第50話 麦を売る条件
「麦なら売るよ。ところでお前さん、その手を見せておくれ」
ロウラは差し出しかけた右手を引いた。
目の前の女は、カンディア領の領主フラウィアと名乗ったばかりだ。恰幅のいい身体に前掛けをつけ、上着の袖を肘までまくっている。領主というより、麦袋を運ぶ連中の親方に見えた。
「手を見て、値段を決めんのか」
「それは麦を見て決めるよ。手は私が見たいだけさ」
フラウィアが身を乗り出す。ロウラは拳を背中へ隠した。
ガルダ砦を出て五日。道中では荷車に乗る時間を減らし、朝夕、踏み込みと拳の稽古を繰り返した。まだ左膝が強張る朝もあるが、続けて動いても足が止まることはなくなった。
手を見せてどうするのか、ロウラには分からなかった。
「握りたいだけだよ。取って食いやしない」
「殴られてえのか?」
「殴る前に、ちょっとだけ」
王妹ヴァレリアが、横で口元を押さえた。
「麦の話に戻ってもらえるか。八十人、砦で待ってるんだ」
「はいはい。王妹様も、お座り。水はそこ。パンも食べとくれ」
フラウィアは椅子と水差しを寄せ、返事も待たずに二人の前へパンを置いた。同行の兵たちへも水桶を運ばせる。ロウラが口を開く頃には、もう人足に次の指示を出していた。
話し合いの場所は、領主館ではなく穀物倉庫の軒下だった。町の東門から大通りを少し進んだ所に、荷捌き用の広場と倉庫が並んでいる。軒下の長机には、帳簿と麦粒を入れた皿が置かれていた。
袋を担ぐ人足。升で麦を量る女。粉を払う子供。誰もが働いているのに、麦を積み終えた荷車だけが動いていない。
「そこのお前さん。さっきから左肩を庇ってるね。次の袋は二人で運びな」
呼ばれた人足が肩へ手をやった。
「給金は減らしゃしないよ。怪我をされる方が高くつく。あとで手も見せておくれ」
男は苦笑し、隣の者と袋を持ち上げた。フラウィアは二人が運び終えるまで見てから、ようやく机へ向き直った。
ロウラは背後の東門を見た。入れてもらった直後に門扉が閉まり、太い横木が渡された。
「町から出す荷は、あそこへ並べとくのか」
「出せないから並んでるんだよ」
フラウィアは机の麦を一握り、ロウラの前へ置いた。
「カンディアで穫れた麦さ。倉庫にもあるし、売りたい農家も商人もいる。だが、街道で荷車が襲われる。麦を盗られて、怪我までして戻ってくるんだ」
「盗賊か」
ヴァレリアが訊くと、フラウィアの笑い顔が消えた。
「《鉄牙団》だよ。元は商隊の護衛をしてた傭兵どもさ。命を張って麦を守るより、麦を奪った方が儲かると気づいたらしい」
カッシウスが、机の端へ紙を広げた。
「どこを根城にしてる」
「東の街道にある古砦だ。お前さんたちが取ったガルダ砦とは別だよ。ここを出る荷を見張って、商隊が来れば襲いに出る」
「兵を出してねえのか」
ロウラの問いに、フラウィアは顔を戻した。
「出した。追い払われたよ。あいつらは隊を組んで戦うし、強いレリックを持つ奴が三人いる。今は町と畑を守るので精いっぱいさ」
カッシウスが古砦の位置を書き込む。ロウラは紙を見たが、書かれた言葉は読めなかった。代わりに、東門と、その先へ続く道を見た。
ここまで来たときには、襲われなかった。だが、次も通れるとは限らない。麦を満載した荷車なら、なおさらだ。
補給役のセヴァンが、持参した帳面を開いた。
「ガルダ砦には八十人います。まず十日分。その後も定期的に買い付けたい。運ぶたびに荷を失うわけにはいきません」
「そりゃ、そうだ。こっちも次の商隊が来なけりゃ困る。塩も油も、鍛冶に使う鉄も、麦を売った金で買うんだからね」
ロウラは、止まった荷車を見た。麦があれば人を食わせられると思っていた。袋を買い、車へ積んで帰れば済むはずだった。
倉庫の脇で、人足が空の水袋を逆さに振った。近くの女が、自分の水を半分分けてやる。働く人間はいる。運ぶ車もある。道の先にいる連中だけが、その全部を止めていた。
「護衛を雇う気はあるんだな」
ナザルが金の袋を机へ置いた。ガルダ砦で押さえた軍用金の一部だ。
「俺たちは麦を買う。あんたは、街道を通せる者を雇う。双方に用がある」
フラウィアは袋へ目をやり、次にロウラの肩越しを見た。倉庫から少し離れた所で、同行してきた二十人の緋環隊が休んでいる。
「お前さんが、灯火団の団長かい」
「ああ」
「じゃあ、私が仕事を頼む相手はお前さんだね」
差し出された大きな手を、ロウラは見た。指の腹にたこがあり、爪の脇には細かい麦の粉が残っている。
少し迷ってから、右手を出した。
フラウィアは両手で包み込んだ。
