第43話 拳の行き先
槍先が、添え木の隙間へ来た。
左膝を引こうとしても動かない。縫われた左腕を伸ばしかけ、傷が引きつって戻した。ロウラは左壁の石台に腰を押しつけ、右拳を斜め下へ振った。狙うのは、穂先が次に通る場所だ。
何もないはずの空間が、拳を押し返す。歯を食いしばって押し切った瞬間、掌ほどの黒い罅が開いた。
槍の穂先が、罅に触れて裂けた。尖った鉄が右壁の溝へ落ちる。残った付け根は軌道を逸れ、石台を削ってから添え木を叩いた。
膝の奥で痛みが弾けた。腰が浮き、背を石台へ打ちつける。罅はもう消えていた。槍を壊しても、突かれた勢いまで消えたわけではない。
右腕が重い。指を開くと、針を刺されたような痛みが肩まで走った。
マルケルスは折れた槍を引いた。盾を裂いた罅も、槍を裂いた罅も、拳の前にしか出ていない。男の目が通路の広さを測り、それからロウラの下がった腕へ戻った。
まずい。どこを殴れないか、もう気づいた。
将軍は槍を捨て、腰の短剣を抜いた。裂けた盾を斜めに構える。中央の穴をこちらへ向けず、残った鉄板で顔と胸を覆った。
「その腕は、あと何度上がる」
「そっちの盾よりは、もつさ」
軽く言ったつもりだった。握り直した指が震え、マルケルスの視線がそこへ落ちる。言わなければよかった。
将軍の背後で、工兵が鉄棒を鎖止めへ戻した。もう一人が両手で棒に体重をかける。左壁の鎖が張り、ロウラの背に巻上げ軸の振動が伝わった。止め具を外されれば、内扉を動かされる。
殴る相手は目の前にいるのに、止めたい手には届かない。背後の退避口では、最後の担架が戸を抜けた。レトが振り返る。助けを呼べば、あの狭い戸から兵が入ってくる。将軍の短剣の届くところへ。
「そこで待ってろ!」
ロウラは戸口へ叫び、右手を持ち上げた。
マルケルスの盾が動いた。下の縁が、拳を押し下げに来る。
ロウラは腕を引き、顎を守ろうとした。盾は途中で向きを変え、顔へ迫った。右手で縁を受ける。その下から、短剣が腹へ伸びた。
拳は上にある。腹の前へ罅を出すにも、そこまで腕を戻さなければならない。線が開くのは一瞬だけだ。先に振って待ち構えても、刃が来るころには消えてしまう。
腰を石台の端へずらした。短剣が脇腹の衣服を裂き、皮膚を切る。傷んだ肋骨をねじったせいで息が途切れ、盾の重さが右肘へかかった。
上を防げば、下へ来る。下へ拳を向ければ、盾が頭を潰す。あの黒い線を見ても、この男は止まらない。
将軍の目は細く、口元は固い。ロウラの動かない脚と、遅れた腕だけを見ている。
勝てると思った。拳の前で盾が裂けたとき、こいつを倒せると。そのわずかな浮かれを、腹の熱い痛みが押し流した。
短剣が引かれる。次の突きが来る前に、右手を盾の縁から外した。盾を上げた将軍の脇腹が空いている。腕を下げる勢いのまま、そこへ拳を叩き込んだ。
黒い罅は出なかった。拳は鎧の継ぎ目を打った。
マルケルスの足元から白金の光が噴いた。床に刺さった二本の巨大な楔が燃え上がり、鋼を打つ音が通路へ響く。巻上げ軸も、壁の鎖も、光の中で白く浮かび上がった。
男は一歩も退かなかった。けれど、肘が脇腹へ寄った。短剣の先が下がり、歯の間から血の混じった息が漏れる。
動かせないだけだ。殴っても傷つかないわけじゃない。
右手には、鎧の下の骨へ届いた硬い感触が残っていた。あたしの拳はまだ効く。男の胸が浅く上下するのを見て、肘を引きつけた。
盾へ当てる力を、今度は鎧の外へ出ている場所へ向ければいい。
喉なら届く。
そこまで考えたところで、マルケルスが盾を立て直した。穴の空いた中央ではなく、硬い縁をロウラの拳へ向ける。短剣を持つ手は震えていたが、刃先は胸の高さへ戻った。
「工兵、続けろ」
命じた声が掠れた。
鉄棒が軋み、鎖止めの下から石の粉がこぼれた。台の脇に積んだ修理用の支柱が鳴る。背を預けた台も震え、梁から赤い粉が落ちてきた。グラウコが引いた線だった。
ここは殴るな。その声を思い出す。台の背後にある壁は、巻上げ軸だけでなく梁の端も支えている。台を壊して鎖ごと止めようとすれば、頭上の守備通路まで落とす。まだ戦っている味方を下敷きにしてしまう。
右の深い溝には誰もいない。そこへ将軍を押し落とせればと思ったが、足元の楔は石に刺さったままだった。
右の溝と将軍の盾の間には、人一人が横向きで通れる細い床がある。そこから工兵へ手を伸ばせば、将軍の短剣へ脇腹を晒す。
短剣が、ロウラの目の高さで小さく揺れた。目を狙う振りだ。顔を覆えば、次は膝か腹へ来る。
盾の向こうの肩を見た。刃が上を向いていても、肘は体に寄せてある。ロウラは拳を顔へ上げず、胸の前に残した。
予想どおり、短剣は下へ返った。
手首の内側を拳で打つ。刃が逸れ、火花を散らして石台の割れ目に噛んだ。その瞬間、盾の下縁が右前腕を台へ押しつけた。
