第26話 正しい嘘
「倉庫へ殴り込むのは駄目だ」
自由身分院の裏路地で、サビナがロウラへ念を押した。
「まだ何も言ってねえ」とロウラ。
「顔が言っている」
脇腹には布が巻かれ、右脚も満足に動かない。それでも拳なら使える。使えるものを使うなと言われるたび、傷より腹が立った。
サビナは東倉庫周辺の見取図を木箱へ広げた。マニウスの手下は入口に二人、裏口に一人。強引に入れば、中の者が文書箱へ火をつける。
ヴァレリアの護衛二人は路地の両端で増援を見張る。剣を抜けば王妹側の襲撃として訴えられるため、戦わない。
「あたしも裏口へ行く」とヴァレリアが言った。
「殿下は灰館へお戻りください」とサビナ。
「顔なら外套で隠せる」
「殿下は外套の中からでも笑い声が漏れます」
「便利だろう。暗い道で居場所が分かる」
「敵にもです」
ヴァレリアは鼻を鳴らしたが、護衛二人を残して灰館へ戻った。本人を帰して護衛だけが残る。レトが順番を疑うと、サビナは「いつものことだ」と答えた。
「だったら、火をつける前に全員殴る」とロウラ。
「三人で全部とは限らない」とレトが言った。「一人見落とせば、俺たちの自由が煙になる」
「殴らずに、マニウスを倉庫から引きずり出す」とカッシウス。
カッシウスは細い紙片へ数字を書いた。盗まれた許可証の番号、王国の保管記録では未使用になっていること、所有証書に使われた七番目だけが自由身分院で確認されたこと。どれも本当だった。
「これを匿名でマニウスへ届ける。あいつは、内輪の誰かが番号を漏らしたと思う」
「嘘は書かないのか?」とロウラが訊く。
「嘘を混ぜると、外れたときに安心させる。本当だけ並べて、勝手に間違わせる」
ナザルが紙片を横から覗いた。
「正しい嘘だな。俺の得意分野だ」
「お前の嘘は、だいたい正しくない」とレト。
「細部に厳しい葬儀屋は嫌われるぞ」
「客から文句を言われたことはない」
サビナが役目を決めた。紙片で裏切り者を疑わせ、ナザルは《マニウスの裏帳簿を売りたがる者がいる》と噂を流す。秘密が二か所から漏れたと思えば、マニウスは自分で倉庫を確かめに行く。
「倉庫で私が待つ。王国密偵しか知らない符牒を使えば、マニウスは私を王都から来た始末役だと思う」
「そこで吐かせるのか」とロウラ。
サビナは左耳の黒銀の耳飾りに触れた。《留め声》は三十秒ほどの声を、息遣いや間までそのまま保存できる。二つある枠のうち、使えるのは一つだけだった。
「吐かせるのではない。知っているふりをして、本人に続きを言わせる」
ロウラは見取図へ指を置いた。裏口の印が指先に隠れる。
「あたしは、どこにいる?」
「倉庫の二軒先にある染物小屋だ」とサビナ。「マニウスが別の道へ逃げたら、セヴァンと進路を読む。私が戻らなければ、レトと護衛へ知らせる。倉庫へは入るな。いいな、倉庫へは入るな」
「最後だけ二度言ったな」とロウラ。
「必要だからだ」とサビナ。
殴るより待つ方が難しいことを、サビナは知っているらしい。ロウラは見取図から指をどけた。
「勝手に失敗すんなよ」
「それは全員に言っておけ」とサビナが答えた。
高窓の上で、リネアが白い後ろ足を舐めていた。前足の毛には、昨日の青い染料がまだ残っている。
「ぼくは何をするの?」
「屋根からマニウスを追え。ただし青い足跡を残すな」とサビナ。
リネアは肉球を見せないよう、前足を胸の下へしまった。
「飛んだまま着地しなければいいんだね」
「それを飛行という」とレトが言った。
*
昼の鐘が鳴り終わるころ、カッシウスは商館へ出入りする水売りを呼び止めた。紙片を半分に折り、銅貨と一緒に渡す。
「白い服の主人へ直接だ。誰からか訊かれたら、道で拾ったと言え」
「拾った紙を、わざわざ届けるのか?」と水売り。
「その不自然さがいい。届けた理由を、向こうが勝手に考える」
水売りは納得しないまま銅貨には納得し、商館へ入っていった。
ナザルは白銅通りの両替商へ行き、声を潜めた。マニウスの使用人が裏帳簿の買い手を探している。ただし日暮れまで。誰にも話すな――そう言って、隣の天秤職人にも聞こえる声で囁いた。
「誰にも言うな、までが噂か?」と遠くから見ていたレトが訊く。
「あれを付けないと、皆、本当に黙るかもしれない」とナザル。
半刻後、ナザルの噂が白銅通りを一往復した。最初は《裏帳簿を売る者がいる》だった話が、《帳簿を三冊盗んだ女が裁判官へ売り込んでいる》へ育って戻ってきた。
「俺が産んだときより大きくなってる」とナザルが言った。
「お前の子なら、よく育つ」とカッシウス。
商館の扉が乱暴に開いた。マニウスは外套を羽織り、二人の護衛を連れて東へ向かう。いつも整った襟が、片側だけ内へ折れていた。
リネアが屋根を蹴った。白い足先が瓦を離れ、黒い翼が開く。少し遅れて、ロウラたちも通りの人波へ入った。
