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第47話 旗の下の百人

「走るのは、あの木までです」

 灯火団の診療助手マティアが指した木へ、ロウラは駆けた。十歩ほどで足を止めると、マティアは荷車を指した。

「もう一度」

「今日は終わりです」

「今ので何が分かる」

「終わりと言っても、やめないことが分かりました」

 荷台でリネアが頷いた。ロウラは猫を睨み、腰を下ろす。左膝はまだ痛む。右腕を伸ばすと、脇の傷も突っ張った。

 ヴァルネを出て十八日。初めは荷台から降りるにも人の手が要った。杖を置き、朝夕に歩き、三日前から拳を打つ稽古を再開した。短く踏み込めるが、続けると息が上がる。

「見えたぞ」

 灯火団が護衛する王妹ヴァレリアが、道の先で馬を止めた。

 丘の上に、古い石造りのガルダ砦が立っていた。塔には、彼女がかつて率いた《緋環隊》の旗が翻っている。その兵が百人ほど集まっているという知らせを受け、一行はここまで来た。

 ヴァレリアは笑いかけ、途中で口元を固くした。

「あいつらなら、あたしを見つけたら迎えを寄越す」

 昼の陽が旗を透かしている。門は閉まったままだった。


 *


 一行は街道を外れ、砦の裏手の木立へ荷車を隠した。様子を探りに飛んだリネアが戻ると、ヴァレリアは猫の前へ膝をついた。

「兵舎に百人いる。みんな、手を縛られてた」

「誰かと話せたか」

「窓にいた人と。白い髪が混じってて、左の眉に傷がある人」

「アウルスだ。あたしの剣の師匠で、緋環隊の古参隊長だよ」

 王妹の副官サビナも、身を寄せて報告を聞いた。

 リネアによると、この砦を治める領主ルフィヌスは、名剣やレリックの収集に目がないという。逃れてきた緋環隊を受け入れ、武器を預かると、アウルスの剣だけを自分の展示室へ運ばせた。

「《残刃の剣》っていうんだって。振ったあとにも、触ると斬れる光の刃が残る剣」

 リネアは、アウルスから聞いた言葉を懸命に伝えた。

「返してくれって言ったら、『飯も寝床も出した。剣はその代金だ』って。みんなが抗議したら、兵舎に閉じこめられたの」

「百人まとめてかよ」

 ロウラの声に、リネアが頷く。

「王妹の兵は反逆者だから、王様の軍に渡すって。明日の夜明けに迎えが来る。剣だけは、ここに置いていくんだって」

 引き渡されれば、百人は王国軍の集結地へ運ばれる。ルフィヌス一人をどうにかして済む話ではなくなる。救い出すなら、今夜しかなかった。

 ヴァレリアは塔を振り仰いだ。

「捕まえたあとも、あの旗を揚げてんのか」

 掠れた声だった。あの旗を目印に、ここへ逃げてきた者もいるかもしれない。ロウラは自分の手首を擦った。もう縄はないのに、縛られた皮膚の痛みを思い出した。

「怪我人は」

「三十人。うち十人は、自分じゃ歩けないって」

 ロウラは正門へ続く坂を見た。城壁には弓兵がいる。門を壊しても、兵舎へ着く前に矢を浴びる。

 マティアがすぐ横へ来た。ロウラはその顔を見ずに言った。

「分かってる。正面からは行かねえ」

 ヴァレリアも立ち上がる。

「あたしが名乗れば、師匠たちを人質にする。先に中へ入って、縄を解かないとな」

「では、売り込みは俺たちにお任せを」

 ナザルが荷台から古い飾り兜を取り出した。

「剣を奪うために百人を閉じこめる御仁だ。珍しい武具を売りに来たと言えば、会うだろう」

「そんなもんに値がつくのか」

 ロウラが尋ねると、ナザルは兜を撫でた。

「つけるんだよ。俺が」

 カッシウスは、もう品物を箱へ詰め始めていた。


 *


 夕刻、もう一度偵察したリネアが、石の上へ小枝を並べて砦の配置を示した。

 正門から入って左が兵舎。中庭を挟んだ向かいが武器庫。その奥に展示室と荷車置き場がある。裏の搬入口からなら、兵舎の背後へ出られる。

 緋環隊の槍と剣は武器庫にある。アウルスの剣だけが、展示室に飾られていた。

「戦えるのはアウルスたち七十人。砦の守備兵は百六十人だって」

 敵は緋環隊の二倍以上だが、城壁や門にも分かれている。気づかれずに兵舎を開け、敵が集まる前に七十人を武装させる。それができれば、灯火団だけで戦わずに済む。

 道案内役のエナが斜面を調べ、補給を担うセヴァンと荷車の通れる道を選んだ。こちらの荷車だけでは、歩けない十人を乗せきれない。砦の荷車も奪う必要があった。

 縄職人のコルヴォと葬儀屋のレトが、荷台へ敷く布を畳む。マティアは手当ての道具をまとめていた。

 ロウラは兵舎を示す枝へ指を置いた。

「ナザルが砦主を引きつけて、カッシウスが搬入口を開ける。あたしたちはそこから入る。リネア、アウルスにも伝えてくれ」

 リネアが頷いた。

「兵舎を開けたら、怪我人はマティアたちが診る。あたしたちで武器庫を取って、動ける七十人に武器を渡す。それから荷車だ」

 サビナが、王妹に同行する軍事顧問フェレンスと中庭から兵舎への道を確かめた。

「武器を配るまで、私たちと近衛で敵を止めます」

 セヴァンたちは搬入口が開いたら荷車を回し、歩けない者から乗せる。砦の荷車を確保するまでは、残る負傷者を兵舎で守ることになった。

 ロウラは頷いた。自分が一人を背負っている間、残る九人を守る者が要る。今の脚で何度も往復すれば、途中で動けなくなるかもしれない。仲間の荷造りを見るうちに、兵舎から全員を連れ出す道筋が、ようやく頭に浮かんだ。