ロウラの肩に力が入った。次に腕力を試されるのかと、身構えた。何人を倒せるか。どれだけの重さを持ち上げるか。そういう話なら、答えようもある。
「ほう……これは、いいね」
「話が違うぞ」
「仕事の話はするよ。けど、その前にこれだ。見てごらん。この節、このたこ。傷は古いのも新しいのもある」
親指が拳の傷をなぞった。ロウラは引き抜こうとして、やめた。痛めつけられているわけではない。ただ、どんな顔をすればいいのか分からなかった。
「傷だらけだろ」
「美しい手じゃないか。私は、働いてきた手が好きでね。収穫祭じゃ毎年、町じゅうの手を見せてもらうんだよ」
自分の拳を見下ろした。剥けた皮膚。太くなった節。殴るために固くなったところばかりだ。
フラウィアは、そこを美しいと言う。気味の悪い傷だとも、手袋で隠せとも言わなかった。
フラウィアは指のたこを、丁寧に撫でた。からかわれているのかと思ったが、その目は真剣だった。褒められたのだと分かると、今度は返す言葉が見つからない。ロウラは机のパンへ目を逸らした。
「……もう離せ」
「まだ左手を見てないよ」
「麦だ。麦の話をしろ」
フラウィアが笑って、ようやく離した。ロウラが手を引く前に、割ったパンをその手のひらへ乗せる。
「働く前に食べとくれ。空腹で倒れたら、私が困るからね」
ロウラは指を曲げかけ、パンを潰さないように開き直した。手のひらの上には、まだ温かさが残っている。少しだけ齧ると、麦の匂いが鼻へ抜けた。
*
条件は、カッシウスが一つずつ読み上げた。
盗まれた麦を取り戻し、鉄牙団を排除して街道を通す。フラウィアはその仕事へ報酬を払い、町の兵と荷車も出す。取り戻した麦は元の持ち主へ返す。
ガルダ砦の兵が食べる分は、それとは別に、灯火団が金を払って買う。初回の量と値段、その後の便の間隔も、机の上で決めた。
「道が開けたら、十日ごとに八十人分、ここで荷を揃える。運ぶ商人は私が紹介するよ。道中の護衛は、そっちで出しておくれ。私の兵を、毎回砦まで行かせるわけにはいかないからね」
セヴァンが頷き、ガルダ砦から出せる兵を数えた。麦を買う金だけでなく、これからも人を動かし続ける約束になる。ロウラは、砦で手を振っていた兵たちの顔を思い浮かべた。
「麦の代金は十日分ずつ、便を出す前に受け取る。それなら、こっちも農家へ金を払って次を集められるよ」
フラウィアは町の人足たちを見た。
「ここにいる連中にも、家で待つ口がある。兵隊を食わせて、畑を耕す奴の飯がなくなったら、次の麦は穫れないからね」
「分かってる。金は払う。買った麦が届く道を開ける」
ロウラが言うと、ヴァレリアも頷いた。
「防衛の協力も話したいが、まずはこの仕事だ。あんたの領民を守る。こっちの砦を養う。両方、続けられる形にする」
カッシウスが紙をロウラへ寄せた。話した条件が、そこに書いてあるという。もう一度読み上げてもらい、ロウラは自分の名前を書いた。
最後の線が、少し曲がった。
フラウィアは名前を覗き込み、今度は手に触れずに笑った。
「よろしく、団長」
ロウラは筆記具を置いた。
「まず、古砦の周りを見てくる。兵を出すのは、それからだ」
リネアが机の端から翼を開いた。
「ぼくが見てくる。道と、門と、麦のある場所だね」
「飛び立つ前に、戻る場所も決めとけ」
カッシウスが言い終えるより先に、東門の上で鐘が鳴った。
一度。間を置かず、もう一度。
「鉄牙団だ! 門から離れろ!」
人足が麦袋を落とした。御者が馬の手綱を掴む。ロウラは椅子を蹴って立ち、通りへ出た。
すぐ前で、子供がこぼれた麦に足を滑らせた。ロウラが駆け寄り、左腕で自分の後ろへ押しやる。
そのとき、門扉の隙間が赤く光った。
轟音とともに、太い横木が内側へ弾け飛んだ。砕けた門板が通りを跳ねる。
横木を正面で受けず、左から拳を叩きつける。空間に黒い罅が走った。横木が向きを変え、人のいない石壁へ激突する。
踏み込んだ左膝は、崩れなかった。
「倉庫の裏へ走れ!」
子供がふらつきながら走り出した。フラウィアがその腕を取り、広場の奥へ押しやる。領主の顔から笑みは消え、声だけがよく通った。
「倉庫の裏へ! 荷は置いときな。子供を先に通しておくれ!」
王妹の副官サビナが近衛を呼ぶ。緋環隊も盾を取り、町人と壊れた門の間へ並び始めた。
門の向こうで、大柄な男が鎚を持ち上げた。実物の鎚に重なり、門扉より巨大な赤い鎚が浮かび上がる。
その後ろからは、槍を揃えた男たちが進んでくる。
ロウラは、さっきまで握られていた右手を開いた。
「麦は取り返す。先に人を逃がすぞ」
拳を握り、盾の列の前へ踏み出した。