殴り返そうとした腕が、石と鉄の間で止まる。
マルケルスは左腕で盾を押し続け、短剣を引き抜こうとした。押す足は動かない。ロウラが右脚で床を蹴っても、盾は戻らなかった。
靴の底が石粉で滑る。腰が台から落ちかけ、ロウラは背を擦りつけて体を戻した。左膝から腹まで痛みが繋がる。ここを外れれば立てない。押し合いを続ける余裕はなかった。
顔が近い。額から垂れた汗が、男の眉を濡らしている。こちらを見据えた目に、傷ついた肋骨をかばうためらいはない。
短剣が台に挟まっているうちだ。
ロウラは押さえられた手首を返し、盾の割れた穴から鉄の縁を掴んだ。ひねる。将軍の足は動かなくても、盾を持つ腕までは固定されていない。
盾が傾き、右腕が自由になった。マルケルスが盾を戻そうとする。ロウラは縁から手を離し、男の顎の横に出ている首筋を見た。
工兵の鉄棒が、深く下がった。鎖止めが壁から浮く。あと一度押せば外れる。
六人が倒れて守った扉を、ここで開けさせるのか。北壁から帰ってこない石工の手を思い出す。あの手は、あたしが背を預けている台まで直していた。
マルケルスが石台から短剣を抜く。今、この男を殺さなければ、戸口のレトにも同じ刃が届く。血を吐いた兵を運ぶ手が、また足りなくなる。
将軍の後ろで工兵が腰を落とした。
もう待たない。盾を上げさせる前に、首を潰す。罅が出なくても、この拳ならできる。血が噴いても、手を止めない。
ロウラは石台へ背を押しつけた。右脚で体を支え、右肘を引く。狙いは男の首だ。
そのとき、壁の中で石が割れた。
工兵の鉄棒が跳ね、鎖止めが壁の石ごと抜けた。その上に積まれていた石がずれ、梁の左端が支えを失う。梁が傾き、上の床が大きく沈んだ。
崩れた石が巻上げ軸へ噛み込み、鎖が止まる。工兵が振り仰いだ。梁は二人の上へ落ちてくる。
靴音が乱れた。守備通路にいる兵が、落ちかけている。
マルケルスはロウラの拳から目を外した。
短剣を捨てる音がした。盾も落ちる。男は両手を頭上へ突き出し、落ちてきた梁を受けた。
「兵が逃げるまで、俺はここを守る!」
足元の楔が、一度消えた。
次の瞬間、白金の光が天井まで吹き上がる。打ち直された光の楔が床へ突き刺さり、傾く梁の下で、黒鉄の脛当てが眩しく燃えた。
梁は止まった。マルケルスの肩から、嫌な音がした。両足は固定されたまま、左肩だけが低く沈む。腕で受けた重さを、光が代わって支えてくれるわけではない。
首を狙った右拳は、まだ胸の横にあった。
鎧のない首筋が、こちらへ開いている。このまま当てれば殺せる。
マルケルスが倒れれば、上の守備兵は床ごと落ちる。その梁が、地下の工兵二人を押し潰す。
男の口が歪んだ。傷ついた脇腹を伸ばして梁を押し上げ、こちらを見もせず、工兵へ顎をしゃくる。
「出ろ!」
ロウラは歯を噛み合わせた。腹の傷が熱い。こいつがつけた傷だ。剣を捨てたからといって、消えるものか。男の首を見たまま、拳を前へ出しかけた。
男が支えている梁の右端は、途中から折れて垂れ下がっていた。その部分が溝沿いの細い床を塞ぎ、先端は無人の溝の真上へ突き出している。工兵は将軍の脇を抜けられない。
折れ目の赤い線が、ロウラの手の届くところにある。垂れた部分だけを切り離せば、床が空く。男が支える梁の本体は残せる。
「頭、下げろ!」
マルケルスが顎を引いた。ロウラは首筋から梁の折れ目へ狙いを変え、右拳を振った。
拳が空間へ食い込む。音が途切れた。
拳の前の空間が割れ、黒い罅が梁の赤い線を横切った。張り出した端が裂け、右の溝へ落ちる。深い底で石が砕けた。
残った梁は、まだ将軍の手の上にある。
ロウラの右腕が落ちた。肘を曲げようとしても、指が動くだけだった。梁の下へ手を貸すことも、自分の腰を持ち上げることもできない。
「レト! あたしを引け! こいつも!」
工兵二人が身を縮め、空いた溝沿いの床を通ってロウラの横まで来た。上では靴音が遠ざかる。
「台の脇の支柱を、梁の下へ!」
レトが市民兵へ指示し、ロウラの腰を抱えた。兵が支柱を二本立て、梁を受ける。マルケルスが手を離した。左腕は脇へ垂れ、持ち上がらない。
白金の楔が消え、男の膝が折れた。すぐ横にいた工兵二人が、その体を抱き止める。
工兵の一人が床の短剣へ手を伸ばす。
「拾うな」
マルケルスが止めた。血のついた唇を結び、ロウラへ顔を向ける。
「降伏する。兵には手を出すな」
ロウラは動かない右手を見てから、男を見た。
「武器を置かせろ。全員だ」
将軍が頷いた。工兵二人が腰の刃物を床へ置く。レトが短剣を拾い、別の市民兵が縄を持って入ってくる。傷めた肩を後ろへ回すことはできず、将軍の両手は腹の前で縛られた。
ロウラはその刃が、マルケルスの手から遠ざかるまで見ていた。自分の拳は、まだ握れなかった。




