第27話 一台も出すな
白い幌の中から、女の「出して」という声と、床を蹴る音がした。同じ幌の荷車が横道から二台出てきた。三台が入れ替わりながら東門へ向かう。
「令状を取る。封印は破るな」
サビナが自由身分院へ走る。ロウラは脇腹の傷に足を止められ、リネアを屋根へ飛ばした。
「どれだ?」
「みんな白いよ!」
「それは見える」とレトが返す。
セヴァンは石畳へしゃがんだ。東倉庫から続く轍には、左後輪の欠けが作る切れ目がある。先頭車の左後輪にも同じ欠けが見えた。
「先頭です」
「あの馬だけ、首に汗の泡がある」とリネア。重い荷を引いているらしい。
門衛隊長オルシオが通行札を渡していた。荷台の音を告げると、商人の封印を指す。
「人がいるなら調べたい。だが令状なしで私有の荷は開けられん」
先頭車の馬が一歩進んだ。
「次の鐘まで止めます」
声の主は、門衛隊長の脇に立つ見知らぬ男だった。淡い褐色の髪に、整った長衣。腰には細剣を帯びている。
「フェレンス殿。ヴァレリア殿下の元参謀で、市の軍事顧問です」とオルシオ。
フェレンスはロウラへ一礼し、黒鉄の《戦果の天秤》を取り出した。
「今日使えるのは一度だけ。どの車を、いつまで、どこで止めますか」
「あの先頭車を、次の鐘まで東門の外へ出さない」
皿の縁に黒い印が二つ浮いた。フェレンスは指でなぞる。
「協力する者のうち二人が、鐘のあとしばらく動けなくなる。それが代価です」
「私が一人目」とフェレンス。
「俺が二人目に入ります」とセヴァン。
ロウラは脇腹を押さえた。自分が倒れれば、荷台の人間を降ろせない。
「二人とも、勝手に決めやがって」
「荷車を止めるあなたも、この二人が倒れると知って承諾してください」とフェレンス。「手を貸す全員の同意がなければ、天秤は働きません」
フェレンスは門衛や仲間の同意も確かめた。ロウラは頷く。リネアは「ぼくは倒れるの?」と訊き、二人だけだと聞いてから頷いた。
天秤の皿が水平に戻る。馬は歩き続けた。
「止めてくれねえのか」とロウラ。
「止めるのは私たちです。馬が暴れたり、合図が届かなかったりして失敗するのを防ぐだけです」
セヴァンは市場への搬入車を呼び止め、緩んだ麦袋の紐を示した。門の中で袋が落ちれば、出入りの車が詰まる。荷運び人が悪態をつきながら結び直す間、東門へ曲がる道はふさがった。
先頭車の御者は脇の荷捌き道へ馬首を向けた。その道も門前へ通じている。
「右へ抜ける!」とリネア。
ユーデが飼葉で馬を誘い、横を向いた車の左後輪をバルクが押さえた。御者が馬を蹴る。車が進み、バルクの踵が石畳を滑った。ロウラが力任せに加われば、車軸を曲げて中の人を傷つける。
「まだ持てる」とバルク。
御者が鞭を上げた。ロウラは手首をつかみ、鞭だけを下ろさせる。
「こっちは荷を壊してねえ。馬も打つな」
「強盗だ!」
オルシオの門衛が割って入り、暴れる馬をなだめた。鐘楼では番兵が綱を握っている。荷台からまた一度、床を蹴る音がした。
「聞こえた。もう蹴らなくていい」
ロウラが幌へ告げたところで、サビナが角から走り出た。掲げた令状の封蝋をオルシオが確かめ、自分の部下に荷を開けさせる。
床板の下から帳簿と王印付きの白紙許可証。幌の奥からは、手首を縛られた男女二人が出た。
レトが二人の縄を解く。女の手首には赤い縄の痕があった。差し出されたロウラの手を避け、自分で荷台の縁をつかむ。ロウラは踏み台だけを寄せた。別の施錠箱から左右で色の違う革靴が見つかると、女が顔を上げた。
男は幌の外でも背を伸ばせない。女は靴を指した。
「エナ・ヴェスです。ヴァルネの登録自由民です。その《逆歩の靴》を返して。一日一度、私と、私の足跡を踏む五人の足跡を千歩だけ逆向きに見せられる。だから取り上げられた」
門衛は靴を証拠箱へ入れた。エナは裸足で詰所に入るなり、表の扉、裏の扉、路地に面した窓を指した。
「三つ」
鐘が鳴る。荷車は東門の内側にいた。
セヴァンの膝が折れ、フェレンスも石畳へ座り込んだ。レトが二人の脈を確かめる。
「二名です。目標は達成しました」とフェレンス。
「あんたまで倒れる必要があったのか」
「私を除けば、ほかの一名が必要でした」
「そういう話じゃねえ」
*
翌朝、自由身分院の法廷で、マニウスは王印の押された所有証書を机へ置いた。
「印は真正です。昨夕の件は、この者たちが私の財産を奪おうとした強盗として訴えます」
判事ヘルヴィア・セナは、封を切った荷車から押収した帳簿と白紙を、その証書の隣に並べさせた。マニウスはどちらも見ず、ロウラを見た。
オルシオが、荷車の封印を破ったのは令状を受け取った後で、箱を詰所まで自分の部下が運んだと報告する。ロウラたちは帳簿にも許可証にも触れていない。マニウスはそれでも、通行を妨げたことを責めた。
