第52話 名前と寝床
「奥に、誰か残ってるか!」
ロウラは倉庫の戸口から声を張った。
「もう、いません!」
中を確かめていた人足が、煙の向こうから這い出した。ロウラは脇を抱えて立たせ、待っていた兵へ渡す。
屋根の縁では、日除けの残りが燃えていた。ロウラは近くの長柄の鉤を取り、火のついた布を引き落とした。背後から渡された水を、壁際の木箱へ浴びせる。
「井戸から二列だ! 水の入った桶と、空の桶を分けて渡せ!」
ナザルが人足を並べていた。町の西にある井戸の広場から、倉庫の脇へ水が運ばれてくる。カンディア領主フラウィアは、裏口に溜まった人々を広場へ出し、動ける者をその列へ加えた。
さっきまで逃げていた男が、桶を受け取った。空いた手で次の者を呼ぶ。ロウラへ届く水は、途切れなくなった。
まだ火は消えていない。だが、入口へは近づける。
ロウラは濡らした布を柱へ押し当てた。
「馬が来るぞ!」
広場の端で、男が叫んだ。
盗られずに残った荷車の馬が、炎に怯えて首を振っていた。手綱を持とうとした御者が、傷めた腕を押さえて膝をつく。
荷台には麦袋が高く積まれ、縄が張っていた。馬は背後の火から離れようと、西へ首を向けた。
車輪が動いた。
広場の西端で道が分かれていた。正面は、避難した人々のいる井戸の広場へ続く。右の脇道は、薪を積む空き地へ通じていた。
「道を空けろ!」
ロウラが走りだす。その前で、荷車の脇にいた小さな人影が跳んだ。
十三歳ほどの少年だった。荷台の縁を掴み、車軸へ足を掛ける。身体を引き上げた直後、車輪が回る速さを増した。
少年は麦袋にしがみつき、荷台の前へ這った。
手綱の端が、荷台の前板に引っかかっていた。少年は麦袋の縄を片手で握り、もう片方の手を伸ばした。
馬が走りだす。
正面の道の入口で、子供を抱いた女が壁へ寄ろうとして転んだ。その後ろの老人も、立ち止まる。
カッシウスが女の腕を引き、道の脇へ押し込んだ。
少年が手綱を掴んだ。
通りの両脇には、逃げる人々が寄っていた。馬より前へ出ようにも、横をすり抜ける隙間がない。ロウラは荷車の後ろを追った。
「右! 誰もいないよ!」
先へ飛んだリネアが叫んだ。
少年は右の手綱を引き、馬の首を脇道へ向けた。
「こっち。大丈夫。こっちだよ」
馬は広場を斜めに横切り、少しずつ向きを変えた。少年は急に曲がらせず、大きな弧を描いて脇道へ導く。麦袋がずれたが、荷台は傾かなかった。
人々のいる道を外れ、馬が脇道へ入る。
ロウラも角を曲がった。空き地には、壁沿いに薪の山がある。中央は、荷車を回せるだけの広さが空いていた。
少年はそこを大きく回った。
火が見えなくなっても、馬はすぐには止まらない。少年は空き地を回りながら、少しずつ手綱を短く持ち直した。声をかけ続け、走る速さが落ちるのを待つ。速歩になり、やがて蹄の音が一歩ずつ離れた。
やがて、馬が止まった。
ロウラも足を止め、肩で息をした。
カッシウスが脇道から来て、馬の横へ回った。少年から手綱を受け取り、壁の杭へ結ぶ。
「よく曲げたな。もう止まった。降りてこい」
少年は返事をしなかった。
少年は両手で荷台の縁にしがみついていた。片足を外へ出しかけ、引っ込める。
「……足が、動きません」
膝が震えていた。
ロウラが荷台の脇へ立つより先に、カッシウスが両腕を伸ばした。
「こっちへ倒れてこい。落とさねえよ」
唇の端まで震えていた。馬を動かしていたときの声は、もう出ない。カッシウスは急かさず、少年がこちらへ身体を預けるのを待った。
少年が荷台の縁から手を離し、身体を前へ傾けた。カッシウスは脇と膝の下を支え、地面へ降ろす。足がついても立てず、そのまま車輪の横へ座り込んだ。
細い指が、今度は自分の膝を握った。
「止めようと、思ったんです。でも、止まらなくて」
「人のいねえ方へ持っていっただろ。それでいい」
カッシウスの言葉で、少年が顔を上げた。
ロウラも頷いた。
「あの先には、逃げられねえ奴がいた。助かった」
少年は、荷車を曲げた角へ目をやった。ようやく肩の力が抜け、深く息を吐いた。
「馬を、叩かないでください。火が怖かっただけなんで」
「叩かねえよ。水の桶は、どこにある」
少年が空き地の隅の桶を指した。
西の道から、さっき転んだ女が顔を出した。抱いた子供の頭を撫で、少年へ何度も礼を言う。
少年は返事をしようとして、咳き込んだ。それでも、女と子供が帰っていくまで顔を上げていた。
*
夕方には、倉庫の火は消えた。
