第58話 二人だけの来客
「明日の朝も、食べてから発ちなよ」
炊き出しの女が、椀を集めるロウラへ言った。
カンディアを発つのは明朝だ。西の救援所には、まだ夕飯を食べている者がいる。倉庫の奥では子供が寝息を立て、戸口では、今日集まった豆を女たちが分けていた。
入口の上には、灯火団の印を描いた布が掛かっている。
ナザルは壁際の机で帳面を閉じた。
「明日からの受け取りも、この帳面へ。金を出した商人には、使い道を知らせてください」
世話役の女が帳面を抱えて去る。カッシウスは、ナザルの前へ紙を二枚置いた。商人に書かせた紹介状だった。
「一枚は次の町の宿だ。もう一枚は麦を扱う商会。お前に会わせたい奴がいるってよ」
「その商会は、どのくらい持ってる」
「会う前から、それか」
「金も人も欲しい。飯を配って褒められるだけで、終わる気はねえ」
ナザルが紹介状へ手を伸ばした。
指が止まった。
吸う息が、浅い。
胸を押しつけられたように、吸いかけた息が喉で詰まった。上着の中の鈴へ手をやる。指先が震え、布ばかりを掴んだ。
机の向こうに、女が立っていた。
いつ来た。
入口は見えていた。誰が通っても、机の横を抜ける足音がした。だが、目の前の女が来たところだけ、覚えがない。
カッシウスの笑みが消えた。
鎌へ手を掛け、ナザルの斜め前へ出る。いつものように気軽には動かなかった。靴底を地面へ押しつけ、一歩ずつ立つ場所を変えた。
女は、二人を見て笑っている。
ナザルは鈴を掴もうとした。鳴らして、誰を呼ぶ。何が来たと言えばいい。カッシウスの背中から、視線を外せなかった。
近くで、鍋の底をこする音がした。
「豆は、こっちの壺へ入れとくよ」
女のすぐ脇を、町の男が壺を抱えて通った。肩が触れそうな近さだ。男は女へ目も向けず、棚の前へしゃがんだ。
ナザルは、その背を見た。
なぜ、普通に歩ける。
目の前の女へ視線を戻すと、膝の裏が冷たくなった。女は何も持っていない。それでも、こちらの命をどうにでもできる相手だと、身体が決めつけていた。
「お前にも、見えてるな」
ナザルの低い声に、カッシウスが短く答えた。
「ああ。目の前の女だ」
女が首を傾ける。
「二人とも、いい顔をするのね」
柔らかい声だった。耳へ触れるほど近く聞こえた。
「何者だ」
カッシウスが尋ねた。鎌へ掛けた手は動かない。
「ヴェラよ」
女は、名前だけで十分だと言うように微笑んだ。
「女神、と言った方がいいかしら」
ナザルの喉が動いた。
女神ヴェラ。名乗りを聞いても、カッシウスは鎌から手を離さなかった。ナザルも頭を下げず、机の縁へ指を掛けた。
「そこの桶、取っておくれ」
横から声がした。
配膳の女が、濡れた布を両手に持って立っている。ヴェラを見た様子はない。ナザルへ、もう一度桶を指した。
カッシウスが鎌の柄から片手を離し、足元の桶を渡した。
「助かったよ。あとで二人とも食べに来な」
女は水を汲みに行った。
「周りに何をした。誰も、お前を見てねえ」
カッシウスが問うと、ヴェラは桶を運ぶ女を一度見送った。
「今夜は、あなたたちに会いに来たの」
何をしたかの答えにはなっていない。カッシウスはナザルの前を離れなかった。
ナザルは、遠ざかる足音を聞いた。二人の肩だけが固まり、救援所の仕事は少しも止まっていない。
「俺たちに、何の用だ」
声を出すと、舌が乾いていた。
ヴェラは紹介状へ目を落とした。
「欲しいものの続きを聞かせて。金と、人。その先は?」
「聞いてたのか」
「ええ」
ナザルは口を閉じた。取り繕っても、この女が帰る気はしなかった。
「偉くなりたい。領主に呼びつけられて、安い仕事を回してもらう側は終わりだ。向こうから金と人を出してくれと、俺に頭を下げるようにする」
カッシウスが、女の足元を見ている。逃げる道を探しているのか、踏み込む場所を測っているのか、ナザルには分からなかった。
ヴェラは、少し身を乗り出した。
「いいわ、それ、すごくいい」
褒める声に、ナザルの背筋が強張った。
「だったら、私の名で教団をつくってみたら?」
ナザルは、女の顔を見た。
「教団だと?」
「この町だけで終わらせたくないのでしょう。あなたの話を聞いて、同じことを始める人を増やせばいいわ」
ヴェラが入口の布を見た。
「あの印がある場所へ、人が来る。ここでしていることを、別の町でも続けられるようにするの」
ナザルは布へ目をやり、すぐに女へ戻した。目を離している間に何をされるか、分からなかった。
「それは、灯火団の名前でもやってる」