「護衛を脅し、馬を止めた。本人も認めるはずです」
「止めた」とロウラ。「あたしが殴った奴はいねえ」
拳を膝の上に置いたまま答えた。字の読めない証書が、目の前にある。昨日なら机ごと割っていたかもしれない。
「では、止めた理由を順に聞きます」とヘルヴィア。
レトは証書の売り主の名を読み上げてもらった。ルクサリアで葬儀屋をしていたころ、同じ名と役職を記した死亡札を、その男の手首から外したという。
「この売買日の三日前です。俺が遺体を受け取った」
「別人の札では?」とマニウス。
「なら、同じ名と役職の生きた男をここへ呼べ」とレト。
ヘルヴィアは証書と旧台帳をミレアへ見せた。ミレアの《綻び見の指貫》は、布や革の弱った縫い目を指先へ伝える。指が止まった箇所だけ、古い頁を新しい紐が綴じ直していた。
弟のティロも紐を見た。「染め場でこの色が出回ったのは、証書の日付より後です」
「紐を替えたことと売買は無関係でしょう」とマニウス。
「そうかもしれません」とミレア。「誰が、いつ替えたかを聞きたいんです」
マニウスが口を閉じたところへ、カッシウスが番号を示す。押収された王印付き白紙の束は六番から八番へ飛び、所有証書の端には七番がある。王都の保管記録では、七番も未使用のままだ。
「印は本物だ。だから白紙のまま盗めば、本物の印がついた偽物を作れる」とカッシウス。
「盗難の証拠は?」
「なら、誰が七番を使ったか聞こう」
エナと、同じ荷車にいた男が呼ばれた。ヘルヴィアが二人の登録を照合し、ヴァルネの自由民だと確認する。エナは証人席へ向かう前に、法廷の出入口を数えた。正面の扉と、判事席の脇に一つ。窓は高く、手が届かない。
「地下に閉じ込められて、帳簿へ名前を書かされた」とエナ。「靴も取り上げられた」
「この者たちは強盗と一緒にいた。証言も言わされている」とマニウス。
エナの指が証人台の縁を探った。ロウラは立ち上がりかけたが、レトが袖を引く。
ロウラは腰を下ろし、エナの言葉を待つ。
「一緒にいたのは、荷車から出してもらった後です。私はその前から登録自由民でした」
隣の男も顔を上げた。「地下で七番の紙を渡された。王印は先についていて、名前の欄だけ空いていた」
マニウスは台帳の人相書きにある「翼の黒猫」を指した。
「同じ猫を連れている。人相書きの女に間違いない」
「猫にも聞きます」とヘルヴィア。リネアは証人台へ飛び乗り、白い足先を揃えた。
「ぼくはロウラと一緒に来たよ。ぼくが決めた」
「人相書きの女だろう」とマニウス。
「うん、ロウラだよ。でも、ロウラがあなたの奴隷かどうか、ぼくの顔で決めないで」
レトが「猫の方が話を聞いてる」と小声で言った。
ヘルヴィアは頷いた。「本人かどうかと、売買が成立したかどうかは別です」
サビナが《留め声》の黒銀の耳飾りへ触れる。三十秒だけ保存した声が、息遣いや間までそのまま流れた。
『死人は異議を申し立てません。王印は最初から紙にある。あとは台帳へ同じ名を足せば、三つの記録が互いを証明する』
『登録自由民を二人、地下に置いてあります。文書を作り慣れた手は、殺すより使った方がいい』
マニウスの声が途切れた。一度再生した声は耳飾りから消え、もう聞かせられない。
「古い符牒で私を誘い、言わせた言葉です」とマニウス。「その女の問いに合わせて話しただけだ」
サビナは誘ったことを否定しなかった。ロウラは耳飾りを見つめる。たった一度の声で、勝てるわけではない。
「声が本人のものでも、話した内容まで真実とは限りません」とヘルヴィア。「だから、声だけでは決めません」
判事は死者の売買日、替えた紐、七番の白紙、二人の登録を確認した。異議が出るたび、物証と証言が同じ出来事を指した。
「王印は真正。ただし、この証書が示す売買は成立していない」
ヘルヴィアは強盗の訴えと所有権の申立てを退け、王印の不正使用と自由民監禁についてマニウスを拘束するよう命じた。
マニウスは連れていかれる直前まで、印を本物だと言い続けた。誰もそこは否定していない。ロウラは机に残った証書を見た。あの紙一枚で、ここにいないノアまで奴隷として連れていかれるところだった。
ロウラは判決書を見つめた。自分には読めない。
「もう一度、読み上げてくれ」
ヘルヴィアは短く言い直した。
「あなた方はマニウス・カルドの財産ではありません」
リネアがロウラの膝に飛び乗る。ロウラは白い前足を片手で包み、ようやく息を吐いた。
法廷を出ると、登録官リキアが仮入市票を返した。明日の日没で失効すると、日付を指して読み上げる。
「今日勝ったのに、明日はまた門の外か」とレト。
「滞在登録をすれば残れます。その後に、傭兵団の登録です」
ロウラは判決書を抱え直した。名前を書けない自分が、次はどんな紙へ指を押すのか。リキアの示す登録所には、もう列ができていた。




