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第44話 座れよ、姉ちゃん

「街への攻撃をやめろ。負傷兵を連れて退け」


 マルケルスは、縄を巻かれた両手を腹の前へ置いていた。左肩は落ちたまま、工兵に支えられなければ座ってもいられない。


 地下通路の退避口で、ロウラは担架へ下ろされた。右腕を持ち上げようとして、指だけが動く。男を縛った縄を確かめることも、もう自分ではできなかった。


 ナザルが口述し、カッシウスが将軍の撤退命令を木札へ記した。工兵の一人が命令を敵陣へ届ける。もう一人と将軍は、街の捕虜として残す。


「外の兵にも、従わせろよ」


 ロウラが言うと、マルケルスは顔を上げた。


「もう一度攻めろと言っても、兵は動かん。飯も金も届かんからな」


 東門への突入は失敗した。北壁でも、崩れた瓦礫が後続を止めている。給金を奪われた傭兵は、二度目の攻撃を拒んでいた。


 レトと市民兵が担架を持ち上げる。頭上で、内扉を押さえていた兵たちが声を掛け合った。扉はそのままだ、負傷者を先に運べ。新しい敵を知らせる叫びは、もう聞こえない。


 ロウラは将軍から目を外した。寝かされた男の横へ、新しい担架が通る。担ぎ手の袖に、敵の印があった。


 さっきまで戦っていた兵が、今は同じ戸を通る順番を譲っている。


 *


 白壁診療所では、寝台を置く場所が足りなかった。


 ロウラの担架が廊下へ入ると、壁際でミレアが顔を上げた。弟のティロの手を握っている。二人とも、染色と縫製の職人としてこの街に残るはずだった。


 ティロは右脇腹をかばい、膝を曲げていた。唇が乾き、姉が布で拭う間も、腹へ当てた手を離さない。


「何があった」


「北の壁が落ちて。この子があたしと荷車を押し出して、腹に石が当たったの」


 ミレアは弟の手を見る。ティロが薄く目を開けた。


「姉ちゃんは、当たってない」


「聞いてねえよ、お前のことだ」


 ロウラの声に、ティロは口の端を上げようとした。途中で腹を縮め、息を止める。笑わせてどうする。ロウラは次の言葉を飲み込んだ。


 診療助手のマティアが、二人の担架を奥へ運ばせた。ロウラは隣の寝台に移され、切られた脇腹へ布を押し当てられる。右腕も板の上へ載せられた。


「この腕で、何をしたんですか」


「殴った」


「見れば分かります。今は動かさないで」


 マティアはティロの腹へ手を当て、医師のイレネを呼んだ。二人が低い声で話す。外へ血は出ていないのに、イレネは寝台から離れなかった。


 奥の部屋には、腿を刺されたバルクも、脇腹を刺されたフェレンスも運び込まれていた。医師を呼ぶ声に、洗った布を絞る音が重なる。窓際ではカッシウスが、運ばれた者の名前と行き先を書き留めていた。


「腹の中を傷めているかもしれない。ここで様子を見ます」


 ミレアが頷く。ロウラは弟の顔を見た。目は開いている。姉へ返事もしている。自分も傷だらけで、ここまで帰ってこられた。それが、あの子も助かる理由になる気がした。


「明日、色の話、聞かせろよ」


 ティロの目がこちらへ向く。


「青にも、いろいろあるんだ。染める前と、乾いたあとでも違うし」


「明日だって言ったろ」


 いつもなら姉が止める長話だ。今はミレアも黙って聞いている。布の話なら、明日も明後日も聞ける。痛みが引けば、また姉が止めるはずだ。


 昼を過ぎ、ナザルが戸口へ来た。


「敵が引いた。東も北も、負傷者を荷車に積んで退いてる。本営の天幕も畳んだ。包囲は終わった」


 街を囲んでいた王国軍が、去っていく。


 誰かが廊下で泣き出した。隣の部屋からも、終わったのか、と声がする。ミレアがティロの額から髪をよけた。


「もう石は飛んでこない。帰ったら、着替えようね」


 ティロの汚れた袖には、染め汁の青が残っていた。


 *


 午後、診療所へ折れた剣の旗が入ってきた。


 旗を畳んでいた男が、寝台の前で止まる。闘技場で何度も聞いた声がした。


「来たぞ」


「遅い」


 ディオンが笑った。ロウラも笑おうとしたが、口が歪んだ。生きていると聞くのと、顔を見るのとでは違った。言いたかったことが、どれも喉で詰まる。


 肩を叩こうとしたディオンの手が、包帯の上で止まった。


「どこなら触れる」


「触ったら、治療代はあんた持ちな」


「払わせるのか」


「生きてた祝いだ。払え」


 小さく笑って、胸が痛んだ。ディオンは手を引き、寝台の脇へしゃがんだ。南水門から、奪った給金と残りの麦を運び入れたという。旗の下で戦った《折れ剣》の仲間は、荷の受け渡しと負傷者の搬送に回っていた。


「麦は、もっと持ってくるつもりだった」


「人夫を助けたんだろ」


「ああ。袖を焼いた奴も、医者に見せた」


 ロウラは頷いた。旗の切れた鎖へ手を伸ばしかけ、動かない腕へ目を落とす。ディオンが布を少し広げ、見える位置へ置いた。


 どこにいたんだと怒鳴るつもりだった。あたしだけ何も知らなかったと、文句も言うつもりだった。旗を置く手に増えた傷を見て、言えなくなる。別々の場所で、二人とも生きてここまで来た。


