第48話 死に場所より先に
「死ぬ話は後だ。まず、百人全員をここから出す」
王妹ヴァレリアは、解いた縄を床へ落とした。向かいのアウルスは、白髪混じりの頭を下げる。彼女の剣の師匠で、この兵舎に捕らわれていた緋環隊の隊長だ。
「承知しました。俺の剣を取り返す前に、死ぬ気はありません」
ロウラは戸口で倒した見張りの剣を拾い、柄を向けた。アウルスの言う「死ぬ気はない」は、少しも安心できなかった。剣さえ戻れば死んでもいいと、言っているように聞こえた。
「それまでは、これを使え」
「ありがたい。持ち主には悪いが、俺の剣を返してもらうために働いてもらおう」
アウルスは抜いた刃を確かめ、戸口へ向かった。
兵舎の前には中庭があり、向かいに武器庫がある。そこへ置かれた七十人分の武器を取り戻せれば、救出された兵たちも戦える。
王妹の副官サビナが、近衛を連れて先に出た。アウルスとカッシウスが続く。ロウラは残りの兵を戸口へ集めた。
「先の十人で、槍と剣を運べ。自分のだけ探すな。持てるだけ持って戻れ。残りはここで受け取れ」
男たちが頷いた。縄の擦れた手首を、袖で覆う者がいた。
武器庫の見張りが、近づくサビナたちへ槍を向けた。サビナが穂先を盾で押し上げ、その脇をアウルスが抜ける。剣の柄で男の顎を打ち、倒れる身体を抱えた。
カッシウスが腰の鍵を奪った。戸が開く。ロウラが腕を振ると、待っていた兵たちが中庭を横切った。
最初の一人が、両腕いっぱいの槍を抱えて戻る。次は剣、その次は盾だった。兵舎の戸口で、受け取った武器が後ろの者へ渡っていく。
武器庫から盾を抱えて戻る最後の兵を、塔の見張りが見つけた。
「捕虜が出てるぞ!」
警鐘が鳴った。ロウラのすぐ前で、剣を受け取った男が振り向く。まだ盾が届いていない。城壁の弓兵がこちらへ身を乗り出した。
「戸口から離れろ!」
ロウラが男の襟を引く。直後、矢が敷居へ突き立った。
兵たちが盾を重ね、兵舎の前を塞いだ。その後ろで、ようやく全員に武器が渡る。中庭の奥から守備兵が走ってきたときには、緋環隊の盾と槍が並んでいた。
*
ロウラは兵舎の奥へ入った。診療助手のマティアが、戸口から離れた壁際で負傷者を診ている。
補給役のセヴァンたちは、裏の搬入口へこちらの荷車を回していた。縄職人のコルヴォが荷台に布を敷き、運ばれてきた兵の身体を支えて横たえる。
「揺れるぞ。痛む場所は、先に言ってくれ」
横たわった兵は頷いたが、膝に掛ける布を離さなかった。縫いつけられた赤い輪の印を、親指で何度も擦っている。
「あの旗と同じか」
ロウラが訊くと、兵は布を少し持ち上げた。
「女房が縫った。隊を辞める日まで使えと」
ロウラは布の端を荷台の隙間へ挟んだ。走り出しても、落とさないように。
「持って帰れ」
兵は口を結び、頷いた。
口元が少し緩んだ。家へ帰ったときのことを、考えているように見えた。ロウラは寝床を待つ男たちへ目を戻した。今すぐ立たせて外へ連れ出したくなる。だが、動かせば傷が開く者もいる。マティアが一人ずつ状態を確かめる間、次に運ぶ者の肩へ布を掛けた。
中庭で剣がぶつかった。ロウラは兵舎の戸口へ戻る。
武器庫の奥にある展示室から、ナザルが布包みを抱えて出てきた。追う兵はいない。代わりに、室内から怒鳴り声が響く。
「箱だ! 剣を重ねるな、傷がつく!」
ガルダ砦の領主ルフィヌスだ。緋環隊の百人を閉じこめてまで奪った武具を、今度は逃がそうとしていた。
ナザルは武器庫の壁際を走り、アウルスへ包みを渡した。
「砦主に荷造りを命じられた。これは、持ち主が運ぶのがよかろう」
珍品を扱い慣れている、とナザルが請け合うと、ルフィヌスは布と箱を渡してきたという。兵が逃げたと聞いても、戸締まりより先に武具の荷造りを命じたのだ。
布が落ちた。幅広の刀身に、細い金色の筋が走っている。
アウルスがレリック《残刃の剣》を握った。
代わりに使っていた剣を味方へ預け、中庭へ踏み出す。向かってくる槍の列へ、一人で歩いていった。
「師匠、出すぎるな!」
ヴァレリアの声に、アウルスは剣を横へ振った。
黄金の弧が闇を裂いた。
剣を振り終えても、光の刃はその場に浮かんでいた。敵兵が突き出した槍の柄が光に触れ、切り離された穂先が石畳へ落ちる。
踏み込もうとした兵が止まった。隣の男が光を避け、右へ回る。
アウルスはそちらへ踏み込み、剣を下から斜めに振り上げた。敵の前腕が裂け、今度は斜めの金色の刃が残る。男は槍を落とし、後ろへ倒れ込んだ。
「光が消えるまで、こっちへ来るな! 味方でも斬れる!」
