第57話 麦の行く先
カンディアの東門を、麦の荷車がくぐった。
ロウラは荷台から身を起こした。壊れた門扉は脇へ寄せられ、通りには、まだ黒く焼けた柱が残っている。
荷を待っていた男が走り寄り、袋の端を掴んだ。
「うちの印だ。これ、うちの麦だ!」
男が袋へ額をつけた。隣の女が背中を叩き、笑いながら何か言っている。ロウラには聞き取れなかった。
車輪が止まる。
「荷を下ろすのは、持ち主を確かめてからだよ。足元を空けとくれ!」
カンディア領主フラウィアが、集まった人々を左右へ分けた。リネアが勝利を知らせてから、町の兵と荷車を古砦へ送ってくれたのだ。
その兵たちが、捕虜を連れて後ろから入ってくる。
鉄牙団の首領グラトスは、藁を敷いた別の車に寝かされていた。副長ブレンノと弓兵隊長ニケラも、縄を掛けられた団員たちとともに町の兵へ渡される。三人のレリックは、捕虜から離した箱に収めてあった。
フラウィアは、首領の顔を見た。笑っていなかった。
「怪我の手当ては続けておくれ。そのうえで、牢へ。話を聞く相手は、この町に大勢いるからね」
町の兵が頷き、車を引いていった。
ナザルが、回収した品の控えを差し出す。
「麦袋の印と数はここだ。兵舎にあった金や品物も、別にしてある」
「こっちで被害の届けと合わせるよ。持ち主の分からない物は、調べるまで預かる」
フラウィアは書役へ紙を渡し、ロウラの前へ戻ってきた。
「お前さんは、こっち。まず座って食べな」
「荷は」
「人足がいるよ。お前さん、その手で袋を持つ気かい」
包帯の巻かれた拳を見られ、ロウラは手を下ろした。
椅子に座らされる。膝へ降りたリネアまで覗き込まれ、猫の翼が開きかけた。
「あんたの分もあるよ。逃げなくていい」
「ぼく、逃げてないよ」
小机に椀が置かれた。ロウラが匙を握ると、指の節が痛んだ。
フラウィアは椀の下へ折った布を挟んだ。片手で食べても、椀が滑らなくなる。
「握るのは、腫れが引いてからにしよう。今は食べとくれ」
「まだ、握るつもりか」
「もちろんだよ。よく働いて帰った手じゃないか」
ロウラは包帯へ目を落とした。殴ったときの痛みが、指の奥に残っている。だが、ここでは拳を握らなくていい。匙を持つだけの力で、もう一口すくった。
湯気の向こうで、人足たちが次の車を迎えていた。
*
翌朝、穀物倉庫の軒下に、長机が戻された。
ナザルの前へ、フラウィアが金袋を置く。
「街道を開けた報酬だ。約束どおり、灯火団へ払うよ」
ナザルが金を数える。カッシウスは横から覗き、口元を緩めた。
「こっちは、ようやく俺たちの金だな」
「使う前に数えさせろ」
回収した金品は、町へ預けてある。二人は今受け取った袋を閉じ、補給役のセヴァンが持つ帳面へ、金額を書き留めた。
そのあと、セヴァンが別の袋を机へ置いた。ガルダ砦で押さえた軍用金だ。
「こちらで、最初の十日分を。八十人分、予定どおり買います」
「ああ、もう揃えてあるよ」
フラウィアが倉庫を示した。
昨日取り戻した袋は、向かいの広場で持ち主へ返している。いま人足が倉庫から運び出しているのは、灯火団が新たに買う麦だった。
広場では、書役が袋の印を読み上げ、持ち主が数を確かめていた。受け取ると、すぐ車へ積み直す者もいる。売り先で待つ人がいるのだ。
「次も十日後。それから先も、十日ごとに荷を揃える。代金は便を出す前。護衛はそっちだよ」
王妹ヴァレリアが頷いた。
「ああ。初便は、緋環隊から護衛を出す。次からはガルダの守備兵を交代で出す。その指示も一緒に送る」
カッシウスが書状を畳み、運び役の商人へ渡した。
「これを砦の指揮官へ。届けた印と返事は、帰りの便で持ってこい」
ロウラは、積まれていく麦を見た。
砦を出たときは、買って帰れば済むと思っていた。だが、一度運んでも、食べればなくなる。次の荷を運ぶ者と、道を守る者が要る。
いまは、その次まで決まっている。
「着いたら、砦でも数えさせろよ」
「受け取りも帳面に残してもらいます」
セヴァンが答え、最後の袋を数えた。
軒下へ、麦を返してもらった男が来た。昨夜、袋へ額をつけていた男だ。
「礼を言ってなかった」
「戻ったか」
「ああ。全部じゃないが、売れる分が戻った。これで人足の給金を払える」
「払ったら、また麦を売らなきゃな」
「ああ。次も働いてもらわなきゃならん」
男は広場へ目を向けた。人足たちが明日も働き、給金を受け取るための麦が戻ったのだ。
男は後ろを振り返った。袋を担いだ若者が、こちらへ片手を上げる。
ロウラも、包帯の巻かれた手を上げた。
