↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
47/59

幕間一 青い戸の名簿

 ヴァルネ防衛戦から、およそ三千年後。


 私は、旧市街資料館の展示ケースを覗き込んでいた。

 中にあるのは、防衛戦で亡くなった人々の記録だ。兵士、市民、傭兵。身分ごとに人数が並んでいるが、一人ひとりの名前までは書かれていない。


「別の名簿は残っていないのかな」


 私が呟くと、付き添いのユリアが答えた。


「公開されている資料には、ないそうです」

「なら、地下を見よう」

「エレナ様。今夜は宿へ戻るお約束ですよ」

「調べ終わったらね」

「昨日も、そう仰いました」


 窓の外では雨が降っていた。資料館はもう閉まっている。私は今夜の調査許可証を手に、地下へ向かった。

 この資料館の地下には、古代の街並みが発掘されたまま保存されている。階段を下りると、灯りの先に石畳と、崩れた家々の壁が見えた。

 私が調べたかったのは、その一角にある工房跡だった。

 古代の人々を救護した、ルクサリア救済会。その印が工房跡にあると、発掘調査の報告に記されていた。

 私は以前、山中に残る救済会の遺跡で、一本の黒いナイフを見つけている。ほかの施設を調べれば、あの遺跡についても何か分かるかもしれない。


「あれだ」


 石の戸口に、青い塗料が残っていた。

 戸板は失われている。解説札には《青い戸の工房。経営者不明》とあった。

 私は戸口の前で足を止めた。

 もうすぐ誰かが出てくる。

 なぜか、そう思った。だが、戸の向こうにあるのは崩れた壁と土だけだ。


「どうなさいました」

「……何でもない」


 私はしゃがみ、石枠を調べた。

 二つの手が、一つの灯火を受け渡す彫刻がある。山中で見たのと同じ、救済会の印だ。その下には、短い刃の形をした溝があった。

 腰の鞘から黒いナイフを抜く。溝に重ねると、刃の形がぴたりと合った。

 細い光が彫刻を縁取り、石枠の奥で、かちりと音がした。

 工房の床の一部が浮き上がる。その下に、階段が現れた。


「このナイフ、鍵でもあったんだ」


 私は刃を引き抜き、ユリアと顔を見合わせた。

 許可証を取り出して、文面を示す。


「……許可証には、地下の調査と書いてあるよ?」

「地下がもう一つあるとは、お伝えしていませんよ」


 そう言いながら、ユリアは先に灯りを差し入れた。


 *


 階段の先には、古い救護所が残っていた。

 壁際に炉があり、石の台には薬をすり潰す鉢が置かれている。奥の小部屋には棚が並び、蓋をした箱が納まっていた。


 箱には《ヴァルネ戦災記録》とある。


 私は蓋を開けた。布に包まれた帳面が出てくる。表紙の文字は、《灯火帳》。

 添え書きによれば、傷んだ古い記録を、何代にもわたって書き写して残したものだった。

 ユリアが机に布を敷く。私はそこへ帳面を置き、そっと開いた。

 最初の頁から、人の名前が並んでいた。

 仕事。亡くなった場所。家族や知人から聞き取った、その人の話。

 元奴隷と書かれた人もいる。名前が分からない人については、服の特徴や、最期に付き添った人の証言が記されていた。


「こっちには、残っていたんだ」


 地上の展示では、人数しか分からなかった。その一人ひとりについて、この帳面は記録している。

 ただ、証言者の署名も、指の印もなかった。最初の頁に、理由が書かれている。

《王へ提出する名簿にはしない。本人や家族の署名、拇印は集めないこと》

 当時の王が、署名や拇印の付いた名簿を集め、人々を兵として呼び出そうとしていたことは、地上の展示で読んだ。

 この帳面を作った人たちは、名前を残しながら、王に利用されるのを避けようとしたのだろう。

 私は次の頁をめくった。

 そこで、青い戸の工房についての記録を見つけた。


 *


《ティロ。染色職人。

 ヴァルネ防衛戦で負傷し、死亡。

 証言者は姉のミレア》


 私は、その下の文章を読んだ。


 弟を亡くしたあと、ミレアは小さな工房を借りた。戸を青く塗り、弟が買っておいた金具を取り付けた。


 入口には木札を掛けたという。


《ティロ、染色職人》


 工房を始めたのは、姉だった。

