第41話 払われない銀貨
「今、ディオンって言ったか?」
ロウラは寝台の上で身を起こした。添え木を当てた左膝が動かず、肋骨の痛みで声が掠れる。
朝の北門詰所へ来た使いの女は、泥のついた布を広げた。折れた剣と、柄に巻かれた切れた鎖が描かれている。
「《折れ剣》の旗だ。頭領は、ルクサリアから逃げた剣闘士ディオン。王国軍の補給隊を何度も襲ってきたのは、うちの連中だよ」
闘技場で剣を折り、奴隷たちを外へ走らせた男。ロウラは旗の切れた鎖へ指を伸ばした。
「生きてるんだな」
「口が減らなくて困るくらいね。あんたがこっちにいると知って、これを届けろってさ。団の名は《鎖を断ち、折れた剣を掲げる者たちの解放戦線》って、最後まで言えともね」
「名乗ってる間に、敵が逃げるぞ」
葬儀屋のレトが言うと、女は笑った。
「だから、誰も言わない」
女は夜明けに、捕虜と小舟で南水門へ入っていた。
「今日、最後の大きな補給隊が東街道を通る。麦と傭兵の給金を積んでる。ディオンたちは、その荷を奪うために、石橋の先で待ち伏せしてるよ」
奪った麦は、支流の小舟で街へ送る。物資担当のセヴァンが配給の木札を数え直した。焼かれた倉の麦を、ようやく補えるかもしれない。
「成功したら、西の尾根で烽火を三つ上げる。鐘で、見えたと返してくれ」
女は二枚の木札も渡した。捕らえた傭兵が持っていた、前回の給金の控えだ。会計役のカッシウスが並べる。軍から隊長へ渡った給金と、隊長が兵に払った給金の額が、別々に記されていた。
「今日の荷車を逃せば、敵は飯も給金も手に入れる。包囲を続けられるってことだ」
カッシウスが言った。
「あたしも橋へ行く」
右足を床へ下ろす前に、レトが寝台を押さえた。
「徒歩で二時間以上だ。途中で傷が開いたら、誰がディオンまで運ぶ」
ロウラは旗から手を引いた。顔を見て、どこで何をしてたと怒鳴ってやりたい。口を開きかけたが、ナザルとカッシウスの包帯が目に入った。
詐欺師のナザルは脇腹をかばって椅子へ座り、腰帯の鈴を押さえた。レリックが鳴らないよう、包んだ布を直す。
「前回の給金が二十人分、兵に払われてない。捕虜に聞いてみよう」
「調べて、どうすんだよ」
ロウラは木札を指した。
「今日の荷車を奪っても、『次は払う』で兵は待つ。前の金まで隊長が盗んでたと知らせれば、その約束を信じなくなる。城へ攻めてくる兵を減らすんだ」
女に伴われた捕虜は、片足を引きずっていた。傭兵隊の給金係だという。別の荷車への襲撃で捕らえられ、傷の手当てのため街へ送られてきた。
男が拳を開くと、掌に小さな青銅の徽章があった。隊長からもらった、所属する隊の印だという。
*
石橋の向こうでは、荷車の列が坂へ差しかかっていた。
道の両側は林で、荷車が横へ逃げる余地はない。先頭の二台が坂を上がったところで、ディオンは折れ剣の旗を上げた。
林から飛び出した者たちが、荷馬の手綱を取る。横から綱をかけ、先頭の車輪を引いた。荷車が斜めに止まり、後ろの列を塞ぐ。
「金の箱は前から三台目! 人夫は林へ逃がせ!」
護衛の槍兵が三台目を囲んだ。ディオンは仲間の盾の脇から槍の柄を掴み、穂先を道端へ向けさせる。別の仲間が荷台へ上がり、箱を縛る縄を切った。
後方から、火が上がった。
護衛の兵が、奪われる前に麦の荷へ油をかけていた。燃えた袋が崩れ、隣の車へ落ちる。炎に驚いた荷馬が暴れ、荷車が倒れた。荷台に脚を挟まれた人夫が叫んだ。
「麦を下ろせ!」
袋へ伸びた仲間の手を、ディオンが掴む。
「先に、あの人を助ける!」
四人で荷台の縁を持ち上げた。人夫を引き出す間に、火は三台の麦へ移った。持ち上げていた仲間の袖にも燃えつき、皮膚が剝ける。
人夫を林へ運び、仲間の焼けた腕へ布を巻く。街へ持ち帰るはずの麦は、その間も燃えていた。
金の箱は林へ引き込まれていた。ディオンたちは残った麦を担ぎ、負傷者に続いた。
燃える荷車が道を塞ぎ、護衛はその手前で隊列を立て直した。ディオンは追わせず、奪った荷と人を連れて林の奥へ退いた。
*
「この二十人、死んだと書いてあるが?」
昼が近づく北門詰所で、ナザルは木札の名を読み上げた。
「軍は隊長に全員分の給金を渡した。だが、隊長は二十人を死んだことにして、その分を兵に払わなかった」
ナザルは二十人の名のうち、三つを指で叩いた。
「街へ逃げてきた人夫に聞いた。昨日の朝、このうち三人に粥を配ったそうだ。少なくとも、この三人は生きてる」
「書き損じだ」
給金係は徽章を握り込んだ。ナザルは木札の金額を指した。
「残った二十人分は、隊長の懐だろ。次の金で埋め合わせられると思って、黙ってたのか」
「何を知ったような」
「お前が受け取った金まで調べられたら困るのか?」
男が椅子を鳴らした。
「俺は一枚も取ってない!」
ロウラは男を見た。怒っているのに、徽章を胸へ寄せた手が震えている。
