幕間一 青い戸の名簿
ヴァルネ防衛戦から、およそ三千年後。
私は、旧市街資料館の展示ケースを覗き込んでいた。
中にあるのは、防衛戦で亡くなった人々の記録だ。兵士、市民、傭兵。身分ごとに人数が並んでいるが、一人ひとりの名前までは書かれていない。
「別の名簿は残っていないのかな」
私が呟くと、付き添いのユリアが答えた。
「公開されている資料には、ないそうです」
「なら、地下を見よう」
「エレナ様。今夜は宿へ戻るお約束ですよ」
「調べ終わったらね」
「昨日も、そう仰いました」
窓の外では雨が降っていた。資料館はもう閉まっている。私は今夜の調査許可証を手に、地下へ向かった。
この資料館の地下には、古代の街並みが発掘されたまま保存されている。階段を下りると、灯りの先に石畳と、崩れた家々の壁が見えた。
私が調べたかったのは、その一角にある工房跡だった。
古代の人々を救護した、ルクサリア救済会。その印が工房跡にあると、発掘調査の報告に記されていた。
私は以前、山中に残る救済会の遺跡で、一本の黒いナイフを見つけている。ほかの施設を調べれば、あの遺跡についても何か分かるかもしれない。
「あれだ」
石の戸口に、青い塗料が残っていた。
戸板は失われている。解説札には《青い戸の工房。経営者不明》とあった。
私は戸口の前で足を止めた。
もうすぐ誰かが出てくる。
なぜか、そう思った。だが、戸の向こうにあるのは崩れた壁と土だけだ。
「どうなさいました」
「……何でもない」
私はしゃがみ、石枠を調べた。
二つの手が、一つの灯火を受け渡す彫刻がある。山中で見たのと同じ、救済会の印だ。その下には、短い刃の形をした溝があった。
腰の鞘から黒いナイフを抜く。溝に重ねると、刃の形がぴたりと合った。
細い光が彫刻を縁取り、石枠の奥で、かちりと音がした。
工房の床の一部が浮き上がる。その下に、階段が現れた。
「このナイフ、鍵でもあったんだ」
私は刃を引き抜き、ユリアと顔を見合わせた。
許可証を取り出して、文面を示す。
「……許可証には、地下の調査と書いてあるよ?」
「地下がもう一つあるとは、お伝えしていませんよ」
そう言いながら、ユリアは先に灯りを差し入れた。
*
階段の先には、古い救護所が残っていた。
壁際に炉があり、石の台には薬をすり潰す鉢が置かれている。奥の小部屋には棚が並び、蓋をした箱が納まっていた。
箱には《ヴァルネ戦災記録》とある。
私は蓋を開けた。布に包まれた帳面が出てくる。表紙の文字は、《灯火帳》。
添え書きによれば、傷んだ古い記録を、何代にもわたって書き写して残したものだった。
ユリアが机に布を敷く。私はそこへ帳面を置き、そっと開いた。
最初の頁から、人の名前が並んでいた。
仕事。亡くなった場所。家族や知人から聞き取った、その人の話。
元奴隷と書かれた人もいる。名前が分からない人については、服の特徴や、最期に付き添った人の証言が記されていた。
「こっちには、残っていたんだ」
地上の展示では、人数しか分からなかった。その一人ひとりについて、この帳面は記録している。
ただ、証言者の署名も、指の印もなかった。最初の頁に、理由が書かれている。
《王へ提出する名簿にはしない。本人や家族の署名、拇印は集めないこと》
当時の王が、署名や拇印の付いた名簿を集め、人々を兵として呼び出そうとしていたことは、地上の展示で読んだ。
この帳面を作った人たちは、名前を残しながら、王に利用されるのを避けようとしたのだろう。
私は次の頁をめくった。
そこで、青い戸の工房についての記録を見つけた。
*
《ティロ。染色職人。
ヴァルネ防衛戦で負傷し、死亡。
証言者は姉のミレア》
私は、その下の文章を読んだ。
弟を亡くしたあと、ミレアは小さな工房を借りた。戸を青く塗り、弟が買っておいた金具を取り付けた。
入口には木札を掛けたという。
《ティロ、染色職人》
工房を始めたのは、姉だった。
