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第56話 拳の届くところ

「麦なら持っていけ」


 鉄牙団の首領グラトスが、鎚を握ったまま言った。


「兵舎に金もある。お前らで分けろ。俺の道を空けるだけでいい」


 ロウラは足を止めた。


 背後は正門。奥には麦倉。中庭の右に長い兵舎があり、左の石壁沿いでは、近衛と緋環隊が捕虜を縛っている。


 王妹ヴァレリアが、捕らえた鉄牙団の副長ブレンノから目を離さずに声を張った。


「門は渡さない。武器を置け!」


 グラトスの頬が引きつった。ロウラは拳を上げた。


「麦を持って帰る。それから、お前もだ」


「俺を連れていけば、金が増えるのかよ」


「お前が街道に戻りゃ、また誰かが食えなくなる」


 町の倉庫で、肩から血を流していた兵を思い出した。子供を抱えて逃げた女もいた。あいつらから奪った物で、自分だけ助かろうとしている。


 ロウラは、もう金の話を聞かなかった。


 大男の目が、石壁沿いの捕虜へ動いた。ロウラが一歩、そちらとの間へ入る。


 鎚が横へ振られた。実物の鎚に、門扉より大きな赤い像が重なる。《破城の戦鎚》が、ロウラの肩の高さを薙いだ。


 屈んだ頭の上を、熱い風が抜ける。ロウラは前へ出かけ、止まった。鎚を引き戻す柄の端が、鼻先を突いた。


 左拳で払う。黒い罅が走った。その向こうから、肘が来た。


 身を捻ったが、肩を打たれた。二歩下がる。グラトスは追わず、鎚を胸の前へ戻していた。


 大振りのあとを狙えば、短く持った柄が待つ。そこを払っても、まだ身体ごとぶつかってくる。


「どうした。盾はいねえぞ」


 男が笑った。ロウラは口の中の砂を吐いた。盾がいなくても、こいつは強い。


 グラトスが兵舎の方へ足をずらす。ロウラも動き、正面を塞いだ。出口へ戻る道も、兵舎へ逃げ込む道も空けない。


 門から麦倉へ続く石畳の上で、二人が向き直る。


「左へ寄せろ! 捕虜も、味方もだ!」


 門脇のカッシウスが兵を動かした。立てない者には肩を貸し、壁沿いへ運ばせる。ヴァレリアは麦倉の戸口を守る兵にも、柱の陰へ入るよう命じた。


 兵が一人、ロウラの脇へ出かけた。カッシウスが肩を引く。その前を、鎚の先が低く通った。割れた石が兵の盾へ当たる。


「近づくな。槍も届かねえ!」


 ロウラは男の正面へ戻った。鎚がどこへ落ちるか、周りにも見える位置で止める。グラトスも、彼女を通り越して兵を追うほど背中を空けなかった。


 赤い鎚が、今度は頭上へ上がる。ロウラは拳を胸へ寄せた。


 大男の踏み込みと同時に、左へ動く。鎚の軌道が、そちらへ曲がった。


 まだ振り下ろす前だ。ロウラの足を見て、落とす先を変えたのだ。


 ロウラは両腕を上げた。拳の周りで黒い罅が弾けた。赤い像の縁を打ち、身体を押し流されながら、鎚を斜めへ逸らす。


 脇の石畳が爆ぜた。石片が額を掠める。着地した足が滑った。立て直す前に、柄が腹へ伸びてきた。


 腕で受けても、息が漏れた。


 ロウラは後ろへ跳び、ようやく鎚の届かない所まで離れた。左腕が痺れている。息を吸うと、腹の奥が痛んだ。


 グラトスが、鎚を肩へ載せた。


「いつも同じだな。先に逃げる足が出る」


 ロウラは男の手を見た。


 鎚を大きく振るときは、左手を鎚の頭の近く、右手を柄の端へ置いている。振り終わると、右手を左手の近くまで滑らせ、鎚を身体へ引き寄せる。長く余った柄の端が、そのまま相手へ突き出される。


 あの持ち替えが、速い。


 外したと思って飛び込んだところへ、柄が来る。


 町でも、同じ柄に胸を打たれた。鎚を逸らしたあと、自分の拳を引き戻す間に、向こうは次を打ってくる。


 落ちた鎚ばかり見ていた。見なければならないのは、持ち替える手だ。


 ロウラは息を吐いた。次の息を、ゆっくり入れる。今度は、左足だけを外へ向けた。


 グラトスの目が落ちる。柄の端が、先回りして左を塞いだ。ロウラはそちらへ行かなかった。


 右へ踏み替え、伸びた柄の脇を抜ける。拳が大男の腹へ入った。


 黒い罅とともに、男の息が詰まる。ロウラはもう一歩出た。鎚を放した片手が、彼女の右腕を掴んだ。


 引かれる。


 大男の額が、顔へ迫った。ロウラは顎を引いた。額が額を擦り、目の前が白くなる。


 左拳を男の胸へ打ち込み、腕を引き抜いた。グラトスがよろめいた。ロウラも距離を取る。額から流れた血を手の甲で拭うと、赤い筋が残った。


 腹には届いた。だが、あいつはまだ殴り返してくる。片手を鎚から離しても、掴んで引き寄せれば戦える。間合いを詰めただけでは駄目だ。ロウラは男の右手を見た。あれが柄を滑るとき、指が一度、開く。


