第59話 祈る前にパンを
「仲間の命を、勝手に勘定へ入れられちゃ困る」
カッシウスが紙へ線を引いた。
救援所の夕飯は終わっていた。ナザルの前には、食べ終えた椀がある。倉庫の奥で人が寝返りを打つたび、二人はそちらを見た。
女神ヴェラが現れ、教団をつくれと言った。姿が消えても、声を思い出すと、ナザルの息は浅くなる。
「人も金も集めよう。ただし、使い道は俺たちで決める」
ナザルが言うと、カッシウスは短く書きつけた。
「あいつが来るたび、神様の命令だと兵を動かす気はねえぞ」
「それも書いてくれ。信じない者にも飯は出す。寄付を受けても、仲間を自由に使わせる約束まではしない」
カッシウスが筆を止めた。
「紙にしたって、守らせられる相手か分からねえぞ」
「俺が忘れないためだ。あの女を前にすると、用意した言葉まで出なくなる」
ナザルは、まだ紙の端を押さえていた。
「俺が黙ったら聞いてくれ。あの女の取り分と、追加の要求がないかを」
「お前が勝手に頷いたら、俺が止める。俺が固まったら、お前もそうしろ」
カッシウスが、書いた条件を二人の間へ寄せた。
二人は眠らず、書いた条件を何度も読み返した。
外が白み始めたころ、その向こうに女が立った。
ナザルの肩が跳ねた。カッシウスも腰を浮かせ、二人で紙を見た。書いておかなければ、最初の言葉が出なかった。
「考えたのね」
ヴェラの柔らかい声に、ナザルは紙を押し出した。
「あんたの名で教団をつくる。誰を迎え、誰から金を集めるかは俺たちが決める。そこは譲れない」
声が掠れた。唾を飲み、続きを言う。
「信じない者も受け入れる。あんたの名で、俺は金も地位も得る。それで構わないか」
ヴェラは紙を見たあと、カッシウスへ目を移した。
「仲間を差し出す約束も、しねえ」
カッシウスが言った。
朝の水を運ぶ女が、ヴェラの隣を通っていく。二人の声へ耳を向けた様子もなく、桶を竈の脇へ下ろした。
女神が頷く。
「いいわ。その条件で、始めてみせて」
「後で変えんなよ」
カッシウスが念を押した。
「あなたたちが何を選ぶか、見せてくれるのでしょう?」
ナザルは頷こうとして、やめた。
「選ぶのは俺たちだ。あんたを喜ばせるための仕事ではないからな」
ヴェラが笑った。ナザルの指が、机の下で丸まる。
「ええ。そうして」
女神は入口へ歩いた。人の行き来する戸口を抜け、朝の明かりへ出る。その後ろを追っていたカッシウスの視線が止まった。
もう、いない。
ナザルは大きく息を吸った。紙を取る前に、手の汗を上着で拭いた。
*
「教団?」
荷車の縄を確かめていたロウラが、顔を上げた。
ナザルは、昨夜と今朝のことを話した。二人にだけ見えた女が、女神ヴェラと名乗ったこと。その名で、人を集める話に乗ったこと。
ロウラはナザルを見て、カッシウスも見た。
「二人で同じ夢を見たんじゃねえのか」
「俺も、その方がよかった」
カッシウスの返事に、ロウラは黙った。冗談を言っている顔ではなかった。
「あたしたちも、入るって話か」
「灯火団は戦いと護送を引き受け、給金を払う。教団は、町に残る人たちが寄付で食事と手当てを続ける組織だ」
ナザルが倉庫を指した。
「入るかは本人が決める。あんたを勝手に信徒の帳面へ載せたりはしない」
「神様のために殴れって言われても、あたしは行かねえぞ」
「あんたは引き受けた仕事をしてくれ。その先で金と人を集めるのは、俺の仕事だ」
ロウラは倉庫を見た。炊き出しの女たちが、朝の鍋へ水を入れている。
「食いに来た奴から、麦代を取るのか」
「取らない。出せる者から寄付を集め、使い道も知らせる。この仕事を、ほかの町へ広げたい」
ロウラは縄を結び終えた。
「なら、そいつらにも聞け。名前を変えたら、余計な仕事が増えるんじゃねえのか」
ナザルが頷く。
声を掛けると、世話役の女は鍋のそばから離れずに聞いた。
「炊くのは、前と同じでいいんだね」
「はい。信じたい者が集まる教団にしますが、食事も手当ても、信じるかどうかで分けません」
「祈りのことまで、あたしたちが教えるのかい」
「初めからできるとは思っていません。まずは、人を迎える場所を続けてください。ほかの町とつなぐ仕事は、俺たちがやります」
女は隣の者と顔を見合わせた。
「それなら、手は貸せるよ。ここの寄付を、よその戦の金に回さないでおくれ」
ナザルはカッシウスを見た。
「帳面は分けよう。傭兵団の金と、教団の金を混ぜないように」
「集めるときに、何へ使うかも言っとけ。配る麦なら麦だ。運ぶ費用も要るなら、先にそう言え」