 けれど入口に掲げたのは、弟の名前だった。


 私は階段の方を振り返った。さっき見た青い塗料が、目に浮かぶ。

 あそこに、姉が立っていたのだ。戸を塗り、弟の買った金具を付けていた。


「工房の持ち主が分かりましたね」


 ユリアが、私の手元を照らした。


「うん。ミレアという人のお店だった」


 記録には、当時の木札の文字も写してあった。その横に、別の筆跡で一文が添えられている。


《死者一名と記すな。名はティロ》


 私は、その名前へ顔を寄せた。


「ティロ」


 声に出して、読んだ。


「染色職人、ティロ」


 三千年前、この人を知る誰かが、名前を残した。それを写した人がいて、さらに写した人がいた。今日、私はその名前を読んでいる。

 頁の角が、少し裂けていた。

 私は手を止めた。ユリアに保護紙を出してもらい、傷んだところへそっと差し入れる。


「地上の解説札、直してもらわないと」

「経営者不明、のところですね」

「姉の名前も、弟の名前も載せてもらおう。何のために青い戸を残したのか、分かるように」


 ユリアが頷き、二人の名前を調査用の紙に書き留めた。


 私は、帳面の余白に小さな印を見つけた。

 黒い短刀の絵だった。

 ほかの頁にも、同じ印がある。そのそばには、死者を調べる人への注意が書かれていた。


《遺体を粗末に扱うな》

《名が分からない者も、記録から外すな》


 書き手の名前は、線を重ねて消してある。


「誰が書いたんだろう」


 私は、腰へ戻したナイフに触れた。印の短刀と、よく似ていた。


 *


 帳面の終わりには、別の名簿が綴じられていた。

 工房の記録より、ずっとあとの日付だ。長い戦が終わったあと、仲間たちの消息を確かめた記録らしい。戻った者。別の街で暮らし始めた者。墓の場所が分かった者。

 一人ずつ番号を振り、行方が分かるたびに書き足してある。

 ところが、最後の一人だけ、名前の欄が空いていた。

 その下には、こうある。


《死亡は確認できず。いまだ帰らず》


 名前を知らない人なのだろうか。


 そう思って余白を読むと、同じ黒い短刀の印のそばに、注意書きがあった。


《この者の名は、何度書いても消える。空欄のまま写すこと》


 私は、もう一度読んだ。

 名前を知らなかったのではない。

 知っていても、書き残せなかった。書き手は、そう伝えようとしている。


「消える、とは……」


 ユリアも声を落とした。

 前の頁を見直す。ほかの人の名前は、どれも読める。ティロも、ミレアも。この一人だけが、空白になっていた。


 私はそこを見つめた。


 不意に、誰かの顔を思い出せそうになった。


「あ――」


 口を開いた途端、その感じが消えた。


「エレナ様?」


 誰だったのか。

 何を言おうとしたのかさえ、分からない。

 私は額に手を当てた。たった今まで読んでいた名前は、思い出せる。ティロ。ミレア。けれど空欄を見た瞬間に浮かんだものだけが、どこにもなかった。


「……少し、待って」


 ユリアは何も訊かず、机の脇へ椅子を寄せてくれた。

 私は腰を下ろし、注意書きを最初から読み直した。

 末尾には、続きがあった。


《名は残せなかった。帰っていない者が一人いることだけは、残す。

 ほかの記録は、ルクサリア本院の封印庫へ》


「この人たちは、忘れたくなかったんだ」


 空欄にしたのは、その人を記録から外すためではない。

 名前を書けなくても、いなくなった一人を捜し続けるためだった。


「三千年前の方ですよ」


 ユリアが静かに言った。


「うん」

「今も、生きているとお考えですか」


 私には分からない。

 けれど、この頁を捨てなかった人たちは、死んだと決めつけずに残したのだ。


「まず、帳面を守ろう。ティロの頁も、この頁も、きちんと写して持ち帰る。それから、本院の記録を調べたい」


 ユリアが新しい保護紙を広げた。

 私は、空欄の上に書かれた番号を控えた。名前を書く場所には、何も足さなかった。

 代わりに、その下の言葉を、一字ずつ写した。

 死亡は確認できず。いまだ帰らず。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。