第42話 百の先にある拳
夜明けの角笛が鳴った。東門の外扉へ、最初の衝撃が来る。
地下通路へ運ばれた荷車の上で、ロウラは右手を開いた。指は動く。左膝は添え木から外せず、息を深く吸えば肋骨が軋んだ。
「止まるぞ」
レトが車輪を押さえ、市民兵二人がロウラを下ろした。右脚が震える。見られたくなくて、腰の高さの石台へ背を押しつけた。
外扉と内扉の間の広場へ敵を入れ、背後の格子を下ろす。後続を遮断し、壁上から石と砂を落とす作戦だ。
広場脇の階段は、この地下通路へ続く。左壁には内扉を動かす鎖と巻上げ軸があり、ロウラの背の石台が軸を支えていた。
「ここへ工兵を入れたら、内扉を開けられる」
ロウラが入口を指すと、レトは脇の小さな戸を開けた。街側へ出る退避口だ。戸の前には荷車と担架を残してある。
「お前を出す道も、塞がせない」
「担架なんか、先に見せるなよ」
「使わずに済むなら、俺も嬉しい」
笑い返そうとして、胸を押さえた。
頭上の守備通路を支える梁から、白い粉が落ちた。昨夕、石工頭のグラウコが赤い線を引いた割れ目がある。右壁の足元には鎖の動く深い溝。修理のため蓋が外されていた。
レトが味方を溝から離れた側へ寄せる。ロウラは入口を見た。相手を追えない。ここへ来る敵しか殴れない。
階段の上で、参謀フェレンスが黒鉄のレリック《戦果の天秤》を掲げた。
「合図から百を数える間、東門の内扉を王国軍に開かせない。代価は、参加する六人の戦闘不能です」
フェレンス、盾を構えたバルク、壁上のユーデと三人の守備兵。六人は代価を聞いて、一人ずつ了承した。
石と砂で敵を足止めし、盾で内扉を守る。その作戦は、百を数え終わるまでは必ず成功する。ただし、成功の代価として、守りを担う六人全員が戦えなくなる。
「死なないって意味じゃねえんだな」
バルクが確かめた。
「はい。傷の程度までは選べません」
ロウラは右手を石台から離した。
「あたしも入れろ」
「あなたは、百の後にここを守る人です」
その百の間に、広場へ入った先頭部隊を崩す。内扉さえ開かなければ、後続も街へ入れない。
フェレンス自身も盾を持ち、内扉前へ降りていく。
六人が倒れた後、自分が動けなければ終わる。それでも、了承する声を聞いているだけの右手が嫌だった。
ロウラはその手を、膝の上へ戻した。
*
北壁では、修理した石の継ぎ目へ投石が当たった。
攻城塔は水路にはまったままだ。王国兵は塔を捨て、水路へ板を渡して梯子を運んできた。壁上で市民兵の槍とぶつかる。
壁の内側で、グラウコは木の退避階段を見た。石壁が傾き、階段の柱まで引き剝がされかけている。
「上を空けろ! こっちの階段へ来い!」
縄職人のコルヴォが、歩けない兵を救助縄へ結んでいた。《最後の結び目》で結び目は守れる。縄を掛けた柱まで、守れるわけではない。
北壁脇で、包帯の荷車が石に引っかかった。ミレアが振り返り、ティロが荷車の後ろへ回る。
「置け! 壁から離れろ!」
ミレアの真上で、壁の石がせり出していた。
「姉ちゃん、前へ!」
ティロは荷車の横木へ肩をぶつけた。車輪が石を乗り越え、姉と荷車が路地へ飛び込む。
壁から落ちた石が、ティロの右脇腹を直撃した。
鈍い音がして、体が横へ弾き飛ばされた。肩から石畳へ叩きつけられ、口から粥を吐き出す。腹を抱え、踵で地面を掻いた。息を吸おうとしても喉が鳴るだけで、声にならない。
「ティロ!」
ミレアは弟の両脇へ腕を入れ、路地へ引きずった。抱き起こそうとすると、ティロが身をよじる。右脇腹をかばい、姉の腕の中で丸まった。
「動かないで。人を呼ぶから!」
弟は浅い息を繰り返し、姉の袖を掴んだ。
「歩ける。肩、貸して」
立とうとして膝が折れた。ミレアが抱え直すと、彼は歯を食いしばって足を出す。二歩目でまた崩れ、姉へ体を預けた。
服をめくっても、血は出ていない。ミレアは弟の腕を肩へ回し、腰を支えた。ティロは腹を曲げたまま、足を引きずって路地の奥へ進んだ。
階段の上には、まだ三人いる。柱の根元の楔が抜け、段板が下へ沈んだ。
グラウコが柱へ肩を入れ、楔を拾った。槌で打ち込む。指の上へも鉄が落ちたが、手を退ければ楔がずれる。
「親方、もう無理だ!」
最後の兵を下ろしたコルヴォが叫ぶ。
「縄を外せ! そいつを引いて逃げろ!」
「あんたは!」
「俺が離れりゃ、階段が落ちる!」
上の三人が、沈んだ段へ足を置いた。一人が転び、後ろの兵が襟を掴む。グラウコは傾く柱を肩で押し返し、最後の足が地面へ着くまで槌を打った。
コルヴォが兵を路地へ引き込んだ。
グラウコが肩を離し、柱から退こうとした。傾いた石壁が、その背へ落ちてきた。
槌の音が止まる。
石壁と木階段が、グラウコの上へ崩れた。コルヴォは路地から戻りかけ、降り続ける石に前を塞がれた。槌を持っていた手も、もう見えなかった。