 日が落ちる頃、ナザルとカッシウスが商人を装い、正門をくぐった。


 *


 ルフィヌスは、武具を飾った展示室で夕食を取っていた。食卓の横には、アウルスから奪った《残刃の剣》がある。幅広の刀身に走る金色の筋を眺めながら、肉を口へ運んでいた。

 ナザルが兜を広げると、食べかけの肉を皿へ戻す。

「持ち主は?」

「北の戦で、三度も包囲を生き延びた男です」

「最後は討ち死にか」

「まだ生きております。死後に名が上がれば、値も倍になりますぞ」

 ルフィヌスの手が、兜へ伸びた。

「ほかの品もございます。相棒に運ばせましょう」

 ナザルが合図すると、カッシウスは布をかぶせた箱を抱え、部屋を出た。ナザルは兜の傷を指し、砦主と護衛の目を引きつける。

 裏の搬入口では、槍を持つ兵が戸を守っていた。内側から横木が渡してある。

「車から荷を入れる。開けてくれ」

「駄目だ。商談中は誰も通すなとの命令だ」

「砦主に売る品だぞ」

「邪魔をすれば怒鳴られる。俺を巻き込むな」

 カッシウスは箱を床へ置き、布の下の小さな草刈り鎌を持ち直した。

 壁の灯りは動いていない。

 鎌の影だけが長く曲がり、兵の足元まで伸びた。

 兵が胸の徽章を握った。砦主への忠誠を示す印だ。やがて指がほどけ、徽章が胸元へ落ちた。

「……あいつの買い物のために、何で俺が怒鳴られなきゃならん」

 カッシウスは鎌を布で覆った。

「兵舎の怪我人も外へ出したい。通してくれるか」

 兵は閉じた戸を見た。

「飯を運ぶたび、手の縄だけでも解いてやれと言ったんだ。ずっと聞き入れられなかった」

 槍を壁へ立て掛け、横木を外す。

「もう従わん。開けるぞ」

 外で待っていたリネアが、開いた搬入口を確かめ、木立の仲間を呼びに飛んだ。ロウラたちを入口へ導いてから展示室の窓へ回り、ナザルへ頷く。

 ナザルは顔色を変えず、兜を裏返した。

「さて、内張りもご覧ください」


 *


 搬入口を抜けたロウラは、ヴァレリアと兵舎の壁沿いを進んだ。仲間たちが後ろに続く。

 戸口の見張りは二人。一人の腰に鍵束がある。

 ヴァレリアが槍を持つ兵の膝裏を蹴り、倒れた背中へ膝を載せた。ロウラはもう一人へ踏み込み、抜きかけた剣の柄を左手で押さえる。右の拳を腹へ打ち込むと、男の身体が折れた。

 倒れる肩を掴み、頭を石畳へ打たぬよう下ろした。男は咳き込んでいる。剣を遠ざけ、鍵束を外した。

 サビナとカッシウスが二人の口を塞いで縛る。ロウラは鍵をヴァレリアへ渡した。一人殴っただけで息が乱れ、右腕も痛む。それでも、拳は打ち込めた。

「アウルス。あたしだ。開けるぞ」

 鍵が回る。戸を引くと、汗と汚れた布の臭いが流れ出した。

 床に寝た兵たちが顔を上げた。マティアたちが中へ入り、サビナは戸口の外で中庭を見張る。

 リネアの伝言を聞き、兵たちは起きて待っていた。七十人が足音を抑えて立ち上がる。後ろの壁際には、起き上がれない者たちが並んでいた。

 白髪の混じった男が進み出た。左眉に古傷がある。ヴァレリアが、差し出された両手の縄へ刃を入れた。

「遅くなった」

「よくぞ、おいでになりました」

 アウルスの背後で、兵が泣きながら王妹の袖を握った。ヴァレリアはその手を一度握り返し、師匠の縄を外しにかかった。刃を持つ指が震えていた。

 自由になった者から、仲間の縄を解いていく。アウルスは手首を擦り、窓の外の展示室を見た。

「武器庫を取る。あんたも動けるか」

 ロウラの問いに、男は笑った。

「動ける。俺の剣も取り返したい。あの展示室にある」

「剣は取り戻す。まずは全員を助けるぞ」

 ヴァレリアが言うと、アウルスは笑みを深くした。

「もちろんです。ですが、逃げるだけで終わらせませんぞ。縛られたまま殺されるのは御免だ。あの剣を握り、あなたの旗の下で華々しく討ち死にする。それが俺の望みです」

 ヴァレリアは返事をしなかった。生きて連れ出すために来た。その相手は、ようやく死に場所を得たという顔で、彼女を見ていた。

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