*
その日の昼前、出発する荷車の前で、少年が馬の首を撫でていた。
灯火団の厩番になったジュリウスだ。ロウラたちが砦から戻ってからも、馬の世話と水汲みを続けている。
「その縄、もう少し短くしてください。歩くと脚に触ります」
御者が縄を結び直した。少年は馬の横を何歩か歩き、脚に触れないのを確かめた。
「大丈夫です」
「よし。ジュリウス、こっちも見とけ」
カッシウスに呼ばれ、少年が次の馬へ走る。前より大きな声で返事をした。
護衛の緋環隊が、荷車の前後へ分かれた。隊を率いる古参隊長アウルスは町に残り、送り出す兵の肩を叩いている。
「届けたら帰ってこい。道中、馬も人も休ませろ」
アウルスは出発する者を一人ずつ呼び、返事を聞いた。何度も戦った古参も、若い兵も、同じように名を呼ばれて顎を上げる。最後の一人へ、老隊長は水袋を渡した。
兵が頷いた。
荷車が動き出す。
ロウラは道の端へ立った。車輪が一つずつ、門の敷居を越えていく。もう、積み終えたまま止まってはいない。
ガルダ砦には、八十人いる。
寝台の上から手を振っていた男も、あの中にいる。
ロウラは荷車が小さくなるまで見送った。
*
便を見送ったあとも、灯火団はカンディアに留まった。
ロウラは手当てを受け、痛みが引くにつれて倉庫の仕事を手伝った。町では焼けた柱が運び出され、東門の修理が進んだ。
西の空き倉庫では、毎朝、鍋に火が入った。
フラウィアが最初に約束した麦と薪は、もう使い切っている。そのあとは商人の寄付や、麦を取り戻した農家の差し入れでつないだ。足りない分は、集まった寄付金で買った。
ナザルは入ってきた物と使った物を数えさせ、寄付を出した者へ報告した。町へ来る商人の名と、次に通る土地も控えていた。
初便が出て十日後、護衛が戻った。
商人の空車の後ろには、次の護衛を務めるガルダの守備兵がついている。セヴァンが受け取りの書状を開いた。
「全量、届いています」
ロウラは車から降りた兵の方を見た。
「あいつは、歩けたか。赤い布を持ってた奴」
兵が笑った。
「門まで迎えに出ました。団長に、次は荷下ろしもやると伝えてくれって」
「飯は」
「着いた晩に、さっそく炊きました。あの男も、お代わりをしてましたよ」
あのときは、寝台を戸口へ寄せてもらい、手を振っていた男だ。自分の足で門まで歩けた。温かい飯を食い、お代わりまでした。
ロウラは頷いた。
一度、息を吸い直す。
「そうか」
次の麦を積む人足が、空車へ上がった。戻った兵たちには、ジュリウスが水を運んでいる。
ロウラは、もう一度だけ言った。
「……そうか」
*
その夕方、一行は西の救援所の脇で旅支度を始めた。
ジュリウスが、畳んだ毛布を荷車の脇へ置いた。誰かの顔を見ては、小さな包みを抱え直している。
「それ、お前の荷だろ。積めよ」
カッシウスに言われ、少年が顔を上げた。
「一緒に、行くんですか」
「うちの厩番を置いてくわけねえだろ。道中の飯も数に入ってる。セヴァンに聞け」
ジュリウスは包みを毛布で巻いた。結び終えた紐を、何度も引いて確かめた。
炊き出しを続けていた女がナザルを呼び止めた。手には、灯火団の印を描いた布を持っている。
「これ、置いていってくれないかい」
ナザルが布へ目を落とした。
「鍋も、手当ても、あたしたちで続けたいんだ。まだ家へ帰れない人がいるからね。ここへ来れば飯があるって、この印を見て来る人もいる」
倉庫は当分使っていいと、フラウィアにも話をつけたという。
布を持つ指には、煮炊きの煤がついていた。
「灯火団の名前を、使ってもいいかい」
ロウラは手を止めた。まだ家へ帰れない者を、どうするか気になっていた。女の後ろには、洗った椀が明日の分まで伏せてある。
ナザルは女の手を、布ごと両手で包んだ。
「もちろんです。集めた物と使った物は、これからも帳面へ。報告と連絡は、ガルダ宛ての荷便へ預けてください。俺たちも砦を通して受け取ります」
女が大きく頷く。ナザルは、寄付の窓口と留守を預かる者の名前を控えた。
女が布を掛けに離れると、カッシウスがナザルを壁際へ引き、声を落とした。
「俺たちがいなくても、お前の名で金と人が集まるな」
「だから、連絡を切らさねえようにする。ここの商人に紹介状を書かせとく。次の町でも、金のある奴に会う」
ナザルは口元を緩め、また女へ向き直った。
ロウラは、空いた麦袋を畳んだ。
女たちが布を倉庫の入口へ掛ける。風で裏返りかけると、一人が端を結び直した。
鍋の底を混ぜる音は、その間も止まらなかった。