 舌で歯を確かめた。折れてはいない。


「ロウラ!」


 上からリネアが呼んだ。


 ロウラは顔を上げず、左手を一度開いて見せた。


 まだ動く。目の前の男から、目を離さなかった。


 グラトスも肩で息をしていた。男は唇を舐め、足元の石を踏みしめる。


「ブレンノ!」


 壁際の副長が、縛られたまま顔を上げた。


「見てねえで、こいつを止めろ!」


 返事はなかった。男が、城壁を振り仰ぐ。


 そこにいた弓兵たちは、もう弓を持っていない。


 ロウラは拳を握り直した。町では、殴りに行くたびに邪魔が入った。盾を退けようとすれば、横から火が来た。


 今は、来ない。あの盾の男を止めた奴がいる。上の弓を奪った奴もいる。


 こいつへ届くところまで、みんなで来た。


 グラトスが両手を開き、大きく柄を握った。赤い像が頭上へ膨らむ。下がったロウラを追い、今度こそ叩き潰す構えだ。


 ロウラは右足を半歩引いた。


 男が踏み込む。頭上の赤い鎚が動き始めた。


 逃げるなら、今だ。


 ロウラは退かなかった。


 左足を前へ出す。


 落ちてくる赤い鎚を、左拳で横から殴った。


 黒い罅が、頭上いっぱいに広がった。


 胸を叩く轟音がした。


 足元の石が割れる。左肩から背中へ衝撃が抜け、膝が折れかける。ロウラは歯を食いしばった。


 止めきれない。赤い像が、拳を押し下げてくる。


 それでも、真正面には落とさせなかった。


 鎚が身体の脇を通り、石畳へ叩き込まれた。


 破片が頬を切る。ロウラは、その土煙の中へ踏み込んだ。


 グラトスの右手が、柄を滑る。


 そこだ。


 持ち替えようと開いた手を、右拳で柄へ打ちつけた。


 男の指が跳ね、右手が柄から外れた。短く突き返すはずの柄が、上がらない。


 ロウラは止まらなかった。


 左の拳を、腹へ入れる。


 痺れた腕に痛みが走る。腰を回し、足で地を押した。黒い罅が男の胴の前で弾け、息が噴き出す。


 グラトスの右肘が上がる。ロウラの頭へ、打ち下ろそうとする。


 ロウラは頭を男の胸へ寄せた。


 肘が背を擦る。


 引き戻した右拳で、もう一度、腹を打った。


 大男の身体が、前へ折れた。鎚が手から落ちる。赤い像が消えた。


 ロウラは男の肩を押し、倒れる身体の下から抜けた。膝をついたグラトスが、落ちた鎚へ手を伸ばす。


 ロウラはその手首を踏み、空いた手を掴んで背へ回した。


「もう、殴らせんな」


 男は口を開いた。言葉にならない息だけが漏れた。


「縄!」


 カッシウスが近衛と駆け寄った。鎚を遠ざけ、踏まれていた腕を取る。ロウラは足を退けた。両腕が背で縛られ、脚にも縄が回るまで、手を離さなかった。


 グラトスの胸が、大きく動いた。吸い込んだ息が、咳になって出る。


 生きている。


「手当てしろ。こいつも連れて帰る」


 ロウラの声に、近衛が頷いた。打たれた手を確かめ、手当てを始める。グラトスはまだ金があると唸ったが、立ち上がろうとはしなかった。


 ロウラは男から離れ、ようやく拳を開いた。指が震え、うまく伸びなかった。


 誰も、次の鎚を避けようとはしなかった。


 カッシウスが男の肩を押さえたまま、顔を上げる。


「終わったぞ」


 ロウラは息を吐いた。今度は、腹の底まで空にした。


 石壁沿いで、兵の盾が下がった。一人がその場へ座り込み、隣の兵が肩を叩く。誰かの短い笑い声がした。ロウラも笑おうとして、腹が痛み、やめた。


 *


 王妹の副官サビナが、城壁から鉄牙団の弓兵隊長ニケラを連れて下りてきた。女は縛られた首領を見て、口を開きかけ、閉じた。


 近衛がニケラを石壁沿いへ座らせた。その先にはブレンノ、そして担がれて運ばれたグラトス。三人から離して、奪った鎚と盾と弓を並べる。緋環隊が見張りについた。


 麦倉の戸が開く。


 リネアが屋根の上から、翼を鳴らして降りてきた。


「車もあったよ。町から持ってった、二つとも!」


 ロウラは顔を上げた。


 麦倉の脇に、荷車が二台並んでいた。荷台には麦袋が積まれたままだ。


 ナザルが正門を入ってきた。交渉に使った金袋を、まだ両腕で抱えている。


「買い戻さずに済んだな」


「そっちは、ガルダの麦代だろ」


「分かってる」


 ナザルは兵へ、袋の印を控えるよう言った。持ち主へ返すためだ。自分たちの荷と混ざらぬよう、紙を取り出して数を書き留める。


 ロウラは車まで歩いた。緋環隊の兵が、荷台へ手をついている。別の兵が落ちた袋を拾い、二人で積み直した。


 町へ持って帰れる。


 町の鍋に使う分も、ガルダ砦へ送る分も、あの町で買って、この道を通せる。


 ロウラは荷台へ腰を下ろした。


「……腹、減った」


 リネアが膝へ降りた。彼女の手に触れないよう、そっと丸くなる。


「ぼくも」


 ロウラは、震えの残る両手を膝の上で休ませた。

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