瓦礫が、敵が街へ下りる道を埋めた。梯子で上った兵も引き返し、後続が止まった。
コルヴォは救助縄を握り、立ち尽くした。
*
東門の外扉が破れた。
先頭の盾には、王国軍の将軍旗と同じ印がある。マルケルス自身だった。彼が広場へ進むと、後ろでためらっていた兵も続く。
踊り場のリネアが、ロウラへ伝えた。
「将軍が、いちばん前だよ」
将軍は兵を置き去りにする。ナザルが流したその嘘で、後ろからの約束は信用されなくなったのだろう。男は本当に兵の先に立った。
「格子を下ろせ!」
フェレンスの合図で黒鉄の格子が落ちた。外に残った兵は入れず、内側の兵は盾を頭上へ重ねる。
「一、二、三」
フェレンスが数え始めた。
数える声の上から砂が降った。盾の隙間へ入り、兵が顔を覆う。石を落とす滑車は止まらず、射撃孔からの矢が盾の外へ出た腕を射た。
二十を過ぎ、守備兵の一人が矢を受けた。三十で別の兵が盾で殴られ、折れた腕を垂らす。砂桶を返した三人目は、壁際の梯子から突き上げられた槍に肩を貫かれた。
上から指示していたユーデが、梯子を上った敵を見つける。叫んだ直後、盾で突かれ、低い足場から落ちた。救護役が彼の脇へ膝をつく。
「六十!」
階段の踊り場で、リネアが復唱した。焦げた翼を壁へ寄せ、広場から届く矢を避けている。
「六十だよ! まだ、閉まってる!」
内扉前では、バルクの盾が押し込まれた。膝を曲げ、背を扉へつけて支える。フェレンスがその脇から剣を出し、地下へ降りようとする工兵を退けた。
バルクの腿へ槍が刺さる。盾が傾いた場所へ、フェレンスが自分の盾を重ねた。
「八十」
バルクが引きずられて退避口へ来る。庇おうと腕を伸ばしたロウラを、血のついた手が押し返した。
「前、見てろ」
レトたちが彼を運び出した。入口から目を離していた自分へ、ロウラは歯を食いしばった。
「九十七、九十八」
マルケルスがフェレンスの盾を割った。参謀はなお剣を構えたが、槍が脇腹へ入る。倒れた体を守備兵が引き寄せる。
「百!」
リネアの声が裏返った。
内扉は閉じていた。六人は全員倒れ、その時間を守り切った。
最後の石が落ち、広場の敵兵が散った。内扉への攻撃が止まる。その中で将軍は地下の入口を見つけ、工兵を集めた。
マルケルスは地下へ転じた。工兵を連れ、階段を下りてくる。上ではヴァレリアと近衛が後続を押し止め、サビナの退避指示が響いた。
ロウラの前に、盾と槍が現れた。
その背後の工兵が、壁際の鎖止めへ鉄棒を差し込む。将軍の横を抜けなければ、作業を止められない。狭い通路には回り込む場所がなかった。
「そこを退け」
マルケルスが槍を向ける。
「退いたら、後ろの街へ行くだろ」
ロウラは右脚で支え、石台へ腰を預けた。レトたちは背後の兵を退避させている。右の溝には誰もいない。
短い右拳を出す。盾の表面が凹んだ。
将軍は半歩下がり、槍を添え木へ向けた。払おうと腕を下げた瞬間、盾の縁が肋骨へ入る。
息が止まり、腰が石台から滑った。右脚で支え直す。踏み込めず、拳へ体重を乗せられない。
マルケルスが、黒鉄の脛当てをつけた両脚を踏み据えた。
「工兵が内扉を開くまで、俺はここを守る」
脛当ての縁が白金色に燃えた。足元に二本の巨大な光の楔が現れ、石床へ突き刺さる。鋼を打ち込むような音が、通路に響いた。
《不退の楔》。守る場所を定めれば、外からの力では動かされない。
ロウラは盾を掴み、右脚で床を蹴って押した。将軍の外套は揺れた。足元の光は、指一本ぶんもずれない。
拳を盾へ叩き込む。鉄板がへこみ、反動がロウラの肩まで返った。光の楔に挟まれた両脚は、床に根を張ったように動かなかった。
階段の上から、伝令の声が届く。
「北の後続は止まった! グラウコさんが、壁の下に!」
昨日、ここは殴るなと槌の柄で石台を叩き、割れ目へ線を引いていた手を思い出した。
北へ行くことも、瓦礫を退けることもできない。六人が倒れる音を聞き、その先で街まで失うのか。
「開けさせるかよ!」
ロウラは右拳を振った。盾へ届く前、何もない場所で、拳が押し返された。
闘技場の地下で、心臓石を殴ったときにもあった感触。
その抵抗ごと、腕を押し出した。
音が消えた。
拳のすぐ前に、黒い罅が走った。盾の表面ではない。何もない空間が、掌ほどの幅で割れている。
罅に触れた盾の中央が裂けた。拳はその裂け目を抜け、将軍の鎧へ当たった。
マルケルスの足は動かなかった。口元だけが歪む。工兵が鉄棒を引き抜き、割れた盾を見た。
ロウラも自分の拳を見た。黒い線はもうない。肩まで痺れが走り、右腕が下がる。
傷は治っていない。左脚も動かない。
将軍は裂けた盾を持ち直し、槍先を低くした。今度は、動かせない左膝を狙っている。
ロウラは石台へ背を戻した。震える右手を、もう一度持ち上げる。
あの盾は、拳が触れる前に割れた。
次に殴る場所を、ロウラは槍先と自分の間に定めた。