「そっちの連中は、お前についてくんだな」


「行き先を選べるようになるまで、俺が連れていく。お前の団とは、別だ」


 前と同じ声だった。大勢を外へ走らせた男が、まだその先を歩いている。


「ここまで来たんだな」


 ディオンが寝台と、隣のティロを見た。


「門が開いても、今日は寝てろ」


 ロウラは返事をしなかった。敵がいなくなった街を、自分の足で歩きたかった。隣の二人と、染め川の工房まで行ってみたかった。


 ディオンが搬送の手伝いへ戻ると、リネアが戸口から歩いてきた。焦げた翼を畳み、口にくわえた布包みをミレアの足元へ置く。


「北の壁のとこに、落ちてたよ。コルヴォと探したの」


 包みには、ティロのレリック《染まり石》があった。染め汁へ浸すと、布を乾かしたあとの色を見せる小石だ。工房で働いていたとき、何度も指で転がしていた。


「なくしたと思った」


 ティロは石を掌に載せてもらった。握った指は、すぐ緩む。


「青い戸の工房で、また色を見るんだ」


「覚えてる。金具も買ったものね」


 ミレアは荷物から小さな戸金具を出し、石の隣へ置いた。初めて得た給金で、弟が買ってきたものだ。まだ借りてもいない工房の戸へつけるつもりで。


「先に家賃だって、言ってたろ」


「だから、無駄にしないように働くの。あんたも早く治しなさい」


 ティロが頷いた。ロウラも頷きかけたとき、弟の顔から笑みが消えた。


「姉ちゃん。寒い」


 ミレアが毛布を引いた。額には汗が浮いている。さっきまで姉の指を追っていた目が、天井の一点から動かない。


 イレネが手首を取り、マティアが腹へ触れる。ティロが低く呻いた。右脇腹だけでなく、腹全体が張っている。


「腹の中で、血が出ている」


 イレネの声に、ミレアが弟の衣服を見た。


「でも、血なんて、どこにも」


「外へ出ず、中へ溜まるんです」


 ミレアがマティアの腰袋へ目を向けた。


「あの針は。ロウラの腕を縫った……」


 マティアは赤黒い針を出した。《赤糸の縫い針》は、縫った傷を開かせない。ロウラの腕を守っていた針だ。


「傷口を縫い留める針です。身体の中の傷へは、届きません」


 マティアは針を置き、ティロの胸へ耳を寄せた。


 冷えた手足へ温めた布が当てられる。イレネは手首を離さず、短くなる息の間に名前を呼んだ。ミレアは医師の手元を追い、言われる前に布を渡した。何かをしている間だけ、弟が遠くへ行かずに済むように。


 ロウラは寝台の縁へ指をかけた。指は曲がるのに、肘が上がらない。足を下ろそうとすると、添え木が隣の寝台へ当たった。


「起こせよ。あたしも、何か」


 レトが二つの寝台の間へ入り、ロウラの脚を戻した。


「ここにいろ。ミレアのそばに」


 ここにいたって血は止まらない。そう怒鳴りかけて、弟の手を握るミレアを見た。彼女は右手の指貫を何度も撫でていた。布の綻びを見つけるレリックで、弟の腹を見ようとしている。


 指貫は、何も示さなかった。


「ティロ、こっちを見て。目を閉じないで」


 ミレアが顔を近づけると、ティロの目が少し動いた。


「姉ちゃん、座れよ。休憩も、賃金のうちだろ」


「座るから。ここにいるから」


 弟の手を離さず、ミレアが椅子へ腰を下ろした。


 ティロは何か続けようとした。唇が開き、息だけが漏れる。掌の石が、布の上へ転がった。


 マティアが名前を呼んだ。イレネが胸へ手を当て、息を確かめる。ロウラは口元を見続けた。さっき動いた。次も、動く。


「ティロ」


 姉が呼んだ。


 返事はなかった。イレネが長く手首を取り直したあと、ミレアへ顔を向けた。


「亡くなりました」


 ミレアは頷かなかった。


「今、喋ったのに」


 弟の手を自分の頬へ当てる。握り直しても、ティロは握り返さなかった。


「家賃、まだ払ってないよ。あんたの金具、使ってない」


 言葉の途中で、ミレアの顎が震えた。


「勝手に、置いてくんじゃないよ……!」


 ロウラは自分の拳を見た。敵の将軍を、あの拳で助けた。ティロはここにいるのに、触れるだけの手も上がらない。


 あいつを助ける暇があったなら。


 考えた瞬間、腹の奥が冷えた。将軍を殺しても、この子の中の血は止まらない。誰かを殺せば取り返せるように、したかったのだ。


 ミレアが弟へ顔を伏せた。ロウラは唇を開いたが、何も言えなかった。街を守った。自由になった。そんな言葉を、今、この姉へ渡せるものか。


 リネアが寝台へ上り、ティロの袖を白い前足で押さえた。


「青いの、まだついてるよ」


 返事を待つ猫の背へ、レトがロウラの動かない手を載せた。温かい。ミレアの泣く声が、すぐ隣で続いている。


 レトが白い布を持ってきた。ミレアは弟の掌へ石を戻し、小さな戸金具を握ったまま、首を横に振る。


「もう少し。このままで」


 レトは布を畳み、足元へ置いた。


 ロウラはレトへ顔を向けた。


「あたしの寝台は、ここに置いとけ」


 隣で、ミレアがティロの手を握り直した。ロウラは、その手が離れるまで一緒にいた。

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