第45話 帰ってくる場所
「蓋をしても、いいか」
レトが尋ねると、ミレアは弟の袖を引いた。手首が隠れるまで伸ばし、縫い目を指で押さえる。寒くないようにと寝台で整えていたのと、同じ手つきだった。
包囲が解けて三日目。西の城門を出た墓地に、街の死者を納めた木棺が並んでいた。ロウラは荷車に横たわり、背を布の束で支えられている。右腕は上がらず、左脚の添え木も外せない。診療助手のマティアが、脇腹の包帯に血が滲んでいないか確かめた。
棺の中のティロは、診療所で見たときより顔が細く見えた。もう寒いとは言わない。姉の指が頬に触れても、目を開けなかった。
ミレアは弟の掌から《染まり石》を取り、小さな戸金具と一緒に袋へ入れた。
「これは、あたしが持ってる」
レトへ頷くまで、しばらくかかった。棺の蓋が下りる。ロウラは、もう一度顔を見せろと言いかけた。ミレアが両手を膝へ置いたのを見て、口を閉じる。
レトは木札を持ち、死者の名を読んだ。
聞いたことのない名にも、誰かが顔を上げた。隣の棺の前には、幼い娘を抱いた女がいる。娘が蓋を叩こうとする手を、女が胸へ引き寄せた。ロウラはそちらを見られなくなり、レトの声だけを聞いた。
「グラウコ。石工」
北壁で市民兵を逃がした男の棺へ、職人たちが頭を下げる。壁の下から運び出すまでに、丸一日かかったという。
リネアはレトの足元にいた。焦げた翼を畳み、名が読まれるたびに尾を下ろす。近くで誰かが泣いても、そこを離れなかった。
「ティロ。染色職人」
ロウラは棺へ顔を向けた。この街で職人として働き、自分の給金で戸金具を買った子だ。姉を庇って死んだと聞いた者にも、布の色を話し始めると止まらなかった顔を、知っていてほしかった。
青は、乾くと違う色になる。続きは明日と、自分が止めた話だった。
棺が墓穴へ下ろされ、ミレアが一握りの土を落とす。弟の顔があった場所で、土が木を叩いた。ミレアは空になった掌を見つめ、次の土を取れずにいた。
ロウラも土へ手を伸ばせない。レトが掌に載せようかと尋ねたが、首を振った。拳を振れなくてもできるはずのことまで、人の手を借りるのが嫌だった。
ミレアが振り返る。何も言わず、荷車の縁へ手を置いた。その指に土がついている。
「レト。あたしの分も、落としてくれ」
土が棺を叩く音を、今度は途中で目を逸らさずに聞いた。
*
翌日の昼、ロウラは東門の内側へ運ばれた。将軍が帰されると聞き、自分でも見届けたいとレトに言ったのだ。マティアは長居をさせないことを条件に、荷車についてきた。
王国軍の副官アウルスと評議会が、捕虜交換の条件を決めていた。街はマルケルスと捕らえた兵を返し、王国軍は包囲中に捕らえた市民兵を帰す。退く兵が市民へ報復しないことも、撤退の条件に入っていた。
ナザルは門の脇に立ち、戻ってくる市民兵へ声を掛けていた。カッシウスが名を照らし合わせ、縄の跡のある手首を見た診療所の者が、すぐ布を巻く。
将軍の担架は、市民兵の最後の一人が門へ入るまで動かなかった。
マルケルスの左肩は固定され、胸にも包帯が巻かれていた。担架から起き上がれない男と、荷車から立てない自分。ロウラはその顔を見ても、勝った気がしなかった。
「また、来るのか」
マルケルスの目がこちらへ向く。
「王命が変わらなければな」
ロウラの歯が噛み合った。命令を書いた王は、ここにいない。この男には聞かせられる。ティロの名も、ミレアの泣く声も。けれどそれを言えば、死んだ子の名まで、相手を責める道具にしてしまいそうだった。
墓穴へ落ちた土の音が戻ってきた。帰した男が、また壁へ兵を送る。その下に誰がいるかを知っていても。
「次は門を壊す」
マルケルスが言った。
「次も止める」
言い返した声で脇腹が痛んだ。男は礼も謝罪も口にしない。アウルスが担ぎ手へ合図を出す前に、ロウラは呼び止めた。
「帰った兵を殴るなよ。こっちで飯を食ったからって」
「捕虜になったことでは罰さん」
ロウラは男の口元を見た。捕虜を罰しないという約束を信じても、この男への怒りは消えない。ここへ置いておきたかった。それでも、将軍を返すという取り決めで、市民兵は帰ってきた。その交換を、自分の怒りで壊したくはなかった。
門の外で、将軍が一度だけ顔を上げた。壊れた石と、洗っても残った血の跡を見る。担架は東街道へ向かい、灰色の軍旗の後ろへ遠ざかった。
戻った市民兵の一人へ、子供が駆け寄った。膝へしがみつかれた男が、痛そうに顔を歪めてから、子供の頭を抱く。
ロウラは、二人が門を離れるまで見ていた。
*
診療所へ戻ると、ロウラは寝台へ移された。マティアが右腕の支えを直し、左腕の包帯を巻き直す。
「左膝に添え木、左腕の縫合、脇腹の裂傷の人。次の旅には、私もついていきます」
「あたしには名前がある」
「顔で覚えられないんです。今は傷の方が確かなので」