ロウラは走れなかった。速足にするだけで、脇腹の奥が引きつる。セヴァンが何も言わず左側へ入り、肩を貸した。振り払えば遅れる。ロウラは舌打ちだけで済ませ、体重を預けた。
「重いか?」とロウラ。
「返事によって軽くなるなら答えます」とセヴァン。
「なら黙ってろ」
「はい」
マニウスは白銅通りを外れ、布商たちの天幕が道を覆う横丁へ入った。赤、黄、青の布が屋根から屋根へ渡され、上からは地面が見えない。リネアは天幕の切れ目を二度回ったが、白い外套を見つけられなかった。
翼で布をめくれば居場所がばれる。着地すれば、青い足跡が追跡者の位置を教える。リネアは羽ばたいたまま、天幕と壁の隙間を探した。
「消えた!」と叫び、リネアはセヴァンの肩へ舞い降りた。青く染まった前足が、上着に小さな肉球の跡を二つ残した。
「どこまで見た?」とセヴァンが訊く。
「北から赤い天幕へ入った。南へは出てない」
セヴァンは荷運び人が使う横道を指した。天幕の東側には、樽職人の作業場へ抜ける細道が一本ある。その裏壁は、マニウスの東倉庫とつながっていた。
「東です。見失った場所が、行き先を教えています」
「ぼく、失敗してない?」
「見たところまで話した。それで十分だ」
セヴァンの肩には青い足跡だけが残った。
「足跡を残すなと言われたのに」とリネア。
「これは俺の失敗にしておきます」とセヴァンが答えた。
リネアは礼を言う代わりに、足跡をもう一つ増やして飛び立った。
*
東倉庫裏の樽職人の庭は、東が倉庫の裏口、西が路地の木戸に通じる。南塀の向こうは、隣家の低い物置屋根だった。
サビナは庭の中央で褐色の外套を目深にかぶっていた。北隣から響く槌音が、会話を外へ漏らさない。
マニウスは二人の護衛を西側の木戸に残し、一人で庭へ入った。サビナは顔を上げず、王国密偵が身分を確かめるための古い符牒を口にした。
「雨のあとは、印泥を替える」
「乾いた印だけ残せ」とマニウスが答えた。
合言葉は通った。けれど、マニウスは近づかなかった。
「所属は?」とマニウス。
「南西文書局の後始末だ」とサビナが答えた。「所属を二度名乗る密偵はいない」
マニウスは外套の陰を探るように目を細めた。右手には、カッシウスの紙片が握られている。数字の部分だけが汗でにじんでいた。
「王都は七番目の白紙が表へ出たことを問題にしている」とサビナ。「死者の名まで使えば、王印の出所を調べられる」
「死人は異議を申し立てません。王印は最初から紙にある。あとは台帳へ同じ名を足せば、三つの記録が互いを証明する」
サビナの指が、外套の下で耳飾りを押した。黒銀の片側が、わずかに温かくなる。
ここから三十秒。問いを増やせば、肝心な言葉が枠からこぼれる。サビナは一つだけ訊いた。
「台帳を書き足した者は?」とサビナ。
「登録自由民を二人、地下に置いてあります。文書を作り慣れた手は、殺すより使った方がいい」
耳飾りの熱が消える。三十秒が収まった。
マニウスの視線が、外套の縁からのぞく黒銀へ落ちた。
「王都の始末役なら、私に説明させる必要はない」
声から敬意が消えた。
「あなたは、知らないことを聞きに来た」
マニウスは東側の倉庫裏口まで退き、戸を開けた。
「帳簿と白紙を箱へ戻せ! 地下の二人も荷車へ乗せろ。予定を変える。南門ではない、東門だ。閉門前に出す!」
倉庫の中で木箱を引きずる音が重なった。マニウスの大声を合図に、背後の西側木戸が開く。外に残っていた護衛二人が庭へ入り、短剣を抜いた。サビナは、倉庫側のマニウスと路地側の護衛に挟まれた。
サビナは南塀の前に積まれた樽へ跳び乗り、鉄輪を蹴り落とした。一枚が石畳を転がって、一人の脛に当たる。もう一人が外套をつかむ。サビナは留め具を外し、褐色の布だけを男の手へ残した。
南塀へ片足をかけたところで、短剣が脇をかすめた。皮衣は裂けたが、血は出ていない。サビナは塀の向こうの物置屋根へ飛び降りた。
護衛二人は西の木戸から路地へ戻り、屋根の先へ回り込もうとした。だが路地の出口では、ヴァレリアの護衛二人が荷車の車輪が外れたふりをして道を塞いでいた。追手が荷車をよける間に、サビナは屋根の向こうへ消えた。
*
日が傾き始めたころ、サビナはロウラたちの待つ染物小屋へ戻った。裂けた皮衣を見るなり、ロウラは戸口へ向かう。
「傷ではない」とサビナが言った。
「服の話はしてねえ」
「顔が言っている」
昼と同じ言葉を返され、ロウラは足を止めた。殴りに行く理由を、また一つ奪われた。
「声は取った」とサビナが耳飾りを示した。「だが再生できるのは一度だけだ。法廷まで聞かせられない」
ロウラは立ち上がった。
「なら、次は箱だ」
表通りから車輪の音がした。リネアが軒先へ飛び上がる。マニウスの東倉庫から、白い幌をかけた荷車が一台出てきた。
幌の内側で、誰かが床板を三度蹴った。
荷車は、閉門前の東門へ向かっていた。




