第49話 砦に残る灯
「アウルスが、まだ戦ってる!」
荷台の布を直していたロウラは、リネアの声に顔を上げた。アウルスは、解放した緋環隊の古参隊長だ。王妹ヴァレリアの剣の師匠でもある。
「みんな、戦うのやめようとしてるのに。正門の方へ行っちゃった!」
ロウラは補給役のセヴァンへ、荷車を示した。
「負傷者は外の木立へ。歩ける怪我人も連れていけ。護衛を五人つける。中庭へは戻すな」
診療助手のマティアが、寝かされた兵の胸元へ毛布を掛けた。ロウラは最後の車輪が搬入口を抜けるのを見届け、兵舎の壁沿いに中庭へ回った。
緋環隊が盾を並べ、その向こうで守備兵が正門側へ退いていた。砦主を捕らえたという知らせが伝わり、槍を下ろす者が増えている。
正門の脇には、城壁へ上がる石段があった。
アウルスが、そこへ一人で進んでいた。彼の後ろに、金色の刃が二筋浮いている。レリック《残刃の剣》が、振った軌跡へ残した刃だ。触れれば味方も斬れる。
石段の上では、三人の弓兵が矢をつがえていた。
「アウルス、止まれ!」
ヴァレリアが追った。ロウラも足を速めかけたが、左膝が痛み、歩幅を戻す。石段へ着く前に、追いつけない。
「砦主を捕らえた。もう終わりだ!」
「上には、まだ敵がおります」
アウルスは剣を下げなかった。
ヴァレリアの副官サビナが、盾を持つ近衛を二人、石段の手前へ走らせた。アウルスの残した光が消える。近衛がすぐに盾を掲げ、上からの矢に備えた。
アウルスが一段目へ足を掛けた。上で弦が鳴る。近衛が差し入れた盾の縁を、矢が削った。次の矢先を向けられても、老兵は足を引かなかった。
二枚の盾が並び、弓兵からアウルスを隠した。ヴァレリアはその陰へ入った。
「ここを上がれば、射られるぞ」
「この剣と、姫様の旗がある。縛られて処分されるより、よほどいい最期です」
ヴァレリアの口元が歪んだ。
「こんな砦で終わって、あたしが王国軍とやり合うところを見逃す気か」
アウルスが初めて振り向いた。
「……王国軍と?」
「ああ。兄を王座から引きずり下ろす。各地で兵と食料を集めて、その先へ行く。あんたの知ってる小娘が、国王を相手に戦をするんだぞ」
剣先が、わずかに下がった。
「では、姫様のご即位まで、この剣を」
「王冠はいらない。だが、兄を王座から下ろすまで戦う。そのために、あんたらを迎えに来た」
ヴァレリアは、師匠の左眉の傷を見つめた。
「そこまでついてきてから、死に場所を選べ。ここで済ませるには、惜しい剣だろうが」
アウルスは自分の剣を見た。それから塔の旗を見上げ、ゆっくりと笑った。
「それは、見届けねばなりませんな」
鞘へ刃が収まった。ヴァレリアはその腕を掴み、石段から引き離した。
駆けつけたロウラの横を通りながら、アウルスが訊く。
「王国軍との戦は、いつです」
「その前に手当てだ。まず座れ」
ロウラが兵舎の前を指すと、老兵は不満そうに従った。
*
カッシウスが、縛られた砦主ルフィヌスを中庭へ連れてきた。蒐集品を積んだ荷車で逃げようとした、ガルダ砦の領主だ。
ナザルはその横へ立ち、正門側の守備兵にも聞こえるように言った。
「武具の箱は、一つも壊していない。ここで戦いを終わらせれば、そのまま保管する」
「湿気の多い場所へ置くな」
「部下へ、武器を下ろせとお命じになるのが先だ」
ルフィヌスは正門を見た。
守備兵の何人かが、縄の掛かった主の腕を見ていた。中庭の戦いは続いているのに、砦主は自分の武具を荷車で運び出そうとしていた。その姿を見た兵たちに、もう前へ出る勢いはなかった。
「槍を置け! 弓もだ。蒐集品に傷をつけるな!」
ロウラは石段を見上げた。三人の弓兵は顔を見合わせ、矢を弦から外した。地上でも槍が置かれ、一人が盾から両手を離した。
サビナが近衛と緋環隊を分け、城門と城壁の出入口を押さえていく。守備兵の武器を回収し、兵たちは中庭の一角へ集めた。夜明けまでは、近衛がその周囲を見張る。
ルフィヌスは空の倉庫へ入れられた。戸が閉まる直前まで、箱をどこへ置いたかと尋ねていた。
剣の音がやむと、うめき声が聞こえた。
ロウラは足元を見た。壁際に座った守備兵が、斬られた腕を布で押さえている。こちらが近づくと、肩を縮めた。
落ちた剣を遠ざけ、ロウラは男の身体を起こした。
「歩けるか。手当てを受けろ」
男は頷いた。味方の兵が肩を貸した。ロウラはその背中を見送ってから、外の負傷者を呼び戻すためにリネアを飛ばした。
兵舎では、動ける兵たちが汚れた藁を運び出していた。床を洗い、空いた場所へ新しい布を敷く。食事を作る釜にも火が入った。ロウラは湯気の上がる水桶を跨ぎ、搬入口へ迎えに出た。