けれど入口に掲げたのは、弟の名前だった。
私は階段の方を振り返った。さっき見た青い塗料が、目に浮かぶ。
あそこに、姉が立っていたのだ。戸を塗り、弟の買った金具を付けていた。
「工房の持ち主が分かりましたね」
ユリアが、私の手元を照らした。
「うん。ミレアという人のお店だった」
記録には、当時の木札の文字も写してあった。その横に、別の筆跡で一文が添えられている。
《死者一名と記すな。名はティロ》
私は、その名前へ顔を寄せた。
「ティロ」
声に出して、読んだ。
「染色職人、ティロ」
三千年前、この人を知る誰かが、名前を残した。それを写した人がいて、さらに写した人がいた。今日、私はその名前を読んでいる。
頁の角が、少し裂けていた。
私は手を止めた。ユリアに保護紙を出してもらい、傷んだところへそっと差し入れる。
「地上の解説札、直してもらわないと」
「経営者不明、のところですね」
「姉の名前も、弟の名前も載せてもらおう。何のために青い戸を残したのか、分かるように」
ユリアが頷き、二人の名前を調査用の紙に書き留めた。
私は、帳面の余白に小さな印を見つけた。
黒い短刀の絵だった。
ほかの頁にも、同じ印がある。そのそばには、死者を調べる人への注意が書かれていた。
《遺体を粗末に扱うな》
《名が分からない者も、記録から外すな》
書き手の名前は、線を重ねて消してある。
「誰が書いたんだろう」
私は、腰へ戻したナイフに触れた。印の短刀と、よく似ていた。
*
帳面の終わりには、別の名簿が綴じられていた。
工房の記録より、ずっとあとの日付だ。長い戦が終わったあと、仲間たちの消息を確かめた記録らしい。戻った者。別の街で暮らし始めた者。墓の場所が分かった者。
一人ずつ番号を振り、行方が分かるたびに書き足してある。
ところが、最後の一人だけ、名前の欄が空いていた。
その下には、こうある。
《死亡は確認できず。いまだ帰らず》
名前を知らない人なのだろうか。
そう思って余白を読むと、同じ黒い短刀の印のそばに、注意書きがあった。
《この者の名は、何度書いても消える。空欄のまま写すこと》
私は、もう一度読んだ。
名前を知らなかったのではない。
知っていても、書き残せなかった。書き手は、そう伝えようとしている。
「消える、とは……」
ユリアも声を落とした。
前の頁を見直す。ほかの人の名前は、どれも読める。ティロも、ミレアも。この一人だけが、空白になっていた。
私はそこを見つめた。
不意に、誰かの顔を思い出せそうになった。
「あ――」
口を開いた途端、その感じが消えた。
「エレナ様?」
誰だったのか。
何を言おうとしたのかさえ、分からない。
私は額に手を当てた。たった今まで読んでいた名前は、思い出せる。ティロ。ミレア。けれど空欄を見た瞬間に浮かんだものだけが、どこにもなかった。
「……少し、待って」
ユリアは何も訊かず、机の脇へ椅子を寄せてくれた。
私は腰を下ろし、注意書きを最初から読み直した。
末尾には、続きがあった。
《名は残せなかった。帰っていない者が一人いることだけは、残す。
ほかの記録は、ルクサリア本院の封印庫へ》
「この人たちは、忘れたくなかったんだ」
空欄にしたのは、その人を記録から外すためではない。
名前を書けなくても、いなくなった一人を捜し続けるためだった。
「三千年前の方ですよ」
ユリアが静かに言った。
「うん」
「今も、生きているとお考えですか」
私には分からない。
けれど、この頁を捨てなかった人たちは、死んだと決めつけずに残したのだ。
「まず、帳面を守ろう。ティロの頁も、この頁も、きちんと写して持ち帰る。それから、本院の記録を調べたい」
ユリアが新しい保護紙を広げた。
私は、空欄の上に書かれた番号を控えた。名前を書く場所には、何も足さなかった。
代わりに、その下の言葉を、一字ずつ写した。
死亡は確認できず。いまだ帰らず。