アウルスが緋環隊へ叫んだ。兵たちは剣の届かない左右へ広がり、押し寄せる敵を槍で止める。
最初の光が消える。その頃には、次の剣筋が金色に輝いていた。
追おうとした味方の兵が、残った光に気づいて足を止める。アウルスはその兵の襟を掴み、後ろへ引いた。空中の刃が薄れ、消えるのを待ってから、もう一度前へ出る。使い手自身も、残した刃を通り抜けることはできなかった。
ロウラは兵舎の戸柱を掴んだ。斬られている敵から目を逸らしたくなり、それを堪える。アウルスの歩く先が、兵舎から離れていく。
あの男は、生きて戻るために道を開けているのか。それとも、自分を殺せる相手を探しているのか。
「ロウラ!」
飛んできたリネアが、肩へ降りずに目の前で羽ばたいた。
「奥の荷車、武器の箱を積んでる! 三台とも、出しちゃうって!」
ロウラは搬入口を振り返った。こちらの荷車は、もう負傷者で埋まっている。兵舎の床には、自分で歩けない者が六人残っていた。
まだ砦の荷車は取れていない。先に武器を奪う間も、負傷者を診る間も、奥の荷車置き場は敵の手にあった。
ルフィヌスは、そこへ蒐集品を積ませて逃げる気だ。車を失えば、六人を運ぶ手段も失う。
マティアが戸口へ来た。
「次の人を運べます。荷台は、まだですか」
「今、取る」
ロウラはカッシウスを呼び止めた。
「中庭の兵を十人、荷車置き場へ回せ。ここはサビナたちで守る。あたしも行く」
「脚は」
「短い間なら動く」
そう言いながら、膝へ手を当てた。長くなれば、十人の足を引っ張る。砦の奥まで走り抜けるだけで息が切れるかもしれない。
兵舎に残る六人を見た。一人を背負って往復する自分を思い浮かべる。途中で脚が止まれば、背負った相手まで敵の前へ置くことになる。
今ならまだ、車へ続く道を開けられる。
*
武器庫の外壁に沿って進むと、奥の荷車置き場が見えた。三台の車に木箱が積まれ、守備兵が馬を引き出している。
そこへ入る狭い通路を、盾を持った二人が塞いでいた。二枚の盾の隙間から、後ろの兵が槍を突き出す。緋環隊の兵が一人、近づこうとして押し返された。
荷車はここを通り、兵舎の裏を回って搬入口へ向かう。敵はこの通路を塞ぎ、荷造りが終わるまでロウラたちを近づけまいとしていた。
ロウラは走るのをやめた。肩で息をしながら、足元を見る。石畳に大きな割れ目はない。左足を置き、右足を半歩引いた。
「盾を上げろ。槍を押さえろ」
隣の兵が盾を構える。ロウラはその陰で、右手を開いてから握った。
「前へ!」
味方の盾が槍を脇へ押した。ロウラは一歩踏み込み、敵の丸盾へ拳を打ち込む。
拳の先で、空間に黒い罅が走った。
盾の板が中央から割れ、鉄の縁が歪む。受けた男が尻餅をつき、隣の盾兵へぶつかった。
右腕が痺れた。左膝も沈む。ロウラは倒れた男へ次の拳を振り下ろさず、横へ退いた。
「通れ!」
緋環隊が隙間へ飛び込んだ。盾を寄せて槍兵を押し込み、荷車の脇へ回る。
馬を引いていた守備兵が手綱を捨て、奥へ逃げた。残った者たちも、槍を地面へ置いて両手を上げる。
ロウラは壁へ手をつき、息を吸い直した。膝は痛む。だが、足はまだ自分の身体を支えていた。
通路は開いた。何人も倒さなくていい。あたしがここを塞がなければ、後ろの奴らが行ける。
「その箱を落とすな!」
金具の多い上着を着た男が、荷車へしがみついていた。蒐集家ルフィヌスだった。馬の手綱を取りに来たカッシウスへ、箱を指して怒鳴る。
「百年物だぞ。貴様の十年分の給金でも買えん!」
「荷台から降ろせ。人を載せる」
ロウラが言うと、ルフィヌスはこちらを向いた。
「そのために、これを地面へ置けと言うのか!」
背後で、木箱が一つ下ろされた。ルフィヌスが悲鳴を上げて駆け寄ろうとする。ロウラは上着の背を掴み、壁へ押さえた。
「手を後ろに回せ」
カッシウスが縄を掛けた。ルフィヌスは抵抗するより先に、箱を抱える兵へ叫んだ。
「角を持つな! 底を支えろ!」
ロウラは男の襟を壁から離した。支えがなくなり、ルフィヌスはその場へ座り込んだ。
三台の荷車から、最後の箱が下ろされた。
「セヴァンを呼べ。六人、運べるぞ」
リネアが翼を広げる。ロウラは通路へ戻り、行き交う味方のために壁へ寄った。まだ膝は震えていたが、拳は開いた。
ほどなくセヴァンたちが空の荷車を搬入口へ運び、コルヴォが布を敷いた。ロウラも後を追う。一台に二人ずつ、寝かせる場所ができた。
運ばれた最初の兵が、荷台を押さえるロウラの袖を掴んだ。
「置いていかれるかと、思った」
ロウラは車輪の前の石を足で除けた。男の手が落ち着くまで、袖はそのままにしておいた。