「治ったらどうすんだよ」
「そのとき、また教えてください」
ロウラは返事に困った。マティアは包帯を巻く手を止めず、続ける。
「私は剣を持ちません。怪我人を運び、手当てをします。旅に出られる身体か決めるのは、医師のイレネ先生です。明日出ると言われても、ついていきません」
「まだ何も言ってねえ」
「言う前に、聞いてもらいました」
戸口で、コルヴォが荷車の車輪を外していた。縄職人で、市民兵でもある。北壁でも、この荷車でも、彼の結んだ縄に何度も助けられた。
「俺も入りたい。縄と車輪は見られるし、槍も使える」
車軸を拭く指が、途中で止まった。
「縄作りの親方を、北の壁でなくした。ここで直しても、また壊されるなら、外で何が起きてるか知りたい。次は、壁が落ちる前に」
コルヴォは車輪の縁を撫で、割れた箇所へ新しい木片を当てた。話している間にも直す場所を探している。ロウラは彼の手を追い、返事を探した。
その間に、若い女が戸口から窓へ目を移した。扉、窓と指で数え、椅子を扉の近くへ寄せる。
エナだった。マニウスに閉じ込められていた自由民の一人で、助け出されてからも、出口を確かめずには座らない。
「私も行く。街道宿で働いてたから、移送の荷車がどこで馬を替えるか知ってる。人を閉じ込める裏の厩も」
エナは戸口を塞いでいたコルヴォへ、少し退いてと手を振った。
「剣は持たない。道を探すし、逃げる準備をする。捕まってから助けに来てもらうより、捕まる前に逃がしたい」
「助けたからって、入らなくていいぞ」
ロウラが言うと、エナの眉が寄った。
「恩返しじゃない。同じ荷車に乗せられる人を減らしたいの」
三人の顔を見ようとして、ロウラは右肩を動かした。痛みが走り、マティアに押さえられる。
ティロを守れなかった団へ、また人を入れる。昨日の棺を思うと、頷くだけでは済まない気がした。
寝台の足元でリネアが顔を上げる。
「三人とも、もう働いてたよ」
ロウラは猫を見た。入れたら守らなければと思っていた。その三人が今、腕の手当てをし、荷車を直し、担架の通る道を空けている。
「団に入っても、戦わない二人を前へ出すなよ」
エナの声に、ロウラは頷いた。
「また誰かが死ぬかもしれねえ」
言ってから、ロウラは三人の目を見た。マティアは包帯を巻いた腕を離さない。コルヴォは車輪を膝へ置き、エナは口を結んで頷いた。
「だから、逃げる道も探すの。無理なら、私は引き返せって言う」
エナの返事を、ロウラはすぐには飲み込めなかった。逃げ遅れた者がいても引き返せと言うのか、聞きたくなった。その判断をする前に、危ない道へ踏み込むのを止める声もある。今から聞く耳を塞ぐわけにはいかなかった。
「分かった。三人とも、一緒に行こう」
コルヴォが車輪を持ち上げた。マティアは包帯を留め、エナは椅子から立って、廊下へ出る担架に道を空けた。
*
夕方、ミレアが荷物を取りに来た。
「旅には、ついていかない」
袋へ畳んだ衣服を入れながら言う。ロウラは、引き止める言葉を探さなかった。昨日の墓地から一人で戻った彼女へ、まだそばにいろと言うのは自分の都合だった。
「ファルコ商会の仕事、続けるのか」
「うん。壁を直す人の仕事着も、繕い直すものが山ほどあるって。その給金を貯めて、工房を借りる」
袋から小さな戸金具が出た。ミレアは汚れを袖で拭い、弟の石を包んだ布の横へ置く。
「あの青い戸の?」
「戸も、まだないけどね」
ミレアは、石の包みへ手を置いた。
「朝、二人分の飯をもらいかけたの。いつもあの子が先に腹を空かせるから。戻してもらったら、配ってる人まで泣いちゃって」
そこで唇が止まった。二人分の衣服を詰めた袋を見下ろし、弟の上着だけを取り出す。青い袖を膝へ広げた。
「一人なら、狭いとこで足りる。そう言いかけるのが嫌でさ。広いとこを借りたって、あの子は帰らないのに」
ロウラは、工房ができたら楽になるとは言えなかった。自分が殴れる敵の話へ逃げることもできない。
ミレアは上着の襟を整えた。涙が落ちたところを、指で押さえる。
「あたしが、そこで働きたい。あの子と話した工房で」
弟の望みだからではなく、自分の望みを口にするまで、彼女は何度も衣服を畳み直した。
「帰ってきたら、寄ってよ。戸は青くするから」
ロウラは、包帯の巻かれた腕を見た。治ったら出ていく。街を出ればまた戦うかもしれない。その先に寄る場所を、自分はまだ考えていなかった。
「あたしの服も、直せるか」
「破れたら持ってきな。仕事だから、金は取るよ」
「分かってる」
ミレアは上着を袋へ戻した。《染まり石》も戸金具も、その上に納まる。しばらく椅子に座ったあと、袋を抱えてファルコ商会へ帰っていった。
ロウラは窓から、通りを曲がる姿を見送った。工房の戸は、まだない。いつかそこを訪ねるために、自分の傷も治さなければならなかった。