「その隊長に、何をしてもらったんだよ」
給金係はロウラの脚の板を見て、視線を下げた。
「前の戦で倒れた俺を、背負って帰った。あの人がいなきゃ、俺はそこで死んでた」
誰かの背から見た道を、ロウラも覚えている。恩を忘れろとは言えなかった。男は口を閉じ、木札を机の端へ押し戻した。
そのとき、壁上の兵が西の尾根を指して叫んだ。
「烽火だ! 三つ!」
城の鐘が一度ずつ、三度鳴る。
「もう、金は来ない。お前の仲間は、次の戦いも空腹で、無給だ。誰が取ったかも知らないまま」
「隊長のことは話さない。お前らに売る気はない」
薄暗い詰所の机に、油皿があった。カッシウスが包帯の手を膝へ下ろす。腰のあたりで指が動き、すぐ止まった。
火は揺れなかった。机の下から大きく曲がった影が伸び、男の椅子にかかった。
給金係の拳がほどける。徽章が机へ落ちた。
「あいつに助けられたことは、覚えてる」
男は徽章へ指を置いたまま、ナザルを見た。
「隊長をかばうのは、もうやめる。二十人分の給金を盗んだのは、あいつだ。お前らに全部話す」
カッシウスが手を机へ戻し、ナザルと一瞬だけ視線を合わせた。二人はすぐ男へ目を戻した。
給金係は、死者とされた二十人も全員、生きていると話した。
「俺は、うちの連中へ言いに行く。お前らの団に入るんじゃないぞ」
「そうか。なら、もう一つ聞いておけ」
ナザルは声を落とした。
「輸送の護衛から聞いたんだ。退却になれば正規兵を先に帰す。傭兵には給金を払ったことにして、最後まで敵を食い止めさせるってさ」
給金係の顔から血の気が引いた。
「将軍も、俺たちを捨てるのか」
「後ろの天幕で約束されても、俺なら信じないね」
男は木札を受け取り、徽章も拾った。カッシウスはその徽章を見た。ナザルが門衛へ男の帰還を告げる。
レトが杖を渡した。敵の弓が下がったのを確かめ、門衛は小門を開けた。
「護衛から聞いたって、本当か」
ロウラが聞くと、ナザルは門へ目を向けた。
「嘘だ。護衛からそんな話は聞いてない」
「あの男は、本気で仲間を助けに戻ったんだぞ」
「だから帰すんだ。仲間なら、城の上から俺が叫ぶより信用される。横取りの話は本当だ。そのあとに聞く嘘まで、信じやすくなる」
ロウラは門を見た。足を引きずる背中は、もう見えない。あの男は仲間を守るために戻った。その口へ嘘を入れたのだ。引き止めればよかったのか。敵へ帰るなと言えば、守りたい相手を奪うことになる。
左腕の包帯を撫でた。あたしなら嫌だと言いたい。その嘘で、街の人を刺す槍を減らせるのなら、どうすればいい。
ナザルは寝台へ向き直った。
「俺たちを殺しに来る連中だ。まとまったまま攻めてこさせる気はない」
ロウラは返す言葉を見つけられなかった。戸口にいた黒い猫のリネアが寝台へ戻り、膝に上った。焦げた翼を畳み直す。
「ぼく、あの人が歩いて帰れるとこまで見たよ」
「そうか」
白い前足が、ロウラの指の間へ入った。
*
午後、王国軍の本営へ、補給隊の護衛が戻った。
麦の大半は焼け、今日払うはずの給金は全て奪われた。ディオンの襲撃で、王国軍への補給は途絶えた。陣に残る兵糧も、もうわずかだった。荷を集めて送り直しても、届く前に兵は飢える。
給金係の話は、他の傭兵隊にも広まっていた。
将軍マルケルスの前へ、給金を求める傭兵隊長が集まった。二十人分の金を盗んだ隊長は、部下に問い詰められていた。
給金係は、その隊長の後ろにいた。杖を握り、将軍から目を逸らさない。別の隊長が、将軍へ一歩近づいた。
「金もねえのに、俺たちだけ最後まで残れっていうのか」
「そのような命令は出していない」
「なら将軍、あんたが先に入れ。後ろからなら、何とでも言える」
マルケルスは東門を描いた板を引き寄せた。外扉も内側の守りも弱い。街側の偽情報を、まだ信じていた。兵が飢える前に、門を破らねばならない。
給金の約束だけでは、兵は従わない。自分が先頭へ出て、兵を置き去りにしないと示すしかなかった。
「給金は必ず払う。だが、待てば兵が飢える。明朝、北壁と東門を同時に攻める。俺は東門の第一波へ入る。退くときは、俺が最後だ」
「あんたが先なら、一度は攻める。失敗したら、金を待たずに帰るぞ」
傭兵の隊長がそう告げて、天幕を出た。
*
夕刻、南水門から焼け残った麦が届いた。セヴァンは、人夫が脚を怪我し、《折れ剣》の一人が腕に火傷を負ったと伝えた。
配給の椀を満たす麦は足りない。ロウラは使いの女へ旗を返した。
「会ったら、傷を医者に見せろって、二人に言えよ」
レトが寝台の脇へ荷車を寄せた。東門で、敵の旗が増え始めているという。
ロウラは左脚を載せる場所へ畳んだ布を置いた。あの男が戻った陣から、また槍が来る。右手を開いて閉じ、荷台の縁を掴んだ。
「東門へ行く。どこで敵を迎え撃つか、見とく。揺らす前に言えよ」
返ってきたのは、荷台を固定する縄を締める音だった。