カッシウスが二冊の帳面を机へ並べた。ナザルは女へ向き直り、その違いを一つずつ説明した。
診療助手のマティアも、布を畳む手を止めて聞いていた。
「手当てを受けに来た人に、奇跡で治すとは言わないでください。薬も、水も、寝かせる場所も要ります」
「承知した。必要な物と数を、今までどおり知らせてくれ」
ナザルの返事に、マティアは頷いた。近くの女へ、洗った布を干す場所を示す。教団の話をしている間にも、次の手当ての用意は進んでいた。
*
朝食の前、救援所へ手伝いの者と商人が集まった。
ナザルが机の前へ立つ。ロウラは女たちと椀を並べた。
「ここで始まった仕事を、カンディアだけで終わらせたくありません」
ナザルは、入口に掛かった灯火団の布を示した。
「ヴェラの名の下で、人を迎え、食べさせ、手当てする場所を増やします。《ヴェラの灯火教団》。その最初の場所を、ここに」
ざわめきの中で、男が一人、手を上げた。
「信徒にならなきゃ、ここの手伝いもできないのか」
「そんなことはありません。信じるのも、手伝うのも、自分で決めてください」
ナザルが答えると、男は手を下ろした。
「なら、俺は荷運びを続ける。祈り方は知らんからな」
近くの者が笑った。別の女は入口へ手を合わせ、小さく女神の名を呼んだ。隣では、子供がパンを見つめている。
世話役の女がナザルへ言った。
「それで、何からすればいいんだい。挨拶か、祈りか」
パン籠の前で、人が止まっていた。話が終わるのを待っている。
「祈る前に、パンを配ってください」
ナザルが自分で籠を持ち、先頭の子供へ一つ渡した。
女たちが動き出す。椀に粥がよそわれ、パンが配られた。手を合わせていた女も袖をまくり、運ぶ側へ回る。
ロウラは二つの椀を老人の前へ置いた。隣で寝ている妻の分だという。老人は妻の肩へ手を添え、温かいうちに食べようと声を掛けた。
その横で、少年が紙に羽根を走らせていた。
灯火団の厩番になったジュリウスだ。馬の世話を終え、そばにいたカッシウスへ、書いた言葉を見せる。
「聞いたとおりに、書けました」
《校正の羽根》。乱れた字を整えるだけでなく、聞いた言葉を正確に書き取るレリックだ。
紙には、ナザルの言った一文が残っていた。
「祈る前に、パンを配ってください」
カッシウスが、字を指で辿る。
「こいつは残しとけ。何する連中か、分かりやすい」
「はい」
「その次は、『こいつは残しとけ』でいいですか」
「俺のは書かなくていい。いま大事なのは、そっちだ」
カッシウスがナザルの言葉を指した。少年は羽根を止め、紙を丁寧に畳んだ。
ジュリウスは紙を上着へ収め、桶を取りに戻った。ナザルは寄付を持ってきた商人へ、名前と使い道を確かめている。女神を見た者は、二人のほかにはいなかった。
その商人は、寄付の話が済んでも帰らなかった。
「俺の次の荷も、護ってもらえないか。街道は通るようになったが、その先も運ぶんだ」
ナザルは、カッシウスへ別の紙を出させた。
「そちらは灯火団の仕事として。荷の数と、日取りを聞かせてください」
ナザルが書き留めた話を、ロウラへ持ってくる。出発先と運ぶ物を聞き、ロウラは詳しい道をあとで教えるよう言った。
商人を送り出すと、カッシウスがナザルの横へ立った。
「もう仕事が来たな」
「次の町でも寄付と仕事を集める。ここからが稼ぎどころだ」
ナザルは次の紹介状を指で叩いた。さっきまで何度も手を拭っていた男が、今は商人の名と荷の行き先を確かめている。ロウラは二人の向こうで、朝飯を食べる人々を見た。
*
出発の支度が整うころには、朝食の列も短くなっていた。
ロウラは荷車へ乗る前に、倉庫を振り返った。世話役の女が、次の鍋へ豆を入れている。
「夕飯も、炊くんだな」
「そうだよ。今夜の分はある。明日の分も、買い付けを頼んであるよ」
ロウラは頷いた。荷台へ手を掛け、足を上げる。
カッシウスが、紹介状をナザルへ渡した。
「次の商会で会わせたい客、ガイウスって奴だ」
「商人なのか」
「レリスタ東部の傭兵隊長だ。商隊の護衛を請け負ってる。今回は隊の麦を買い付けに来た」
自分たちと同じ、荷を護って金を得る仕事だ。どの道を通り、何人を率いているのか、ロウラはまだ知らない。
ロウラは二人を見た。
「そいつも、食わせる相手がいるのか」
「ああ。あいつらが護る商隊も、この街道を使う。誰がどう道を開けたか、聞きてえんだとよ」
ナザルが紹介状を上着へしまった。
「会おう。こちらにも聞きたいことがある」
荷車が動き出した。
救援所の入口で、人々が手を振る。その上の布は、町に残った。




