第53話 礼はいらない
「礼はいりません。熱いうちに食べてください」
ナザルは両手で椀を渡し、腰を折った。
昨日の火事で家を焼かれた女が、椀へ顔を寄せる。粥の上に、刻んだ菜が浮いていた。隣に座った子供が匙を伸ばすと、女は少し笑い、先に食べさせた。
ロウラは空の麦袋を畳んだ。
町の西の空き倉庫が、今朝から炊き出しと手当ての場所になっている。昨夜は壁にもたれていた人々が、今は鍋をかき混ぜ、布を洗い、寝たきりの者へ水を運んでいた。
麦袋を脇へ置き、ロウラは火元へ戻った。鍋の底を柄杓でこすると、粥の固まりが剥がれた。
「次の鍋は、あたしが見るよ」
煮炊きを引き受けた女が柄杓を取った。ロウラは鍋の底を指す。
「焦げつきかけてる。ここを混ぜろ」
「あんたも座りな。さっきから一口も食べてないだろ」
別の女が背後から椀を渡し、男がロウラの座る場所を空けた。
火が消えれば済むと思っていた。だが、家をなくした者は、今朝も腹を空かせている。寝ている怪我人も、明日になれば歩いて帰れるわけではない。
カンディア領主フラウィアが、補給役のセヴァンと帳面を見ていた。
「今日と明日の朝夕、この人数に食べさせる麦と薪は出す。その先は、集まった物を数えてからだ。畑へ出る連中の分まで、ここへ運ぶわけにはいかないからね」
「町の商人が、油を二壺出してくれました。豆を持ってくるという人もいます」
セヴァンが帳面へ書き足す。フラウィアは頷き、鍋を見に行った。
「怪我人の水は、こっちの桶だよ。飲む水と、布を洗う水を混ぜないようにね」
手伝いに来た男が桶を運び直した。包帯を巻かれていた老人が、自分の足元の空椀を集め始める。誰かが立つたび、できる仕事が一つずつ渡されていた。
ナザルの前へ、小さな銭袋が置かれた。
「街道で足止めを食ってる商人の分だ。手当てに使ってくれ。うちの荷役も、昨日運んでもらった」
ナザルは袋を受け取り、持ち主の手を握った。
「お名前と宿を。何に使ったか、後でお知らせします」
男が名を告げる。ナザルが復唱すると、周りからも布や薪を出すという声が上がった。
ロウラは、温かな椀を両手で持ち直した。
昨夜、鍋は二つだった。今朝は四つある。
*
食事を終え、ロウラは桶を返しに馬のいる空き地へ行った。カッシウスが腹を抱えて笑っている。
その前に、昨夜から厩番として加わった少年ジュリウスが立っている。
「もう一度やれ」
「でも、怒られませんか」
「俺が聞きたいんだ。やれ」
少年は背筋を伸ばした。顎を少し引き、両手で見えない椀を持つ。
「礼はいりません。熱いうちに食べてください」
ロウラは、脇道の方を振り返った。
声だけなら、ナザルがそこにいる。最後に息を抜くところも、腰を折って相手の顔を下から見る仕草も、さっきと同じだった。
カッシウスが、また笑った。少年は声まねを続ける。
「お名前と宿を。何に使ったか、後でお知らせします」
今度は少年が、見えない手を両手で包む。
「そこまで似せなくていい」
本物のナザルが、脇道に立っていた。ジュリウスの肩が跳ねる。
「すみません!」
「俺がやらせたんだよ。気にすんな」
カッシウスが肩を叩くと、少年は馬の方を見た。
「馬に声をかけるのも、前の厩の人を真似してたんです。怒鳴る人より、ああいう言い方の方が、よく聞くから」
「人間も、だいたい同じだ」
カッシウスは少年の顔を見た。
「見てたこと、よく覚えてるな」
「桶を返しに行くたびに、あそこで同じことを言ってたので」
ナザルが銭袋を上着へしまいながら、ロウラへ言った。
「鍋は町の女たちが見る。お前は、砦からリネアが戻ったら呼んでくれ」
リネアは今朝、鉄牙団が居座る東の古砦へ偵察に出ていた。
ロウラが倉庫へ戻ると、ジュリウスも井戸へ水を汲みに出た。
*
空き地の壁際で、カッシウスがナザルの上着を指で叩いた。
「麦は領主が出す。世話は町の連中がする。礼はお前が言われる。金まで集まったな」
「手当ての布と薬を買う。使い道は帳面へ残させる」
「それだけか?」
ナザルは倉庫の方を見た。商人が一人、鍋を運んできている。
「銭袋一つで満足する気はねえ。欲しいのは、俺の名を聞けば金を出す商人と、俺の言うことを聞く連中だ」
「飯を食わせて、増やすわけだ」
「飯も手当ても、きちんとやれ。助かった奴は、こちらから言わなくても評判を広める。別の町へ行っても、最初から頭を下げて仕事を探さずに済む」
カッシウスの口元が上がった。
「みんな、お前が善人だからやってると思ってるぞ」
「思わせておけ。俺は金が欲しいし、偉くなりたい。いずれは領主どもに、俺の機嫌を取らせる」