入口の柱と軒は黒く焼けたが、奥の麦袋へ燃え広がる前に食い止めた。北の店も火を消し、町の兵が焼けた戸板を外している。
鉄牙団は、二台の荷車とともに東の街道へ逃げ去っていた。リネアが上から進路を確かめ、戻ってきた。
王妹ヴァレリアは緋環隊を東門に置き、再び入られないよう見張らせた。壊れた門の前には、空の荷車と瓦礫を寄せている。
ロウラが井戸の広場へ戻ると、負傷者が倉庫の裏壁に沿って寝かされていた。水を運んでいた者も座り込み、互いの顔を見ている。
「家へ帰れないのは、何人だい」
フラウィアが人足に訊いていた。
「焼けた家と、街道から逃げてきた連中を合わせて、まだ数えてるところで」
「家族ごとに確かめとくれ。今夜の麦と薪は出す。寝る場所は、西の空き倉庫を開けるよ。明日の分は、人数を出してからだ」
ナザルが手を上げた。
「鍋を出せる者はいるか。料理ができる奴も来てくれ。子供を見ている者まで、全員で煮炊きすることはねえぞ」
座っていた女が立った。別の男が、鍋なら自分の家にあると言う。空の桶が片づけられ、火を焚く場所が作られていく。
補給役のセヴァンから水を受け取ったロウラは、顔を洗った。煤が黒い筋になって流れた。
「あの小僧は?」
カッシウスが訊いた。
「まだ馬を見てる。歩けるようになったら、すぐ戻ってったぞ」
ロウラが空き地を指すと、カッシウスはパンを二つ取って歩きだした。
*
カッシウスが近づくと、少年は馬の腹を指した。革帯の触れる所が赤くなっている。
「ここ、擦れてます。次に車へ繋ぐときは、布を挟んだ方がいいです」
言ってから、少年は手を引っ込め、声を落とした。
「勝手に触って、すみません」
「さっきは叩くなって言ってたじゃねえか」
「あれは……」
「分かることなら言え。馬が痛い目を見るんだろ」
少年は頷いた。差し出されたパンを見て、汚れた手を服へ擦りつける。
「手は洗え。パンは逃げねえ」
カッシウスが桶を顎で示した。
カッシウスは、少年が手を洗って戻るまで待っていた。
受け取った少年は二口食べると、残りを服へ包もうとした。
「しまうな。全部食え。夜には粥が出る」
少年は服から手を離し、パンへ齧りついた。
「厩で働いてたのか」
「はい。でも、麦が売れなくなって、人を減らすって」
「帰る所は?」
少年はパンの端をちぎり、答えなかった。
カッシウスは馬を見た。
「俺たちの馬も見られるか。何頭かいる。荷車を引くのも、乗るのも」
「見ます」
すぐに返事が来た。
「水も運びます。馬房の掃除も。夜も起きていられます」
「夜は寝ろ。倒れられちゃ困る。飯と寝床は、こっちで出す」
少年の指が止まった。ちぎったパンを、口へ運ばないまま見つめている。
「……ついていっても、いいんですか」
「その話をしてる。で、名前は?」
「厩じゃ、チビって」
「そりゃ名前じゃねえだろ」
「その前は、小僧でした。行く先で呼び方が変わって……自分の名前は、分かりません」
カッシウスは少年を見た。十三くらいだ。背は低いが、これから伸びる。いつまでもチビと呼ぶわけにもいかない。
「名前がねえと不便だろ。ジュリウスでいいんじゃねえの」
少年が瞬いた。
「どうして、その名前なんですか」
「思いついただけだ。嫌なら別のにしろ」
「嫌じゃないです」
今度は、はっきり言った。
「ジュリウスが、いいです」
カッシウスが頷き、残りのパンを自分の口へ押し込んだ。
*
日が落ちる前、灯火団の馬を空き地へ移すことになった。
セヴァンが飼葉を運び、カッシウスが手綱を二本持ってくる。少年は自分の荷物を抱え、壁際に立っていた。
空き地の端には、灯火団の荷車が寄せられている。セヴァンが一台の荷台へ毛布を敷き、少年の荷物を置く場所も空けた。誰の邪魔にもならない所を探していた少年が、その手元を見つめた。
「おい、ジュリウス。こっちも手を貸せ」
少年が辺りを見た。
カッシウスと目が合う。
「お前だよ。馬、見られるんだろ」
「はい!」
駆け寄った顔が、さっきまでと違っていた。手綱を受け取り、馬の鼻先へ手を添える。その口が、声を出さずに自分の名を繰り返した。
その夜、ジュリウスは貰った紙切れを膝へ広げた。
端には、カッシウスに書いてもらった名前がある。それを手本に、懐から出した羽根ペンで、下へ同じ文字を写した。
レリック《校正の羽根》が、震えて乱れた文字を読みやすく整える。
ジュリウス。
紙を近づけ、もう一度読んだ。
馬の足音と、誰かの寝息がする。明日の朝は、その馬に水をやる仕事がある。
ジュリウスは紙を折り、濡れないよう服の内側へしまった。




