物だ」とヴァレリアが言った。
「それは昨日も聞いた」とロウラが言った。
「大事なのは、その先さ。この紙は王国が正式に作った白紙許可証だ。そこへ、死んだ売り主の名と、偽の売買を書き足した」とヴァレリア。
ヴァレリアは王印を指で叩いた。
「この印が証明するのは、紙が王国の文書局で作られたことだけだ。後から書かれた売買まで、王が認めたわけじゃない」
ヴァレリアは証書を机へ戻した。
「印は本物だ。だから、使った人間が偽物なのさ」
だから登録官も、その場で証書を退けられなかった。
ロウラは証書ではなく、その周りにいる仲間を見た。レトが死者を覚え、ミレアが縫い目を探し、ティロが失敗した色を覚えていた。ロウラが読めない紙を、別々の手が少しずつ崩している。
「これで、勝てるのか」とロウラ。
「証書を疑わせるには足りる。マニウスを捕らえるには、盗まれた白紙の現物が要る」とヴァレリア。
サビナが、細く折った倉庫の出入記録と運送人の控えを机へ置いた。
「盗まれた許可証を入れていた文書箱には番号がある。同じ番号の箱が今朝、マニウスの東倉庫へ入った。運送人の控えでは、その箱を日暮れに南門の外へ運ぶ予定だ」
「なら、取りに行くぞ」とロウラが立ち上がる。
「正面から踏み込めば、見張りが箱を燃やす」とサビナがロウラの腕を止めた。「捜索令状は明朝まで出ない」
「令状を待てば、証拠は町の外か」とロウラ。
「そうなる」とサビナ。
ロウラは証書を睨んだ。
「なら、日暮れまでに取り返す」
窓の外では、昼の鐘が鳴り始めていた。
残された時間は、半日しかなかった。