「いいねえ。お前の話に乗りたい金持ちが、他にもいねえか探しとく」
二人は倉庫へ戻った。
*
昼過ぎ、リネアが東の街道から戻った。
「砦の奥に、大きい麦倉があるよ。盗った荷車の袋、そこへ運んでた。裏の石垣は低いの。木が生えてる方」
長机に集まった者たちが、顔を寄せた。
カッシウスが紙を広げる。その端へ、ジュリウスが炭を持って近づいた。
「描いても、いいですか。言ってる場所が、分かるように」
「お前、見てねえだろ」
「だから、教えてもらいながら」
カッシウスは紙を寄せた。
「門と麦倉は、どう並んでる」
「街道を行くと正門。その上に弓の人がいた。門の向こう、一番奥に麦倉があるよ」
ジュリウスが、紙の手前へ門を描いた。その奥に麦倉。麦倉の裏へ低い石垣を引き、その外に木立の印をつけた。
「石段はここ。門の内側から、上へ行けるよ」
猫の前足を避けながら、少年が線を足した。
途中で、一度炭を止める。
「門から麦倉まで、間に建物はありますか」
「門から奥へ進むと、右に長い兵舎。左は壁で、途中に薪が積んであるの」
皆が同じ場所を指せるようになった。少年は知らない所を空けたまま、聞き取った形を確かめていた。
「裏にも見張りはいるか」
カッシウスが訊く。
「二人で壁の上を歩いてた。ずっと同じ所にはいないよ」
「なら、先に木立へ隠れる。向こうが通り過ぎたところで、石垣へ出る。中にも兵はいる。越えた後は、麦倉まで戦って進むぞ」
ロウラは絵図へ顔を寄せた。字を読めなくても、この絵なら門と麦倉の位置が分かる。
昨日、鎚を弾いた拳を、盾に阻まれた。横へ回ろうとすれば炎が来た。あの三人を、互いに手の届かない場所へ離す。そのための道が、紙の上へ現れていた。
王妹ヴァレリアが、低い石垣の印へ指を置いた。
「ここから越えられるか」
「縄と鉤があればな。木立までは隠れて寄れる」
カッシウスが頷いた。
「正門では、ナザルに麦の買い戻しを持ちかけてもらう」
ナザルが金の袋を机へ置いた。
中身は、ガルダ砦で押さえた軍用金の一部だった。
「麦を買い戻す。値段は首領と決めると言って、金を見せる」
「あいつら、あたしたちの顔を見てるぞ」
「だから話が通る。町を守ったが、麦を奪われた。飢えさせるくらいなら金を払う。困って来たように見せるんだ」
「金も持って帰れよ。ガルダの麦を買う分だ」
ロウラが袋を指すと、ナザルは口を結び直した。
「分かってる。渡すところまで話を進める気はねえ」
カッシウスが、門から木立の印へ指を動かした。
「正門はナザルとロウラだ。俺と近衛は門脇に控える。王妹と緋環隊は、裏の木立で待て。首領と盾の男が門前へ出てきたら、リネアが裏へ合図を運ぶ。それを待って石垣を越え、麦倉を襲う」
ロウラは、袋から絵図へ目を移した。
「また三人まとめて相手にすんのか」
「しねえよ」
カッシウスが、正門と麦倉を順に叩いた。
「麦を失えば、奴らの儲けが消える。首領は麦倉を守るため、盾の男を戻すはずだ。そこで二人を引き離す」
「首領も戻ったら?」
ヴァレリアが訊いた。
「盾が離れたら、あたしが鎚の奴を押さえる。麦倉へは行かせねえ」
ロウラが答え、右手を曲げ伸ばしした。
ヴァレリアも顔を上げた。
「あたしと緋環隊で、麦倉を取る。盾の奴が来たら、こっちで止める」
ヴァレリアが、緋環隊の古参隊長アウルスへ目を向けた。老兵は麦倉と石垣の間を確かめ、頷いた。
「剣を振る場所は、ありそうですな」
「麦へ火をつけさせるなよ。あれを取りに行くんだ」
「弓の女は?」
ロウラが訊く。カッシウスは城壁を指した。
「盾の男が戻るとき、門が開く。俺と近衛がそこへ入って、門前の団員を押し返す。サビナたちは、その間に内側の石段を上がる」
王妹の副官サビナが頷き、石段までの線を指でなぞった。
「門へ寄るまでが危ない。弓兵の位置は、リネアに知らせてもらう。門の外にある石塀の陰を使って進む」
「ぼく、上から見てる。あの女の人が移ったら、すぐ言うね」
ジュリウスは正門の外へ石塀を描き足した。皆の指が、自分の描いた道を辿っている。
「これ、使えるんですか」
「使ってるだろ。見りゃ分かる」
カッシウスの返事に、少年の頬が緩んだ。
ロウラは、麦倉の四角を指した。
「ここは燃やさねえ。袋の持ち主が、町で待ってる」
ナザルが金袋の口を結んだ。倉庫の外では、次の鍋へ薪を足す音がしている。明日も炊くという女の声に、別の者が返事をした。
ロウラは机から手を離した。
「明朝、行くぞ。ここの鍋も、ガルダ砦の飯も、止めさせねえ」