*
「砦に、戻るんですか」
最初の荷車で戻ってきた兵が、毛布を握った。
ロウラは車輪の横へしゃがんだ。
「門も城壁も、こっちが取った。ここなら揺れない寝床がある。夜道を運び続けるのはやめて、ここで手当てをする」
兵は彼女の顔を見ず、兵舎の戸を見ていた。ロウラは立ち上がり、その戸を大きく開けた。拾った木片を下へ挟み、勝手に閉まらないようにする。
「ここは閉めねえ」
兵が、握っていた毛布を少し緩めた。
医療の道具と水を運び込み、兵舎は負傷者の寝床になった。歩ける二十人も手を借りて戻り、歩けなかった十人は荷台から降ろされた。
アウルスの副官が一人ずつ名を呼び、セヴァンが数えた。戦っていた兵たちも、見張りを交代しながら確認を受ける。
「百人。全員います」
ロウラは戸口へ手をついた。最初から百人だと分かっていたのに、今やっと、最後の一人まで揃った気がした。
それなのに、指がまた人数を数えていた。毛布の膨らみが動くたび、目がそちらへ向く。誰かの声を聞き落としていないか。兵舎の奥に、まだ助けを待つ者がいる気がして、足が動きかけた。
「見張り以外は、全員ここです」
セヴァンがもう一度言い、一つずつ寝床を示した。ロウラはようやく、数える手を止めた。
背後で、椅子が石畳を擦った。マティアがロウラの膝を指している。
「団長も座ってください。傷を診ます」
「まだ、見張りが」
「七十人、武器を持って立っていましたね」
言い返そうとして、やめた。ロウラは椅子へ腰を下ろし、脚を伸ばした。
包帯を外されても、傷は開いていなかった。右手の指も動く。今夜は、殴って、歩いて、戻ってきた。
肩へ降りたリネアが、頬へ頭を押しつけた。
「ぼくが見てるから、目をつぶっていいよ」
ロウラは返事をせず、猫の背を撫でた。
*
朝、正門の外へ王国軍の八十人が着いた。
リネアが街道を飛び、人数と装備を確かめて戻ってきた。長梯子も、門を破る道具もない。百人の捕虜を引き取るための部隊だった。
城壁の上に、緋環隊の兵が並ぶ。古い旗の下に立ったヴァレリアへ、王国の隊長が声を張り上げた。
「ルフィヌス殿を出せ! 引き渡しの取り決めがある!」
「砦主は拘束した。兵も渡さない」
ロウラは王妹の横で、胸壁へ片手を載せた。下の隊長は口を閉じ、城壁の兵と閉じた門を見比べた。
「国王陛下へ、反逆の証として報告するぞ」
「ああ。百人を引き取りに来て、誰も渡されなかったと伝えろ」
隊長は門へ近づかなかった。部下を集め、街道を引き返す。最後の槍の穂先が丘の向こうへ消えるまで、ヴァレリアは城壁を離れなかった。
兵舎へ戻ると、湯の入った器を持つ兵が顔を上げた。
「迎えは」
「帰った」
ロウラの返事を聞き、男は器を両手で包み直した。すぐには飲まず、湯気へ顔を寄せていた。
*
三日後、砦の門に二十人の緋環隊が並んだ。
アウルスを含む、旅を続けられる兵たちだ。残る八十人のうち、五十人が守備を担い、三十人は傷と衰弱を治す。指揮はアウルスの副官へ預けた。
砦には水と寝床と備蓄がある。軍用金も押さえた。マティアは手当てのできる兵たちへ仕事を引き継ぎ、最後まで包帯の残りを数えていた。
武器庫にあった緋環隊の武具も、全て持ち主へ戻った。ルフィヌスはまだ倉庫の中から、《残刃の剣》を見せろと喚いている。見張りの兵が返事をしなくなると、今度は磨き方の注意を大声で伝え始めた。
武装解除された元の守備兵は、故郷へ帰る者と、砦で働くことを望む者に分かれた。残る者にはヴァレリアが直接会い、新しい指揮に従う意思を確かめた。
ロウラが荷車の踏み台へ足を掛けると、赤い輪を縫った布が、門の内側で揺れた。女房の話をした兵が、寝台を戸口へ寄せてもらい、片手を上げている。
「次に来るまでには、歩いて迎えます」
「布、なくすなよ」
男が笑った。
馬上のヴァレリアへ、アウルスが顔を寄せる。
「さて、王都へ向かいますか」
「先に麦だ。この砦の奴らを、飢えさせるわけにいかない」
副官が門の内側から頷いた。今ある備蓄は、食べれば減る。次に麦を運んでくれる相手と、ここまで届く道が必要だった。二十人を送り出すのは、残る八十人の暮らしを一緒に支えるためでもある。
ナザルが次の街道を指した。向かう先は、麦の採れる領地だ。兵を得た今、その兵と、ここに残る者を食わせる仕事が待っている。
荷車が動き出した。ロウラは門を振り返った。
帰りを待つ者たちが、まだ手を振っている。
ロウラも右手を上げた。痛みは残ったが、門が見えなくなるまで下ろさなかった。