「ここに残る人たちも、傭兵団の団員にするの?」
奥で、寝ている子供の毛布を直す手が見えた。鍋を見ている者も、布を洗う者も、武器を持ってはいない。
「戦う人と、ここで暮らす人。それぞれのまま、同じ名の下に集まれる場所をつくるのよ。私を祀って、人を迎えて、食事や手当てを続ける場所。あなたは、そこを始めた人になる」
ナザルは、町に残る世話役の顔を見た。兵にする話なら断られる。だが、女たちはもう、灯火団の印を掲げて仕事を続けたいと言っている。その結びつきへ、女神の名と、信じる場所を加える話だった。
ナザルは、机の上の紹介状を押さえた。
傭兵団へ仕事を持ってくる者だけを相手にすれば、呼ばれる先も限られる。食料や手当てを求める者、寄付を出す者、世話を引き受ける者。それぞれが、別の土地へも名前を運ぶ。
「俺の話を聞く連中が、王国じゅうに増えるってわけか」
ヴェラが頷いた。
「そこへ寄付が集まる。麦を買う商人にも、運ぶ奴にも、俺から話を通せる。領主だって、無視はできなくなる」
言いながら、ナザルは自分の指を見た。紙の端を押さえた爪が、まだ震えていた。
「だが、俺はお前を拝む気なんかねえぞ」
女は笑みを深くした。
「それも、好きよ」
カッシウスが間へ声を入れた。
「で、お前の取り分は何だ。俺たちを儲けさせに来ただけじゃねえだろ」
ヴェラの目が、鎌を握る手へ落ちた。
「私の名を広めて。あなたたちが何を手に入れて、何をするのか、見せてほしいの」
「後から別の物まで寄越せって言わねえか」
「疑ってくれるのね。そういうところも、いいわ。今夜、誓えとは言っていないわ。欲しいものも、渡したくないものも、二人で考えてみて」
答えは柔らかかった。だが、カッシウスの肩は下がらなかった。
ナザルも紹介状を放せない。
広い土地で人と金を集める。自分がどこかの領主へ取り入るだけでは、届かないところへ届くかもしれない。
その話を持ってきた女が、怖かった。
断ったら、何をする。受けたら、どこまで入り込んでくる。
紹介状に押しつけた手の下で、紙が汗を吸っていた。金の話なら相場を探れる。誰の紹介か、どこで商売をしているかも調べられる。この女には、それを尋ねる足場さえなかった。
「何を信じるかまで、飯と引き換えにさせる気はねえ」
ナザルが言った。
「腹を空かせた奴を追い返したら、ここまで集めた評判が潰れる。飯も手当ても、今までどおりやる。そのうえで、俺の名で集める」
「ええ。あなたが欲しいもののために、続ければいいわ」
ヴェラが、カッシウスの脇から一歩近づいた。
彼の靴が地面を擦った。追って身を寄せたが、鎌を上げる腕は途中で止まった。
ナザルの耳元に、女の声が触れる。
「もっと、欲しがって」
吐息まで感じる距離だった。
ナザルは動けなかった。机の縁へ、爪が食い込んでいる。
「おい。椀、冷めるぞ」
ロウラが二つの椀を持って来た。
女神の脇を通り、机の空いた所へ置く。ヴェラに顔を向けることさえなかった。
「豆が残ってる。食わねえなら、あたしがもらう」
ナザルは口を開いたが、声が出なかった。
カッシウスが、ようやく答えた。
「食う。置いとけ」
ロウラは頷き、鍋の方へ戻った。肩のリネアが鼻を動かしている。猫まで、女神を見なかった。
呼べば、ロウラは戻る。だが、何も見えない相手の前へ立たせて、何をさせる。ナザルは椀へ伸ばしかけた手を止めた。カッシウスだけが、同じ相手を見ている。
ナザルが目を戻すと、耳元にいた女は、入口の脇まで離れていた。
「返事は、急がなくていいわ」
その手前を、桶を抱えた女が通った。
ナザルの視界が一瞬、桶で隠れた。
次に見えたのは、向こう側の倉庫の柱だった。
ヴェラはいなかった。
胸へ空気が入った。ナザルは机へ両手をつき、咳き込んだ。横で、カッシウスが鎌から指を離している。関節が白くなっていた。
「……消えたか」
「ああ」
カッシウスが入口と倉庫の奥を見た。近くの誰も、二人へ説明を求めなかった。
ナザルは椅子へ座った。膝が震え、立っていられない。
カッシウスもすぐには座らず、机の横に立っていた。
「話に乗るのか」
ナザルは返事をしなかった。
紹介状の隣に、ロウラの運んだ椀がある。豆の浮いた粥は、まだ湯気を上げていた。
「まず、条件を決める。俺たちが何を約束できて、何を渡さねえか」
ようやく、そこまで言った。
カッシウスが頷く。机を挟んで座り、鎌を手の届く所へ置いた。
ナザルは椀を両手で包んだ。
その温かさが分かるまで、しばらく時間がかかった。




